後を託された歴代社長

ホンダCSR

先にも述べましたがホンダにはいくつかの決まり事があります。

その中でも特殊であり有名なのが

「社長は技術畑出身であるべき」

という決まり事。

そこで歴代ホンダ社長がどういう技術者だったのか振り返ってみたいと思います。

初代社長(1948~1973年)
本田 宗一郎(ほんだ そういちろう)

宗一郎

世界のホンダを一代にして築き上げた創業者で口癖は

「世界一じゃなきゃ日本一じゃない」

最期まで技術者として皆と寝食を共にしオヤジと親しまれた。

二代目社長(1973~1983年)
河島 喜好(かわしま きよし)

河島喜好

日本楽器(現ヤマハ)に入りたかったもののそれが叶わず本田技研に入社した初めてのエリート(現在でいう大卒)。

4st技術により初期のホンダを支え、また最初期のレース活動および北米進出の陣頭指揮を取り、45歳の若さで宗一郎と藤沢から直々に社長就任の命を受け、最初こそ技術者の身分で居たいと出社を拒否したものの就任。

全責任を追うプロジェクトリーダー制度や、上下関係を取っ払った協創作業の『ワイガヤ』を初めたのもこの人。

これは副社長だった藤沢に

「宗一郎が居なくなっても大丈夫なように、小さな宗一郎をいっぱいつくるんだよ」

とアドバイスされた事がキッカケ。

つまり実質的に今のホンダの基礎を作った非常に偉大な大功労者。

三代目社長(1983~1990年)
久米 是志(くめ ただし)

久米是志

入社と同時にマン島TTやフォーミュラーのエンジニアに抜擢され、更にはCVCCエンジンの開発者としても多大な活躍をされた方。

もてぎサーキットの建設もこの人がモータリゼーションを培うために決断したおかげ。

一方で水冷or空冷問題で本田宗一郎と大喧嘩を繰り広げこれまた出社拒否というエンジニアとしての熱も凄かった。

ちなみにASIMOやホンダジェットのプロジェクトを許可したのもこの人。

四代目社長(1990~1998年)
川本 信彦(かわもと のぶひこ)

川本信彦

飛行機が造りたかった中で本田宗一郎の

「飛行機を作らせてやる(大嘘)」

という言葉を信じて(半分騙されたような形で)ホンダに入社した方。

F1のエンジン開発責任者として活躍すると同時にセナとも仲良しだったものの、F1に魅せられすぎて撤退に納得できず辞表を叩きつけて出社拒否し自室でエンジンを設計していた(本人はコスワースに行こうと考えていた)経緯を持つ。

NSXとホンダジェットのプロジェクトを社長に直談判したのもこの人で、自身もVFR750R/RC30開発の直訴に対し

「好きにやっていいよ」

と社長権限で市販化を許可した事でも有名。

五代目社長(1998~2003年)
吉野 浩行(よしの ひろゆき)

吉野浩行

東京大学工学部航空学科出身という超エリート。

入社理由は川本さんと同じで川崎重工に入るつもりだった。

ちなみにCBXやNRで有名な入交さん(初代HRC社長でSEGAへ転職しサクラ大戦をプロデュースした後に社長に就任)とは同期生。

東大の講演に呼ばれた際に

「大学で学ぶことは何の役にも立たない」

と言い放ち大学から落胆されたエピソードがある。

六代目社長(2003~2009年)
福井 威夫(ふくい たけお)

福井威夫

F1をやりたくてホンダに入り、実際に第三期F1の指揮を取った方。

それ以外にもWGP責任者としてNR500/NS500/RVFなどの開発/監督/総責任者を歴任し、HRCの社長にも就任したバリバリのレース畑出身者。

自らもF1マシンやRC211Vでデモンストレーションを行い「世界一速い社長」の異名を取る。

ちなみに父親は戦艦大和の開発技師として有名な福井静夫さん。

七代目社長(2009~2015)
伊東 孝紳(いとう たかのぶ)

伊東孝紳

NSXのシャーシを周りの反対を押し切ってオールアルミ化したエピソードを持つお方。

NSXが再登場したのは間違いなくこの人の差し金なものの、リーマンショック時には後継の開発中止という苦渋の決断をし開発チームを説得して回った苦労人でもある。

車の開発が中心だったものの実は大のバイク好きで、愛車CB1100で通勤したりもする上に、新型バイクは市販前に必ず自ら試乗する心意気だった。

NC700が市販化されたのもこの人が太鼓判を押したからだったりする。

八代目社長(2015~)
八郷 隆弘(はちごう たかひろ)

