戦争とバイク ~第一次世界大戦編~

第一次世界大戦のバイク

皆なにかしらで勉強していると思われる代表的な戦争である第一次世界大戦と第二次世界大戦。

戦争における乗り物というと戦艦や戦車それに戦闘機がよく話題になりますが、バイクも多かれ少なかれ関係しているというか現存するバイクメーカーの歴史を遡るとほとんどが何かしらの形で関わっています。

という事で

「誰もが知るバイクメーカーが戦争にどう関わり、どういう結果になったのか」

という事を痴がましい話でもあるんですがザックリ書いていきたいと思います。

今回は1914年から約4年間に渡って欧州を中心に起こった第一次世界大戦について。

これに最も深く関わった皆が知るメーカーはこれ。

トライアンフ

イギリスのトライアンフです。

トライアンフはユダヤ系ドイツ人のジークフリード・ベットマンという人物がイギリスに渡りドイツ製ミシンそしてイギリス(ウィリアムアンドリュー社)製自転車を販売する貿易会社を立ち上げたのが始まり。

その際に自転車を”ベットマンサイクル”という名前で売っていたのですが

「何処製の自転車か分からない」

という問題からイギリス製である事をわかりやすく表現した

『トライアンフ(勝利)サイクル』

という商品名に変えたのが名前の始まり。

トライアンフサイクルス

しかしすぐに世界初の量販車であるヒルデブラント&ウォルフミュラー社のモーターサイクルが発売されたのを見て

「次の時代に来る乗り物はこれだ」

と考え同じくドイツ人のモーリス・ヨハン・シュルツというエンジニアと二人三脚で1902年に”ナンバー1”というオートバイを開発・・・というのが簡単な流れ。

モデルH

そうしてバイクを製作するようになり、またマン島TTに挑戦する事でメキメキと頭角を現した所で第一次世界大戦が勃発。

その時トライアンフは偶然にも

『Model H』

というペダルのない正真正銘の自社製モーターサイクルの開発に成功した頃でした。

モデルH

これに目をつけたのがイギリス軍。

「Model Hが性能試験に合格したので100台供給しろ」

という要請が入りトライアンフが承諾。Model Hベースの軍用バイクを製造しフランスの対ドイツ戦線へ送り込むことに。

そこで有用性が証明されると自国だけではなく連合国にも供給するようになり結果的に分かるだけでも

『イギリス軍2万台、連合軍1万台』

を第一次世界大戦の間だけで供給しました。

トライアンフのモデルH

ドイツ人が開発したバイクをドイツを倒すために大量投入という何とも言えない展開なんですが

・機動戦
・偵察や伝令
・伝書鳩などの運搬
・負傷兵の搬送

などで物凄い活躍したようで戦地の兵士たちの間で

「トラスティ(頼もしい)トライアンフ」

という愛称で呼ばれるほど絶大な人気を獲得するまでに至りました。

軍用モデルH

ただそれだけではなくこの活躍により

「トライアンフという所がバイクという凄い乗り物を造ってる」

という認識がイギリスだけでなく欧州中に広まった事でトライアンフは一躍欧州を代表するバイクメーカーに。多くの人がトライアンフのバイクという乗り物を求めるようになり、また多くの企業がトライアンフに続けとバイク事業に参入する時代へとなりました。

高性能&高価格だった事もあり戦後の世界恐慌で一度は経営危機に陥ってしまうものの比較的安価なモデルを出し

「あのトライアンフが自分でも買える」

と憧れを持っていた大衆に大ヒットし復活。

トライアンフFOR THE RIDE

「トライアンフは名門バイクメーカー」

と謳われているのをご存知の方も多いかと思いますが、その根拠は単に歴史が長いだけではなくこの第一次世界大戦での活躍という裏打ちされた歴史があるからなんですね。

第一次世界大戦でもう一つ紹介したいのがアメリカのバイクメーカー。

インディアンモーターサイクル

インディアンモーターサイクルです。

インディアンは1901年に自転車レーサーだったジョージ・ヘンディと技術者のオスカー・ヘッドストロムというレース好きの二人が立ち上げたバリバリのレースバイクメーカー。

