トヨタの名車として、またボンドカーとしても有名な2000GT。トヨタとヤマハと共同開発で、一説ではほぼヤマハが設計したと言われていますね。
当時フラッグシップと呼べるスポーツカーを持っておらず、ブランド力が低下していたトヨタを救った救世主ならぬ救世車です。
これが出たのは1967年の事なのですが、実はこの頃のヤマハのバイク部門は2st一辺倒で4stはやっていませんでした。
しかし主要市場だったアメリカを中心に
「2stは音が軽い、ビッグバイクといえば4stだ」
という認識が広まり始め2stでは戦えない状況になっていった。
そこでヤマハも開発途中だった2st四気筒のGL750というバイクの開発を一旦止め、4stビッグバイクの開発を再優先事項に。結局これはお蔵入りとなりました。
しかしながら小排気量の2stしか作ってこなかった中で
「4stのビッグバイクを急いで作れ」
というのは無茶な話。
そんな無茶を押し付けられたプロジェクトリーダーの井坂さんが、どうにかこうにかして作ったのがヤマハ初の4stであり初のビッグバイクでもある並列二気筒653ccのXS1-650です。
実はこれ2000GTのエンジンとバルブ系や挟み角が寸分の狂いもなく同じで、2000GTの直六エンジンから二気筒だけ切り取ったような形をしてる。
これは無理難題を解決するため同じ4stである2000GTを開発中だった同僚の安川さんと長谷川さんに教えを請いに行ったわけです。
もちろんそのままではなく信頼性のためSOHC化や、バイクの特性に合わせるために材質・形状やバルブリフト量などが変更されていますが、2000GTのエンジンが土台。
なんとか間に合わせたヤマハですが、コレがヤマハを救う事になります。
それはXS1が出た半年後の1970年末にアメリカでマスキー法(大気浄化法)という厳しい排ガス規制が敷かれる事が決まったから。
この規制(1972年施行)で2stは実質的にあと1年しか売れない状況になったわけです。上で紹介した2st四気筒のGL750がお蔵入りとなったのはこれが理由。
もしもヤマハが4stである2000GTの開発をしていなかったら、2000GTで4stの技術を学んでいなかったら、4stの開発は遅れ
「アメリカで売れるバイクが無い」
という絶対にあってはならない事態に陥っていた可能性が非常に高かった。
つまり2000GTに救われたのはトヨタだけじゃなく、ヤマハもそうだったという事。