別の豆知識で各メーカーが最初に作ったバイクを紹介しており、カワサキは1961年のB7という話をしたのですがこれが間違いでした。
カワサキが本当に初めて作ったバイクは川崎航空機工業が1953年末に出したこれ。
『川崎号』
何処からどう見てもスクーターという衝撃の事実なんですが、これだけで終わってしまうのも面白くないのでカワサキがバイク事業を始めるまでの歴史を駆け足ながら紹介。
カワサキは貿易商や海運業を執り行っていた”川崎正蔵”という人が海難事故に強い船を造ろうと1878年に
『川崎築地造船所』
を設立したのが全ての始まり。
しかし不幸なことに息子全員を早くに亡くしてしまい継がせる家族が居なかった。
そのため同郷であり恩人でもあった松方正義(第4代・第6代総理大臣)の三男である松方幸次郎に会社を託すことになります。
そうして跡を継いだ松方幸次郎は1896年に会社を株式会社へと変え
『株式会社 川崎造船所』
にします。これが川崎重工の前身です。
川崎という名を残した事に義を感じますが、株式化と同時に戦争特需に湧いていた造船だけに留めず
・鉄道車両
・タービン
・自動車
・飛行機
などなど事業の多角化も開始。これは松方が川崎を陸海空全てを担う会社にしたいという思いがあったから。
総理の三男という事からただのボンボンかと思いきや事業を順調に成長させ鉄道車両を『川崎車輛』として、川崎造船所飛行機を『川崎航空機工業』として独り立ちさせるまでに成長させ、残された川崎造船所も1939年に我々が知っている
『川崎重工業』
に改められました。
大まかに分けてこういう形です。
夢だった陸海空すべてに携わる重工を本当にやってのけたわけですね。
その中で川崎航空機工業が担っていたのは主に飛燕や屠龍などの戦闘機だったのですが、そのために敗戦と同時にGHQから工場を差し押さえれ操業停止。
民需産業への転換を条件に再開の許しが出たので歯車部門を皮切りに自動車やバスなど部品、そしてエンジン開発など航空で学んだノウハウを元に事業を展開するように・・・ちなみにホンダの下請けもやっていたとの事。
※補足:この時に社名を『川崎産業』へ一時的に変更しますが再び川崎航空機工業へと改名
そんな中で川崎航空機工業のバイク用に造っていたのは
KBエンジン:2st/50~60cc
KEエンジン:4st/150cc
KHエンジン:4st/250cc
で主に大日本機械工業という所へエンジン供給していました。
川崎航空機工業の名前が見当たらないのは大日本機械工業が川崎エンジンなのに自社開発と謳っていたから。
なんてやつだと思うわけですが、そんな大日本機械工業も100社以上が犇めき合っていた時代の競争に破れ1953年にバイク事業から撤退します。
大口を無くしてしまった川崎航空機工業だったのですが、大日本機械工業でバイク事業をやっていた人が新たに
『川崎明発工業(通称メイハツ)』
という大日本機械工業に変わるバイク(組み立て)メーカーを設立し川崎航空機工業はそこに供給するようになります。
川崎と名が付くものの(カワサキエンジンを自社ボディに取り付ける)製造は東京で、川崎航空機工業が出資したと言われていますが完全子会社ではなかった模様。
こうして川崎航空機工業はメイハツにエンジンを供給し
『メイハツボディ×川崎航空機エンジン』
のバイクとして東京を中心に販売し好評を得るようになるわけですが、市場の拡大と好評からだんだん川崎明発工業のキャパをオーバーするようになってきた。
そこで川崎航空機工業は1959年に単車部を社内に設け、自社による一貫生産及び販売を計画。1960年に目黒製作所と提携し1961年に始動する事となります。
その時に誕生したのが『カワサキ自動車販売』という今で言う所のモーターサイクル&エンジンカンパニー。
自動車という名前になっているのは軽自動車も売るつもりだったから。
結局マツダなどに先を越されたため計画は廃止となりました。残念。
それはさておきカワサキ自動車販売として始動し、初めて販売したのが自社(明石)工場で全て造ったメイハツ設計のB7。
ちなみに横に映っているのは1961年に発売されたカワサキPETと呼ばれるモペットで現在のカワサキが最初に一から開発したモデルはこれ。
「カワサキって川崎重工じゃなかったのか」
と思われるかも知れませんが、このあとすぐそうなります。
1969年に国際競争力を付けるために川崎重工、川崎車輌、そして川崎航空機は合併するんです。
こうして今のカワサキに至るという話。
もともと川崎航空機工業の大株主も川崎重工だったんですけどね。
最後にもう一度本題に戻しますが
「B7が最初ではなく川崎号が最初だった」
という話なんですが、いま説明してきた経緯を見れば何故これが出たのかも分かりますよね。
川崎号が出た1953年に何があったか。
『大日本機械工業の撤退』
ですね。
当時バイクメーカーは100社以上もあり戦国時代で大日本機械工業もすでに思わしくなかった。
巨大な工場を維持するために規模の経済を活かし高額な物を大量に造って売るしかない川崎航空機工業にとってもこれは軽視できる問題ではなかった。
そんな中で当時はスクーターという乗り物がバイクモーター(自転車にエンジンを取り付けるタイプ)よりも高性能な高級バイクとして富裕層に人気があり、三菱重工のシルバーピジョンが飛ぶように売れていた。
戦闘機のノウハウを元にエンジンはもちろんバスやトラックなどでモノコック技術にも秀でいた川崎航空機工業が造らない手は無いですよね。そうして誕生したのがこの川崎号というわけ。
正真正銘の明石製で性能も
・2st/58.9cc
・2ps
・足踏切替式2速ミッション
・テレスコフォーク
・最高時速45km
と当時としては優れたものを持っていました。
・・・が、売れなかった。
見落としていた言い訳でもあるんですが、この川崎号は国内総生産台数が16万台ほど時代に
「たった200台ほど」
しか生産されず終わってしまったんです。
理由は軍事産業により培ってきたネームバリューはあったものの、コンシューマ(一般消費者)の販路を持っていなかったから。
何処で買えるのかも、何処で修理してもらえるのかも、そもそも川崎航空機工業がそんな物を造っている事すら一般消費者には知るすべが無かったから兵庫近辺でしか売れなかった。
これがカワサキのバイクメーカーとしての第一歩。
最初から自社で売るのではなくメイハツと二人三脚の道を選び、またバイクメーカーとして本格始動する前年に全国に販売網を持つメグロと提携したのも川崎号の教訓があったからなんでしょうね。
※カワサキのバイク事業が出来るまでのザックリな時系列
【1953年】
バイク用エンジンを開発/販売
大口だった大日本機械工業がバイク事業から撤退
『川崎号』を開発/販売するも販売網が無く不振に終わる
【1954年】
大日本機械工業の後釜として明発工業を設立(出資/提携)
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【1959年】
川崎航空機工業内に単車部が出来る
【1960年】
目黒製作所と提携し販売網を確保
【1961年】
明発工業経由をやめ自社による一貫開発/販売を始める
カワサキPET及びB7を発売
【1963年】
カワサキ初の完全新設計オートバイB8を発売
レースで活躍したことでカワサキの認知度が向上
【1964年】
目黒製作所の業績不振によりカワサキが吸収
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【1969年】
川崎重工、川崎車輌、川崎航空機工業が合併し川崎重工に
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【1972年】
川崎重工が900Super4(Z1)を発売
参考資料
カタログで振り返る日本のスクーター
国産オートバイの光芒
世界モーターサイクル図鑑KAWASAKI-I