今では想像が付かないかもしれませんが当時はアメリカ国内のレースを総ナメする世界最高性能のオートバイメーカーとして、また年間3万台超という驚異的な販売台数でアメリカを代表するバイクメーカーとして君臨していました。

ただそんなインディアンも第一次世界大戦が勃発すると性能が優れていたのでアメリカ軍から声が掛かり

『Power Plus(フラットヘッドエンジン)』

という新設計したばかりのフラッグシップモデルをベースにした軍用のオートバイ製造を開始。

インディアンモーターサイクル

公式によると1917~1919年までの間に約5万台以上も供給したとの事。ここまではトライアンフの流れとそう変わらないですよね。

「それでトライアンフみたいに名声を獲得するのか」

と思うんですが・・・インディアンはそうならなかった。

第一次世界大戦中の工場

インディアンはPowerPlusという新開発したプラットフォームの製造ラインをまるごと国に買い取ってもらう形を取るなど軍用バイクへ大きく舵を切りました。

この結果アメリカで何が起こったか・・・インディアンという高性能バイクが市場から消えてしまったんです。

米軍バイク

当時アメリカは一人勝ち状態となる経済成長が始まった頃で

『サイドカーに奥さん乗せてツーリング』

というのが富裕層の間でトレンドになっていた。

しかしどれだけバイクを欲しても軍が独占(インディアンが偏重)していたので買えない。だから富裕層はおあずけを食らうという悶々とした悩みを抱えていた・・・しかしそんな不満を解消するメーカーが現れます。

ハーレーダビッドソン

ご存知ハーレーダビッドソンです。

ハーレーは1901年に機械工学者の

『ウィリアム・シルヴェスター・ハーレー』

『アーサー・ダビットソン』

の二人が単気筒エンジンを造ってみたのが始まり。

そこから1907年に株式会社ハーレーダビッドソンを設立し、1909年には今ではおなじみのVツインエンジンの開発に成功。インディアンに対抗しうるメーカーとして既に頭角を現していました。

18F

もちろんハーレーも性能が良かったのでアメリカ軍から声が掛かり、18F/MODEL-Jなどの軍用バイクを供給していました。フランスへの派遣軍において約1.5万台が供給され大いに活躍したという記録があります。

モデルJ

しかしハーレーはインディアンほど軍にベッタリではなかった(本格的に供給し始めたのは晩年だった)ため市販車も出していた。アメリカ国内で売るモデルもちゃんと用意していたんです。

これが富裕層というインディアンの上客をゴッソリ持っていく結果に繋がった。

1917ハーレーダビッドソン

「インディアンは売ってないからハーレーにするか」

みたいな感じでハーレーがどんどん奪っていきインディアンと肩を並べるメーカーにまで成長。

インディアンというとハーレーとの競争に負けたメーカーというイメージを持っている人が多いかと思いますが、その契機となったのはこの第一次世界大戦なんです。

ちなみに

「何故トライアンフは成功し、インディアンは失敗したのか」

という疑問点ですが、これは恐らく民生品を禁止したかどうかにある。

少しマニアックな所になりますがイギリスはマン島パワーのおかげかJAP/AJSやマチレス、Nortonやロイヤルエンフィールドなども軍用バイクを大量に供給していたのですが同時に軍事目的以外でのバイク製造を禁止していた。

しかし一方でアメリカはハーレーが売っていた事からも分かるように禁止していなかった。両者の命運が別れた要因はここにあると思われます。

ハーレー軍用試験

最後になりますが量販オートバイ誕生からわずか19年後に起こった第一次世界大戦。

それまで限られた富裕層向けのオモチャでしかなかったバイクという乗り物の有用性を広く認知させるキッカケになったのはこの第一次世界大戦による活躍が少なからずあるかと。

参考資料
THE VINTAGENT(アメリカ国立公文書資料)
WORLD MC GUIDE DX|ネコ・パブリッシング

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