八郷隆弘

ホンダ(本田技研工業)の頭脳的存在である本田技術研究所の所長という先代までの全員が通ってきた社長コースを通らず九人抜きでホンダ社長となり大きく話題となった方。

前任の伊藤氏とはエンジニア時代からの仲で二代目CR-Vの生みの親。車を持っていない社長としても話題になったがバイクはVTRを持っている。

イギリス工場など生産拠点の閉鎖や商品開発部を研究所から本体に移すなど肥大化した会社の合理化を進め、F1撤退と憎まれ役まで一手に引き受けた。

大企業病に陥りつつあった社内の改善にも尽力しており、鈴鹿で行われた新入社員への挨拶では

「石橋を叩いて渡るな、石橋を叩き壊して新しい橋をかけろ」

と檄を飛ばした。

九代目社長(2021~)
三部 敏宏(みべ としひこ)

三部敏宏

F1に憧れて入社し主に自動車エンジンのエンジニアとして手腕を発揮され本田技術研究所社長からホンダの社長に就任という王道を歩んで来られた方。

SULEVアコード(超超低排ガスエミッション車)のエンジンを開発した環境技術のエキスパートで、カーボンニュートラル社会への順応を示す形となった。

四輪事業の改善が課題とされ、これまでホンダがやってきた『自前主義』を見直す方針も打ち出している。

参照:ホンダ企業情報より

系譜図
アート商会

第一章
自動車修理工場からの独立とトヨタの子会社化

東海精機

第二章
本田技術研究所の発足とA型の誕生

藤沢武夫

第三章
本田技研工業(現ホンダ)設立と藤沢武夫

鈴鹿工場

第四章
スーパーカブの誕生

本田宗一郎の引退

第五章
技術者として引導を渡された宗一郎

本田宗一郎の逸話・名言

終章
本田宗一郎の最期

本田宗一郎の逸話・名言

おまけ
後を託された歴代社長

終章 宗一郎の最期

ホンダドリーム

現役を退いてからも宗一郎は忙しい毎日でした。

三度の飯より仕事が好き、散髪は工場で寝ている間に奥さんがする程の男だったためか、現役を退いたにもかかわらず気付くと会社に車を走らせていたことが数ヶ月も続いたそうです。

そこで宗一郎は全国の営業所にお礼参りの旅に出ることに。
その後もさらに本田財団、サイエンス財団、安全協会などを設立し社会貢献もしていきました。
その甲斐あってか自民党から東京都知事選の誘いが来たらしいのですが断ったそうです。

創業間もない頃の苦しい時期にあった議員からの融資の話も断るなど、政治には一切関わろうとしなかった宗一郎。

サチ夫人

実はこれは宗一郎をずっと支えてきたサチ夫人から「政治には関わらないで」という数少ないお願いがあったからなんです。宗一郎は最後までちゃんと守り通したんですね。

そんな宗一郎も晩年になると若いころの無茶がたたったのか身体にガタが来始めます。糖尿病や脳血栓症といった病気を患い入退院の日々が続き日に日に弱っていきました。

更に悲しいことにずっと二人三脚でやってきた藤沢武夫が心筋梗塞により亡くなります。
遺体を見た宗一郎は人目もはばからずに号泣したそうです。

そしてその三年後の1991年、末期がんで容態が悪化し緊急入院。そして亡くなる二日前、サチ夫人におんぶして病室を歩くようにお願いをし

本田宗一郎

「浜松に帰ろう」

そう言い残しこの世を去ったと言われています。享年81歳でした。

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自動車修理工場からの独立とトヨタの子会社化

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藤沢武夫

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本田技研工業(現ホンダ)設立と藤沢武夫

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スーパーカブの誕生

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技術者として引導を渡された宗一郎

本田宗一郎の逸話・名言

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第五章 技術者として引導を渡された宗一郎

本田宗一郎の引退

スーパーカブによる大成功を収めたホンダはそれを足がかりに四輪事業にも参入しN360を皮切りに成功を収めます。

しかしその舞台裏では「本田宗一郎の引退」が囁かれていました。

既に当時、ホンダを支えていたのは宗一郎よりも若手技術者達。
その筆頭として挙げられるのが中村良夫(初代ホンダF1チーム監督)、久米是志(後の三代目社長)、桜井淑敏(後のホンダF1優勝時の開発責任者)の三人。

