第一章 自動車修理工場からの独立とトヨタの子会社化

アート商會

子供の頃から乗り物が好きだった本田宗一郎が最初に就職した会社は「アート商會」と呼ばれる東京の自動車修理工場でした。就職と言っても技術者としてではなく雑用として。

だから入社当初は社長の子供の世話だったり掃除だったりと今では想像が付かないような事を宗一郎はずっとやらされていました。

しかし何年かやっている内に社長に気に入られ、また、技術者としてみても優秀だったために自然と仕事を任されるようになります。

6年後、社長に気に入られていた宗一郎はのれん分けを許され浜松にて独立。
奇っ怪な事に宗一郎はその際の兵役検査で色覚障害と診断され免除された。本人が否定しているあたりもしかしたらワザとなのかもしれない・・・

何故に浜松かというと、当時”浜松”と言えば
自動織機を発明したトヨタグループの創始者「豊田佐吉(写真左)」
日本楽器の生みの親でヤマハ創始者の「山葉寅楠(写真右)」
といった数々の発明・実業家を生んだ技術者の土地だったから。

トヨタとヤマハの創始者

当時の時点で既に聖地化してたんですね。

もともと腕の良かった宗一郎のおかげで修理工場は評判となり順調に成長していきました。

しかしその一方で宗一郎は考え、夢を見始めます。

「整備工場はどんどん増えていっている。これじゃ仕事の取り合いになるのも時間の問題だ。ウチは”直す”から”造る”に転換しよう。」

そこで宗一郎が思い浮かんだのは”ピストンリング”

ピストンリング

何故ピストンリングなのかというと、当時ピストンリングを製造する会社はその難しさゆえに僅か数社しかおらずピストン並に単価が高くなるという現象が起こっていた。

これは名案だと宗一郎が会社に持ちかけるも満場一致で大反対。

「やるならお前一人でやれ。会社を巻き込むな。」

と見放され宗一郎は涙したそうです。

そりゃそうです。
今やってる修理業は順調だし、いくらピストンリングの需要があるからと言っても簡単には作れない事を皆わかっていたから。

しかしそのショックで寝込み仕事放棄をした宗一郎を見かねた会社側が根負けし、別会社という形でピストンリング製作を了承。

その会社名は「東海精機株式会社」

宗一郎が初めて社長を務めた会社です。

大喜びし、早速寝る間も惜しんで製作に取り掛かった宗一郎でしたが、ただでさえ難しいと言われるピストンリングを無知の状態から始めて作れるわけもなく挫折する羽目に。

しかし諦めきれなかった宗一郎は工業高校の金属工学科に入り勉強することしました。

順調に知識を付けていった宗一郎でしたが理系以外の授業や行事には一切出なかったため、三年生の時に学校側の堪忍袋の緒が切れ咎められます。

それに対し宗一郎は

「俺は仕事を成功させるために学校に入ったのであって、卒業証書なんて何の役にも立たない紙切れが欲しくて学校に入ったわけじゃない。」

と啖呵を切り退学処分に。

しかしある程度の事を学んだ宗一郎はその学を元に血の滲むような努力をし、遂にピストンリングの開発に成功します。

トヨタ自動車

そこで宗一郎は早速トヨタ自動車へ何万本も作った中から50本ほどを厳選し持って行きました。
しかしトヨタの品質基準に合格したのは僅か5本ほど・・・

話にならない精度だった事で落胆するかとおもいきや宗一郎は今度は各地の大学を飛び回り更なる学を身につける。そして遂にトヨタの品質基準でも問題のない生産技術を確立。

その結果、東海精機は修理工場とは比べ物にならない程のスピードで急成長していきました。

更に驚くべきことにピストンリングを作るための製造機械もほとんどが宗一郎が自分で作ったオリジナルの物だった事。

宗一郎曰く

「人間やろうと思えば大抵の事はできる」

だそうです。

言うのは簡単だけど本当に出来てるんだから凄いの一言。

経済統制

しかしタイミングが悪い事に太平洋戦争が開戦したことで国による統制が強化。

東海精機はトヨタの子会社にされてしまい、経営をトヨタ側の人間に握られる事となってしまいました。

系譜図
アート商会

第一章
自動車修理工場からの独立とトヨタの子会社化

東海精機

第二章
本田技術研究所の発足とA型の誕生

藤沢武夫

第三章
本田技研工業(現ホンダ)設立と藤沢武夫

鈴鹿工場

第四章
スーパーカブの誕生

本田宗一郎の引退

第五章
技術者として引導を渡された宗一郎

本田宗一郎の逸話・名言

終章
本田宗一郎の最期

本田宗一郎の逸話・名言

おまけ
後を託された歴代社長

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