それから数年後、日本が敗戦し無条件降伏が行われると宗一郎は途方に暮れました。
そんな中、元々営利第一でそりが合わなかったトヨタ側の役員との大げんかをキッカケに会社をトヨタに売り払う形で退社。
ホンダとトヨタ(というよりそのユーザー?)が水と油なのは遡るとこの頃から始まっていたんですね。
売り払った金が尽きた一年後、ずっと一緒にやってきた弟と一緒に「本田技術研究所」を設立し再びチャレンジが始まりました。
まず宗一郎が最初に取り掛かった製作はバイク・・・ではなく自動織機。
何で織機かというと当時は自動織機といえば金の卵を生む鶏と言われるほど凄いものだった。あのトヨタが最初に成功し財を成したのが自動織機を開発したからと言えばどれだけ凄い物なのか分かる。
でも宗一郎のやる気が無かった事も災いしてか頓挫。他にもアイス製造機などを作ったもののいまひとつ。
そんな中、陸軍が使用していた無線発電用エンジンを見つけバイク(バイクモーター)の製造をひらめく。
そして試行錯誤のすえ生まれたのが有名なバタバタ。
バタバタと音を立てて走る様からそう呼ばれるようになりました。
ガソリンが満足に手に入らない時代に車より燃費がよく、(車に比べ)安い事で飛ぶように売れました。それはもう全国から買い手が殺到するほど。
あまりの需要に宗一郎も造ることより払い下げエンジンの買い占めに奔走することの方が多かったみたいです。
そしてエンジンが品薄になり手に入りにくくなると宗一郎は自分達で造ることを決意。
結果として作り上げられたバイク(エンジン)がA型。これも大ウケし「ホンダ」という名が全国に広まる結果となりました。
これが出来た時、宗一郎は嬉しさの余り近所を走って自慢したそうです。そして最後には盗まれてしまうというオマケ付き。
ちなみにこの時すでにタンクには羽のイラストが描かれていました。これがホンダウィングマークの始まりだったりします。
そしてそんな中、近所の知人の強い要望でその息子を入社させるか面接する事になります。
その青年は工業専門校(今で言う工業大学)を出ているエリート。
自宅に招きコタツに入りながら面接をしていた宗一郎はそれを聞くと
「そんなエリートを雇える余裕は無い」
と断ります。
しかし知人やその青年たっての希望に根負けした宗一郎は入社させることに。
十二人目の従業員となったその青年の名は河島喜好。
本田技術研究所の4ストロークエンジンを担ったエンジニアで、後に本田技研工業(現ホンダ)の二代目社長になられた方です。