その若手技術者と宗一郎の考えの違いが宗一郎引退に繋がる事となります。

CVCCエンジン

当時マスキー法という非常に厳しい排ガス規制強化が行われると決まったとき、宗一郎は「千載一遇のチャンスだ」と社員に言って聞かせました。

それは後発メーカーであるホンダがトヨタやフォードといった老舗メーカーと同じスタートラインに立つ事になるからです。(当時その規制をクリア出来る車は一台も無かった)

結果的にCVCCエンジンの開発により何処よりも早く解決し世界から絶賛されました。

これでトヨタやフォードにも勝てると喜んでいた宗一郎でしたが、それに対し桜井が

「排ガス問題は人類全ての問題であり、一企業が利益を生むために利用する問題じゃない。」

と言い放ちました。

”会社のために働くな、自分のために働け”

という自身の理念がいつの間にか会社主体の考えになってしまっていた事に気付かさた宗一郎は返す言葉も無かったそうです。

さらに久米にからも

RA302

「空冷には限界がある。これからは水冷の時代だから水冷エンジンに移行すべきだ」

と説得されますが宗一郎はこれを頑なに拒否。

「水冷といえど結局最後は空気で冷やすんだからそれなら最初から空冷でいいに決まっている」

と。
止む無く空冷で出されたバイクや車は案の定、熱による問題でお世辞にも良い車とは言えないものでした。

聞き入れてくれない宗一郎に対し、久米は宗一郎と唯一対等なホンダのナンバー2である藤沢や一番弟子である河島に直訴し、宗一郎が改めるまで出社拒否をすることに。

見かねた藤沢が”お互いのやる事に口出しをしない”という約束を初めて破りました。

「貴方は技術者なのか?それとも社長なのか?」

その一言で元々引退を考えていた宗一郎は第一線からの引退を決意。それを受け創業当初から一緒にやってきた藤沢も身を引くことを決めたそうです。

最後まで二人は二人三脚だったんですね。

”会社は個人のものではない”

