現役を退いてからも宗一郎は忙しい毎日でした。
三度の飯より仕事が好き、散髪は工場で寝ている間に奥さんがする程の男だったためか、現役を退いたにもかかわらず気付くと会社に車を走らせていたことが数ヶ月も続いたそうです。
そこで宗一郎は全国の営業所にお礼参りの旅に出ることに。
その後もさらに本田財団、サイエンス財団、安全協会などを設立し社会貢献もしていきました。
その甲斐あってか自民党から東京都知事選の誘いが来たらしいのですが断ったそうです。
創業間もない頃の苦しい時期にあった議員からの融資の話も断るなど、政治には一切関わろうとしなかった宗一郎。
実はこれは宗一郎をずっと支えてきたサチ夫人から「政治には関わらないで」という数少ないお願いがあったからなんです。宗一郎は最後までちゃんと守り通したんですね。
そんな宗一郎も晩年になると若いころの無茶がたたったのか身体にガタが来始めます。糖尿病や脳血栓症といった病気を患い入退院の日々が続き日に日に弱っていきました。
更に悲しいことにずっと二人三脚でやってきた藤沢武夫が心筋梗塞により亡くなります。
遺体を見た宗一郎は人目もはばからずに号泣したそうです。
そしてその三年後の1991年、末期がんで容態が悪化し緊急入院。そして亡くなる二日前、サチ夫人におんぶして病室を歩くようにお願いをし
「浜松に帰ろう」
そう言い残しこの世を去ったと言われています。享年81歳でした。