HY戦争終戦とその余波 -第四章-

ソフトバイクシリーズ

無謀な拡充路線を取っていた両社は景気低迷により大量の在庫を抱える事となり大打撃。

特にホンダ以下の規模でホンダ以上にトバしていたヤマハの被害は深刻で、200億円もの赤字を出し会社が傾きました。

そして景気回復の兆しも見えず倒産危機を迎えるまでに陥った結果、ホンダ社長へヤマハ社長が直々に敗北を宣言し記者会見。

発起人である二代目ヤマハ発動機社長である小池久雄さんを始めとした役員の退任や降格、そして新人事はホンダの意向を尊重ということで手打ちとなりました。

終戦したあとも両社の痛手は中々癒えずレーサーレプリカブームが起こる数年後まで回復しませんでした・・・このHY戦争で一番可哀想なのは喧嘩を売ったヤマハでも買ったホンダでもありません。

鈴木修会長

同じくファミリーバイクを売っていたスズキです。

「市場を破壊するだけだ」

鈴木会長(当時社長)は両社を説得するも聞き入れられず、強制的に巻き込まれる形となり通算で100億の赤字というヤマハに次ぐ多大な損害を出しました。

トップ争い出来るレベルで優勝も経験していたWGP(現MotoGP)の一時撤退もHY戦争の影響による経営悪化が原因。それどころか二輪撤退まで検討されたそうです。

結局は車で稼いだお金を注ぎ込むことで生きながらえました。もしもガンマが生まれなかったら本当に撤退してた可能性が高いです。

カワサキ

そしてもう一社、ファミリーバイクを持っておらず傍観気味だったカワサキ・・・実はこちらも他人事ではなく被害を受けています。

カワサキの稼ぎ頭だったアメリカ市場が「景気低迷」「投げ売りによる飽和」「無理な買い替えサイクルによる中古車の潤沢化」と最悪な環境になってしまい一時撤退する羽目に。

HY戦争は「シェア争い・企業間競争の悪例」として今も参考にされています。

例えばタイヤ業界においてシェアNo.1であるブリヂストンはこれに習いシェアNo.1ながら「脱シェア宣言」をしました。

「能力増強一辺倒の経営から持続可能な経営」

へのシフト。

バイク以上に熾烈な争いを繰り広げる自動車業界もHY戦争を見習って行き過ぎたことはしないようにメーカー間で睨み合っていると聞きます。

最後に

HY戦争というと

「ホンダにコテンパンにされたヤマハ」

「ヤマハは馬鹿をやった」

と言われる事が大半です。

確かにそうですが手段を選んでいなかったのはホンダも同じ。結果的に勝ったのがホンダで、負けたのがヤマハというだけ。

現に当時ヤマハの社長だった小池久雄さんは表舞台から姿を消しましたが、ホンダの社長だった河島喜好さんも下から相当な恨みを買ったという旨の話が退任会見で出ています。

ホンダ・ヤマハ本社

「HY戦争に勝者は居ない」

というのが正しい認識かと思います。

そしてこうなってしまったのはプラスに考えれば、ホンダもヤマハもそれだけ

「オートバイメーカーとしてのプライド」

を強く持っていたからとも言えるわけですから。

【関連】

メーカーの二つ名はマーケティング戦略の片鱗|バイク豆知識

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戦争の泥沼化

HY戦争終焉

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終戦と余波

HY戦争泥沼化 -第三章-

HY戦争泥沼化

ホンダの反撃で年間販売台数一位を取れなかったヤマハでしたが、諦めるどころが更に攻勢に出たことで

「仕切合戦、リベート合戦、ダンピング合戦」

が更に加速しました。

バイク屋にホンダの営業マンが来て

「店を手伝います」

と言ってヤマハのバイクを奥に追いやりホンダのバイクを前に出す。

すると今度はヤマハの営業マンが来て

「店を手伝います」

と言ってホンダのバイクを奥に追いやりヤマハのバイクを前に出す。

~以下繰り返し~

当時のバイクショップ

ピーク時の営業マンは両社1500人以上だったそうです。

価格の方も定価の半値以下は当たり前、オマケでもう一台、複数台纏めて十万円など。もはやママチャリ並。

そしてそんな競争はやがて中型や大型を巻き込み、終いには海外まで飛び火。

バイクは工業製品の中ではトップの利益率(利益率約20%。ちなみに車は約5%)ですが、毎週のように新車種ラッシュで三台も四台も出して投げ売りや営業のローラー作戦をしていたので当然利益なんて出ない。

両社のHY戦争の産物バイクは数え切れないほどあります。

例えば有名なのがこれ。

モトコンポ(AB12)
-since1981-

モトコンポ

当時は車は一家に一台への過渡期でした。

そして先に言ったとおりホンダは当時四輪が好調だった。

「それなら車におまけでバイク(メーカーオプション)をつければ二輪台数も稼げて一石二鳥」

という戦略。ほぼサービスで付けてたとか何とか。

逮捕しちゃうぞモトコンポ

ちなみに人気が出たのは『逮捕しちゃうぞ』に登場した事がキッカケですが、それは既に生産終了となった後の話。

そして肝心のシェアはどうなっていたのかというと、正確な数字は分からないのですがホンダがトップを固く死守した様です。

そしてこんなダンピング・リベート合戦が長く続けられるワケもなく(と言っても3年以上続きましたが)、終戦の時が来ました。

キッカケはオートバイの主要市場だったアメリカの景気低迷です。

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HY戦争勃発 -第二章-

ソフトバイクシリーズ

結果として読みが当たったのは・・・・ヤマハでした。

ファミリーバイクは学生や大型ライダーのセカンドなどの新需要を掘り起こし、年を追うごとに販売台数もウナギ登り。

そして単月ながら史上で初めてヤマハがホンダを抜き、半期累計でもホンダ40%に対しヤマハ36%と迫る結果に。

この事実がHY戦争を生むキッカケとなりました。

それまでヤマハ発動機は(創業して間もない頃)本田宗一郎の技術助力を得た歴史もあったため、ホンダとは切磋琢磨し合う良き好敵手だったんですが、新たに就任した新社長(小池久雄さん)が好機と判断。