言うのは簡単ですが実行できるというのは凄いことです。

宗一郎とカブ

引退時、お互いがお互いを褒め称えるかと思いきや

宗一郎「まあまあだったな」
藤沢武夫「まあまあでした」
宗一郎「でも幸せだった」
藤沢武夫「本当に幸せでした。ありがとうございました。」

というやりとりのみ。

でも関係者の話では第一線を退いてからの二人は現役時代では考えられない程、にこやかに笑うようになったそうです。

二代目社長となった河島喜好も

「オヤジがあと数年居座ったらホンダは潰れていた。でもあそこで身を引いたのはオヤジさんの凄い所」

と言い残しています。

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第四章 スーパーカブの誕生

藤沢武夫

ホンダといえばカブ、カブといえばホンダ。
世界一売れたバイクというギネス記録を持っている名車オブ名車ですね。

そんなスーパーカブ誕生の経緯ですが、実は宗一郎は乗り気じゃありませんでした。

当時ホンダは倒産の危機を乗り越えては成長し、倒産の危機を乗り越えては・・・を繰り返していく内に何とか国内最大のオートバイメーカーと言われるまでに成長。

しかし宗一郎はそれに満足せず海外メーカー、言わば大型の高級バイクに対抗できる物を造ることに心血を注いでいた。

性能はもちろんの事、デザインもホンダ独自色を出していかないと考えていた宗一郎は日本が世界に誇る観光名所を片っ端から見て回りました。

そんな宗一郎によりデザインされたジャパニーズデザインバイクの第一号がこれ。

ホンダドリーム C70
-since 1957-

ドリームC70

ホンダ初となる二気筒エンジンのオートバイで、デザインのモチーフとなったのは何と神社。
鳥居をイメージした無骨な造形で宗一郎お気に入りの一作です。

「神社仏閣デザイン」と銘打たれたこのデザイン、宗一郎の力作で本人もお気に入りだったためしばらくはこのデザイン基調のバイクばかりが売られることになりました。

この様に宗一郎は大型バイク偏重でモペット(原付)は軽視気味でしたが、藤沢はもっと色んな人に親しまれ、台数が出るバイクを漠然と欲していた。

そこで藤沢は宗一郎を半ば強引にスクーターの聖地であるイタリアを始めバイク文化が根付いている欧州へ一緒に視察する事に。

そこで宗一郎が目にしたのは日常のみならず仕事の足として親しまれ、重宝されている大量のモペットでした。

ローマの休日

そして帰国した宗一郎が開発陣を集め発した一言

「今から蕎麦屋が乗るモペットを造る。つまり片手で運転できるモペットだ。」

これがスーパーカブの始まりです。

やると決めたからには徹底的にやるのが宗一郎。

オートマチックのミッション(自動遠心クラッチ)の開発はトライ・アンド・エラーの繰り返しで難航しました。

この時に誕生した宗一郎の有名な話が設計室に行く時間が惜しいとの事で地面に直接チョークで設計図を描いては皆で議論したというお話。

そして遂に完成したバイクこそが初代スーパーカブことC100です。

蕎麦屋のカブ

ちなみにエンジン周りを当時珍しかったプラスチックで覆う様にしたのは宗一郎の妻であるサチ夫人の提案で、「エンジンが鶏の臓器みたいで気持ち悪い」という一言で付けられました。

しかし結果的にこれが泥除け等の思わぬメリットを生むきっかけになり大ヒット要因の一つに。

完成されたC100を見た藤沢は

「これは売れる。三万台を目標に売ろう。月産で。」

と言いました。

ホンダC100

宗一郎を始め周りの人間は年三万台と思ったらなんと月三万台ということで静まり返ったそうです。

それもそのはず、当時の全てのオートバイの月産台数を合わせた台数でも二万台に満たない。
それをも上回る月産台数を掲げるなんて無謀としか言いようがありません。

しかし宗一郎は手を組んだ当初の約束である「お互いのやることに口出ししない」という事と、藤沢に全幅の信頼を置いていたため何も言わなかったそうです。

そして発売されたスーパーカブC100は初年度こそ10万台弱で目標に満たなかったものの、使い勝手の良さ、頑丈さ、速さが好評となり翌年には40万台を越える大ヒット。

スーパーカブ アメリカ

海外への輸出も始まるとトントン拍子に500万台、1000万台、1500万台とそれまでのホンダの何倍もの売上をもたらすことになり、世界一のメーカーへと駆け上がって行くことになりました。

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第三章 本田技研工業(現ホンダ)設立と藤沢武夫

藤沢武夫

A型のヒットで手応えを感じた宗一郎は新たに本田技研工業(現ホンダ)を設立。もちろん社長は宗一郎。

そしてホンダとして初となる4ストロークエンジンのオートバイ「ホンダドリームE型」を先に紹介した河島喜好が開発し、大ヒットとなりました。

4ストに半信半疑だった宗一郎を説得するため当時は長い急勾配でオーバーヒートするため一気に登れないのが当たり前だった山道を、自ら乗って休むこと無く登り切って宗一郎を驚かせたエピソードを持っています。

ホンダドリームE型

さて、ここで疑問に思う方も居ると思います。
バタバタに始まりA型、そして初の4ストローク車となったのがE型。

B型、C型、D型は?という話ですが、もちろんありました。

写真をご用意できなかったのは残念ですが、2ストロークのエンジンを積んだバイクです。

しかしこれが焼きつくだの、走らないだの、すぐ壊れるだのクレームの嵐で実はこの時ホンダのブランド価値は地に落ち、後発ながら勢いがあったスズキが台頭していた。

何だか今では考えられない話だけど、このE型はその状況を打破するには十二分な出来でホンダブランドを再び押し上げる事になる。

こうしてバタバタ、A型、E型と名車を生んでいたホンダだったけど実は経営は上手くいっておらず倒産の危機を迎えていた。

というのも当時は買取制(バイク屋に買い取ってもらってバイク屋が売る)ではなく、後払いが基本だった上に、経営知識がカラキシだった宗一郎は踏み倒し等で代金の回収が上手く行かず社員の給料もまともに払えないほどの窮地を迎えていました。

そんなE型を開発をしていた頃、一人の男が官僚の紹介で宗一郎を訪ねてきました。

その男こそ、経営学を学ぶ者なら知らない人は居ないホンダの名参謀、影の宗一郎とも呼ばれた藤沢武夫さんです。

藤沢武夫

宗一郎の家で連日話し合った末、意気投合。

藤沢は順調に経営中だった自社の製造業を売り払い、潰れかけだった本田技研工業に常務として入社。
そして経営が下手な事を自覚していた宗一郎は藤沢を信じ経営の一切を任せることに。

