第四章 スーパーカブの誕生

藤沢武夫

ホンダといえばカブ、カブといえばホンダ。
世界一売れたバイクというギネス記録を持っている名車オブ名車ですね。

そんなスーパーカブ誕生の経緯ですが、実は宗一郎は乗り気じゃありませんでした。

当時ホンダは倒産の危機を乗り越えては成長し、倒産の危機を乗り越えては・・・を繰り返していく内に何とか国内最大のオートバイメーカーと言われるまでに成長。

しかし宗一郎はそれに満足せず海外メーカー、言わば大型の高級バイクに対抗できる物を造ることに心血を注いでいた。

性能はもちろんの事、デザインもホンダ独自色を出していかないと考えていた宗一郎は日本が世界に誇る観光名所を片っ端から見て回りました。

そんな宗一郎によりデザインされたジャパニーズデザインバイクの第一号がこれ。

ホンダドリーム C70
-since 1957-

ドリームC70

ホンダ初となる二気筒エンジンのオートバイで、デザインのモチーフとなったのは何と神社。
鳥居をイメージした無骨な造形で宗一郎お気に入りの一作です。

「神社仏閣デザイン」と銘打たれたこのデザイン、宗一郎の力作で本人もお気に入りだったためしばらくはこのデザイン基調のバイクばかりが売られることになりました。

この様に宗一郎は大型バイク偏重でモペット(原付)は軽視気味でしたが、藤沢はもっと色んな人に親しまれ、台数が出るバイクを漠然と欲していた。

そこで藤沢は宗一郎を半ば強引にスクーターの聖地であるイタリアを始めバイク文化が根付いている欧州へ一緒に視察する事に。

そこで宗一郎が目にしたのは日常のみならず仕事の足として親しまれ、重宝されている大量のモペットでした。

ローマの休日

そして帰国した宗一郎が開発陣を集め発した一言

「今から蕎麦屋が乗るモペットを造る。つまり片手で運転できるモペットだ。」

これがスーパーカブの始まりです。

やると決めたからには徹底的にやるのが宗一郎。

オートマチックのミッション(自動遠心クラッチ)の開発はトライ・アンド・エラーの繰り返しで難航しました。

この時に誕生した宗一郎の有名な話が設計室に行く時間が惜しいとの事で地面に直接チョークで設計図を描いては皆で議論したというお話。

そして遂に完成したバイクこそが初代スーパーカブことC100です。

蕎麦屋のカブ

ちなみにエンジン周りを当時珍しかったプラスチックで覆う様にしたのは宗一郎の妻であるサチ夫人の提案で、「エンジンが鶏の臓器みたいで気持ち悪い」という一言で付けられました。

しかし結果的にこれが泥除け等の思わぬメリットを生むきっかけになり大ヒット要因の一つに。

完成されたC100を見た藤沢は

「これは売れる。三万台を目標に売ろう。月産で。」

と言いました。

ホンダC100

宗一郎を始め周りの人間は年三万台と思ったらなんと月三万台ということで静まり返ったそうです。

それもそのはず、当時の全てのオートバイの月産台数を合わせた台数でも二万台に満たない。
それをも上回る月産台数を掲げるなんて無謀としか言いようがありません。

しかし宗一郎は手を組んだ当初の約束である「お互いのやることに口出ししない」という事と、藤沢に全幅の信頼を置いていたため何も言わなかったそうです。

そして発売されたスーパーカブC100は初年度こそ10万台弱で目標に満たなかったものの、使い勝手の良さ、頑丈さ、速さが好評となり翌年には40万台を越える大ヒット。

スーパーカブ アメリカ

海外への輸出も始まるとトントン拍子に500万台、1000万台、1500万台とそれまでのホンダの何倍もの売上をもたらすことになり、世界一のメーカーへと駆け上がって行くことになりました。

系譜図
アート商会

第一章
自動車修理工場からの独立とトヨタの子会社化

東海精機

第二章
本田技術研究所の発足とA型の誕生

藤沢武夫

第三章
本田技研工業(現ホンダ)設立と藤沢武夫

鈴鹿工場

第四章
スーパーカブの誕生

本田宗一郎の引退

第五章
技術者として引導を渡された宗一郎

本田宗一郎の逸話・名言

終章
本田宗一郎の最期

本田宗一郎の逸話・名言

おまけ
後を託された歴代社長

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