第五章 技術者として引導を渡された宗一郎

本田宗一郎の引退

スーパーカブによる大成功を収めたホンダはそれを足がかりに四輪事業にも参入しN360を皮切りに成功を収めます。

しかしその舞台裏では「本田宗一郎の引退」が囁かれていました。

既に当時、ホンダを支えていたのは宗一郎よりも若手技術者達。
その筆頭として挙げられるのが中村良夫(初代ホンダF1チーム監督)、久米是志(後の三代目社長)、桜井淑敏(後のホンダF1優勝時の開発責任者)の三人。

その若手技術者と宗一郎の考えの違いが宗一郎引退に繋がる事となります。

CVCCエンジン

当時マスキー法という非常に厳しい排ガス規制強化が行われると決まったとき、宗一郎は「千載一遇のチャンスだ」と社員に言って聞かせました。

それは後発メーカーであるホンダがトヨタやフォードといった老舗メーカーと同じスタートラインに立つ事になるからです。(当時その規制をクリア出来る車は一台も無かった)

結果的にCVCCエンジンの開発により何処よりも早く解決し世界から絶賛されました。

これでトヨタやフォードにも勝てると喜んでいた宗一郎でしたが、それに対し桜井が

「排ガス問題は人類全ての問題であり、一企業が利益を生むために利用する問題じゃない。」

と言い放ちました。

”会社のために働くな、自分のために働け”

という自身の理念がいつの間にか会社主体の考えになってしまっていた事に気付かさた宗一郎は返す言葉も無かったそうです。

さらに久米にからも

RA302

「空冷には限界がある。これからは水冷の時代だから水冷エンジンに移行すべきだ」

と説得されますが宗一郎はこれを頑なに拒否。

「水冷といえど結局最後は空気で冷やすんだからそれなら最初から空冷でいいに決まっている」

と。
止む無く空冷で出されたバイクや車は案の定、熱による問題でお世辞にも良い車とは言えないものでした。

聞き入れてくれない宗一郎に対し、久米は宗一郎と唯一対等なホンダのナンバー2である藤沢や一番弟子である河島に直訴し、宗一郎が改めるまで出社拒否をすることに。

見かねた藤沢が”お互いのやる事に口出しをしない”という約束を初めて破りました。

「貴方は技術者なのか?それとも社長なのか?」

その一言で元々引退を考えていた宗一郎は第一線からの引退を決意。それを受け創業当初から一緒にやってきた藤沢も身を引くことを決めたそうです。

最後まで二人は二人三脚だったんですね。

”会社は個人のものではない”

言うのは簡単ですが実行できるというのは凄いことです。

宗一郎とカブ

引退時、お互いがお互いを褒め称えるかと思いきや

宗一郎「まあまあだったな」
藤沢武夫「まあまあでした」
宗一郎「でも幸せだった」
藤沢武夫「本当に幸せでした。ありがとうございました。」

というやりとりのみ。

でも関係者の話では第一線を退いてからの二人は現役時代では考えられない程、にこやかに笑うようになったそうです。

二代目社長となった河島喜好も

「オヤジがあと数年居座ったらホンダは潰れていた。でもあそこで身を引いたのはオヤジさんの凄い所」

と言い残しています。

系譜図
アート商会

第一章
自動車修理工場からの独立とトヨタの子会社化

東海精機

第二章
本田技術研究所の発足とA型の誕生

藤沢武夫

第三章
本田技研工業(現ホンダ)設立と藤沢武夫

鈴鹿工場

第四章
スーパーカブの誕生

本田宗一郎の引退

第五章
技術者として引導を渡された宗一郎

本田宗一郎の逸話・名言

終章
本田宗一郎の最期

本田宗一郎の逸話・名言

おまけ
後を託された歴代社長

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