第三章 本田技研工業(現ホンダ)設立と藤沢武夫

藤沢武夫

A型のヒットで手応えを感じた宗一郎は新たに本田技研工業(現ホンダ)を設立。もちろん社長は宗一郎。

そしてホンダとして初となる4ストロークエンジンのオートバイ「ホンダドリームE型」を先に紹介した河島喜好が開発し、大ヒットとなりました。

4ストに半信半疑だった宗一郎を説得するため当時は長い急勾配でオーバーヒートするため一気に登れないのが当たり前だった山道を、自ら乗って休むこと無く登り切って宗一郎を驚かせたエピソードを持っています。

ホンダドリームE型

さて、ここで疑問に思う方も居ると思います。
バタバタに始まりA型、そして初の4ストローク車となったのがE型。

B型、C型、D型は?という話ですが、もちろんありました。

写真をご用意できなかったのは残念ですが、2ストロークのエンジンを積んだバイクです。

しかしこれが焼きつくだの、走らないだの、すぐ壊れるだのクレームの嵐で実はこの時ホンダのブランド価値は地に落ち、後発ながら勢いがあったスズキが台頭していた。

何だか今では考えられない話だけど、このE型はその状況を打破するには十二分な出来でホンダブランドを再び押し上げる事になる。

こうしてバタバタ、A型、E型と名車を生んでいたホンダだったけど実は経営は上手くいっておらず倒産の危機を迎えていた。

というのも当時は買取制(バイク屋に買い取ってもらってバイク屋が売る)ではなく、後払いが基本だった上に、経営知識がカラキシだった宗一郎は踏み倒し等で代金の回収が上手く行かず社員の給料もまともに払えないほどの窮地を迎えていました。

そんなE型を開発をしていた頃、一人の男が官僚の紹介で宗一郎を訪ねてきました。

その男こそ、経営学を学ぶ者なら知らない人は居ないホンダの名参謀、影の宗一郎とも呼ばれた藤沢武夫さんです。

藤沢武夫

宗一郎の家で連日話し合った末、意気投合。

藤沢は順調に経営中だった自社の製造業を売り払い、潰れかけだった本田技研工業に常務として入社。
そして経営が下手な事を自覚していた宗一郎は藤沢を信じ経営の一切を任せることに。

その時に交わした

「お互い(技術屋と経営屋)のやる事に口出しはしない」

という約束は宗一郎、藤沢共に第一線を退くまで守りぬかれます。

本田宗一郎と藤沢武夫

そんな藤沢が本田技研工業に入社し、先ず行ったことは

東京進出、販路の拡大、買取制度の導入、工場の拡張、親族の入社禁止、マン島TTレースへの参加表明

といった攻めの経営でした。

ホンダを語る上で有名な「親族の入社禁止」ですが、実は宗一郎ではなく藤沢が定めたことなんです。
その理由は「会社は個人の所有物ではない」ということと「派閥を生まないようにするため」という二つの意味がある。もちろん宗一郎もこの考えに賛同した。

あと有名なのが生涯の親友だった井深大(ソニー創業者)が自社の名前を苗字にせず「ソニー」としたのを聞いた時は「ホンダ」という苗字から取った自社の名を恥じて改名しようとしたそうです。

ホンダモーター

流石に「今さらやめてくれ」と周りから止められ断念したみたいですが。。。

兎にも角にもこの藤沢の経営手腕は目を見張る物で宗一郎も当時を振り返る時

「藤沢が居なかったらとうの昔に潰れていた」

と話しています。

しかし驚くべきことにこの藤沢、実は経営学を一切学んでいないんです。

それどころか

「何冊か経済学の本を手にとって読んだことはあるが、結局その逆をやれば良いんだと思った。」

という破天荒っぷり。

コチラ

しかしそのカリスマ性から繰り出される経営手腕でホンダは何度もの窮地を脱することに成功することになります。

ちなみに写真は鈴鹿サーキットの為に手塚治虫先生が描いたマスコットキャラクターのコチラファミリー。そしてそのコチラちゃんのモデルとなったのも藤沢武夫さんだそうです。

ちなみに社内でのアダ名は声も身体も大きいことから「ゴジラ」だったとか。

系譜図
アート商会

第一章
自動車修理工場からの独立とトヨタの子会社化

東海精機

第二章
本田技術研究所の発足とA型の誕生

藤沢武夫

第三章
本田技研工業(現ホンダ)設立と藤沢武夫

鈴鹿工場

第四章
スーパーカブの誕生

本田宗一郎の引退

第五章
技術者として引導を渡された宗一郎

本田宗一郎の逸話・名言

終章
本田宗一郎の最期

本田宗一郎の逸話・名言

おまけ
後を託された歴代社長

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