それまでの友好関係から180度反転し

小池社長

「打倒ホンダ、バイク業界盟主の座を取る」

を宣言したんです。

当時スズキやカワサキは勿論のこと、他の業界からも

「眠れる獅子の尻尾を掴む無謀な行為だ」

という声が多く聞かれました。

バイクが生まれてからずっとトップに君臨し続けた企業を倒そうと言うんだから当然の事。

当のホンダも会社の士気を上げる為のプロパガンダか何かだろうと最初は信じませんでしたが、直ぐにヤマハが本気だという事に気づきます。

ホンダと繋がりのある役員を全員追放し拡充&増産路線を始めたから。

ホンダ・シビック

当時ホンダは車でCVCCエンジンという偉大な発明をして四輪でも世界に名を轟かせ一躍時のメーカーとなっていました。

だから四輪へ偏重気味だった時期で既に四輪の売上は二輪を凌いでいたんですがホンダはヤマハの攻勢に対し

・大事な時期だった四輪を優先しバイク業界一位の座を譲るか

・四輪に大きく振っていた舵を二輪に向けるか

の二択を迫られました。

決め手となったのは当時の社長であり、本田宗一郎の一番弟子である河島喜好さんの一言

河島喜好

「ウチ(ホンダ)はあくまで二輪屋」

ホンダはバイクシェア一位を死守するべく車に振っていた予算や人材を二輪に集中させ反撃に出ました。

そして反撃の第一打がこれ。

タクト DX(AB07)
-since 1980-

タクト

ヤマハの販売台数に大きく貢献していたパッソルと正面衝突となるスクーター。

その後もリードなどスクーターを大量展開しパッソルの勢いを削ぎに来た。

その甲斐あって辛うじて年間販売台数一位の座を死守。

営業面でも俗にいうバイク屋をホンダ車のみの取扱にするなどの敵対買収にまで出ました。これはヤマハも同様で買収やマツダにクルマと一緒に売ってもらったり。

後に「戦争」「シェア争いの悪例」と言われるほど問題になったのはここら辺からです。

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HY戦争の発端 -第一章-

ホンダ対ヤマハ

HY戦争と聞いてもピンと来ない人は多いと思います。
もうカレコレ30年以上前の事ですし、両社が競争ではなくルール無しの殴り合いをしてたなんて信じられない人もいるでしょう。広報や雑誌などを見ても軽くタブー扱いですしね。

「HY戦争」という言葉は終わった後に付けられた俗称で要はシェア争いです。ただそれが常軌を逸していて戦争のようだった事からそう言われるようになりました。

時はさかのぼって1970年代半ばの事です。

当時「二輪はもう飽和状態」と誰もが言い、誰もがそう思っていました。

しかしそんな常識を大きく覆すバイクがホンダから登場します。

ロードパル(NC50)
-since 1976-

hondaロードパル

原付と言えばCUBかモペット(ペダル付き原付)しかなかった時代に登場した通称『ラッタッタ』です。

キック要らず(ゼンマイ式)な事と、スーパーカブ50が10万円の時代に販売価格6万円という大ヒット前提の大量生産による安さが大きく話題となりました。

飽和と言われる中で何故これほど強気に出れたのかというと、巧妙な販売戦略にあります。

ロードパルは本来のバイク屋ではなく自転車屋やデパートなどを中心に販売されたんです。

自転車屋で売ることによって既存のバイクユーザーではなく、自転車が主な移動手段でバイクとは無縁の主婦を始めとする女性や主婦をターゲットにしたのです。

ロードパルS

キック要らず(当時はキックが主流)にしたものコレが理由。

そしてこの読みが見事に的中し、ファミリーバイクという新規市場を開拓し爆発的なヒットに。

このバイクの登場で自転車屋からバイク兼自転車に変貌した店は多いです。

自転車屋なのかバイク屋なのか分からない店があったらほぼこのバイクがキッカケと言っても過言ではないです。

そんな大成功を収めたホンダに対し、ヤマハはというと・・・

パッソルS50(2E9)
-since 1977-

パッソル

中島飛行機(現スバル)が1944~68年まで発売したラビット以来となるスクーターをロードパルの翌年に発売。

ちなみにラビットが終わった理由はスーパーカブの台頭によるもの・・・因果を感じますね。

言ってしまえばファミリーバイクに向けた完全な追っかけ製品です。値段も当時69800円とロードパルを意識して安め。

しかしそこはヤマハ。

ただコピーしたファミリーバイクと言うわけではなく、スカートでも乗れるフラットなステップと外装全体をプラスチックで覆うことで、それまでのメカメカしいイメージを払拭しポップで取っ付き易いイメージにした事でロードパル以上の大ヒットとなりました。

スクーター

このパッソルのエンジンから後輪まで一体となった作りは現代スクーターの基本形となりました。

ここでホンダとヤマハにHY戦争の火種となる差異が生まれます。

ロードパルで成功を収めたホンダは後継車を出しつつも

「ファミリーバイクの需要はある程度満たされ今後は縮小する」

と考え規模の圧縮を図りました。

対するヤマハは

「まだまだファミリーバイクの需要がある」

と規模の拡張を図ることに。

結果として読みが当たったのは・・・・

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