その時に交わした

「お互い(技術屋と経営屋)のやる事に口出しはしない」

という約束は宗一郎、藤沢共に第一線を退くまで守りぬかれます。

本田宗一郎と藤沢武夫

そんな藤沢が本田技研工業に入社し、先ず行ったことは

東京進出、販路の拡大、買取制度の導入、工場の拡張、親族の入社禁止、マン島TTレースへの参加表明

といった攻めの経営でした。

ホンダを語る上で有名な「親族の入社禁止」ですが、実は宗一郎ではなく藤沢が定めたことなんです。
その理由は「会社は個人の所有物ではない」ということと「派閥を生まないようにするため」という二つの意味がある。もちろん宗一郎もこの考えに賛同した。

あと有名なのが生涯の親友だった井深大(ソニー創業者)が自社の名前を苗字にせず「ソニー」としたのを聞いた時は「ホンダ」という苗字から取った自社の名を恥じて改名しようとしたそうです。

ホンダモーター

流石に「今さらやめてくれ」と周りから止められ断念したみたいですが。。。

兎にも角にもこの藤沢の経営手腕は目を見張る物で宗一郎も当時を振り返る時

「藤沢が居なかったらとうの昔に潰れていた」

と話しています。

しかし驚くべきことにこの藤沢、実は経営学を一切学んでいないんです。

それどころか

「何冊か経済学の本を手にとって読んだことはあるが、結局その逆をやれば良いんだと思った。」

という破天荒っぷり。

コチラ

しかしそのカリスマ性から繰り出される経営手腕でホンダは何度もの窮地を脱することに成功することになります。

ちなみに写真は鈴鹿サーキットの為に手塚治虫先生が描いたマスコットキャラクターのコチラファミリー。そしてそのコチラちゃんのモデルとなったのも藤沢武夫さんだそうです。

ちなみに社内でのアダ名は声も身体も大きいことから「ゴジラ」だったとか。

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第二章 本田技術研究所の発足とA型の誕生

本田技術研究所

それから数年後、日本が敗戦し無条件降伏が行われると宗一郎は途方に暮れました。

そんな中、元々営利第一でそりが合わなかったトヨタ側の役員との大げんかをキッカケに会社をトヨタに売り払う形で退社。
ホンダとトヨタ(というよりそのユーザー?)が水と油なのは遡るとこの頃から始まっていたんですね。

売り払った金が尽きた一年後、ずっと一緒にやってきた弟と一緒に「本田技術研究所」を設立し再びチャレンジが始まりました。
まず宗一郎が最初に取り掛かった製作はバイク・・・ではなく自動織機。

自動織機

何で織機かというと当時は自動織機といえば金の卵を生む鶏と言われるほど凄いものだった。あのトヨタが最初に成功し財を成したのが自動織機を開発したからと言えばどれだけ凄い物なのか分かる。

でも宗一郎のやる気が無かった事も災いしてか頓挫。他にもアイス製造機などを作ったもののいまひとつ。

そんな中、陸軍が使用していた無線発電用エンジンを見つけバイク(バイクモーター)の製造をひらめく。

そして試行錯誤のすえ生まれたのが有名なバタバタ。

ホンダA型

バタバタと音を立てて走る様からそう呼ばれるようになりました。

ガソリンが満足に手に入らない時代に車より燃費がよく、(車に比べ)安い事で飛ぶように売れました。それはもう全国から買い手が殺到するほど。

あまりの需要に宗一郎も造ることより払い下げエンジンの買い占めに奔走することの方が多かったみたいです。

そしてエンジンが品薄になり手に入りにくくなると宗一郎は自分達で造ることを決意。

結果として作り上げられたバイク(エンジン)がA型。これも大ウケし「ホンダ」という名が全国に広まる結果となりました。

A型

これが出来た時、宗一郎は嬉しさの余り近所を走って自慢したそうです。そして最後には盗まれてしまうというオマケ付き。

ちなみにこの時すでにタンクには羽のイラストが描かれていました。これがホンダウィングマークの始まりだったりします。

そしてそんな中、近所の知人の強い要望でその息子を入社させるか面接する事になります。
その青年は工業専門校(今で言う工業大学)を出ているエリート。

自宅に招きコタツに入りながら面接をしていた宗一郎はそれを聞くと

「そんなエリートを雇える余裕は無い」

と断ります。

しかし知人やその青年たっての希望に根負けした宗一郎は入社させることに。

河島

十二人目の従業員となったその青年の名は河島喜好。

本田技術研究所の4ストロークエンジンを担ったエンジニアで、後に本田技研工業(現ホンダ)の二代目社長になられた方です。

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技術者として引導を渡された宗一郎

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第一章 自動車修理工場からの独立とトヨタの子会社化

アート商會

子供の頃から乗り物が好きだった本田宗一郎が最初に就職した会社は「アート商會」と呼ばれる東京の自動車修理工場でした。就職と言っても技術者としてではなく雑用として。

だから入社当初は社長の子供の世話だったり掃除だったりと今では想像が付かないような事を宗一郎はずっとやらされていました。

しかし何年かやっている内に社長に気に入られ、また、技術者としてみても優秀だったために自然と仕事を任されるようになります。

6年後、社長に気に入られていた宗一郎はのれん分けを許され浜松にて独立。
奇っ怪な事に宗一郎はその際の兵役検査で色覚障害と診断され免除された。本人が否定しているあたりもしかしたらワザとなのかもしれない・・・

何故に浜松かというと、当時”浜松”と言えば
自動織機を発明したトヨタグループの創始者「豊田佐吉(写真左)」
日本楽器の生みの親でヤマハ創始者の「山葉寅楠(写真右)」
といった数々の発明・実業家を生んだ技術者の土地だったから。

トヨタとヤマハの創始者

当時の時点で既に聖地化してたんですね。

もともと腕の良かった宗一郎のおかげで修理工場は評判となり順調に成長していきました。

しかしその一方で宗一郎は考え、夢を見始めます。

「整備工場はどんどん増えていっている。これじゃ仕事の取り合いになるのも時間の問題だ。ウチは”直す”から”造る”に転換しよう。」

そこで宗一郎が思い浮かんだのは”ピストンリング”

ピストンリング

何故ピストンリングなのかというと、当時ピストンリングを製造する会社はその難しさゆえに僅か数社しかおらずピストン並に単価が高くなるという現象が起こっていた。

これは名案だと宗一郎が会社に持ちかけるも満場一致で大反対。

「やるならお前一人でやれ。会社を巻き込むな。」

と見放され宗一郎は涙したそうです。

そりゃそうです。
今やってる修理業は順調だし、いくらピストンリングの需要があるからと言っても簡単には作れない事を皆わかっていたから。

しかしそのショックで寝込み仕事放棄をした宗一郎を見かねた会社側が根負けし、別会社という形でピストンリング製作を了承。

その会社名は「東海精機株式会社」

宗一郎が初めて社長を務めた会社です。

大喜びし、早速寝る間も惜しんで製作に取り掛かった宗一郎でしたが、ただでさえ難しいと言われるピストンリングを無知の状態から始めて作れるわけもなく挫折する羽目に。

しかし諦めきれなかった宗一郎は工業高校の金属工学科に入り勉強することしました。

順調に知識を付けていった宗一郎でしたが理系以外の授業や行事には一切出なかったため、三年生の時に学校側の堪忍袋の緒が切れ咎められます。

それに対し宗一郎は

「俺は仕事を成功させるために学校に入ったのであって、卒業証書なんて何の役にも立たない紙切れが欲しくて学校に入ったわけじゃない。」

と啖呵を切り退学処分に。

しかしある程度の事を学んだ宗一郎はその学を元に血の滲むような努力をし、遂にピストンリングの開発に成功します。

トヨタ自動車

そこで宗一郎は早速トヨタ自動車へ何万本も作った中から50本ほどを厳選し持って行きました。
しかしトヨタの品質基準に合格したのは僅か5本ほど・・・

話にならない精度だった事で落胆するかとおもいきや宗一郎は今度は各地の大学を飛び回り更なる学を身につける。そして遂にトヨタの品質基準でも問題のない生産技術を確立。

その結果、東海精機は修理工場とは比べ物にならない程のスピードで急成長していきました。

更に驚くべきことにピストンリングを作るための製造機械もほとんどが宗一郎が自分で作ったオリジナルの物だった事。

宗一郎曰く

「人間やろうと思えば大抵の事はできる」

だそうです。

言うのは簡単だけど本当に出来てるんだから凄いの一言。

経済統制

しかしタイミングが悪い事に太平洋戦争が開戦したことで国による統制が強化。

東海精機はトヨタの子会社にされてしまい、経営をトヨタ側の人間に握られる事となってしまいました。

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東海精機

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藤沢武夫

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技術者として引導を渡された宗一郎

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