HY戦争勃発 -第二章-

ソフトバイクシリーズ

結果として読みが当たったのは・・・・ヤマハでした。

ファミリーバイクは学生や大型ライダーのセカンドなどの新需要を掘り起こし、年を追うごとに販売台数もウナギ登り。

そして単月ながら史上で初めてヤマハがホンダを抜き、半期累計でもホンダ40%に対しヤマハ36%と迫る結果に。

この事実がHY戦争を生むキッカケとなりました。

それまでヤマハ発動機は(創業して間もない頃)本田宗一郎の技術助力を得た歴史もあったため、ホンダとは切磋琢磨し合う良き好敵手だったんですが、新たに就任した新社長(小池久雄さん)が好機と判断。

それまでの友好関係から180度反転し

小池社長

「打倒ホンダ、バイク業界盟主の座を取る」

を宣言したんです。

当時スズキやカワサキは勿論のこと、他の業界からも

「眠れる獅子の尻尾を掴む無謀な行為だ」

という声が多く聞かれました。

バイクが生まれてからずっとトップに君臨し続けた企業を倒そうと言うんだから当然の事。

当のホンダも会社の士気を上げる為のプロパガンダか何かだろうと最初は信じませんでしたが、直ぐにヤマハが本気だという事に気づきます。

ホンダと繋がりのある役員を全員追放し拡充&増産路線を始めたから。

ホンダ・シビック

当時ホンダは車でCVCCエンジンという偉大な発明をして四輪でも世界に名を轟かせ一躍時のメーカーとなっていました。

だから四輪へ偏重気味だった時期で既に四輪の売上は二輪を凌いでいたんですがホンダはヤマハの攻勢に対し

・大事な時期だった四輪を優先しバイク業界一位の座を譲るか

・四輪に大きく振っていた舵を二輪に向けるか

の二択を迫られました。

決め手となったのは当時の社長であり、本田宗一郎の一番弟子である河島喜好さんの一言

河島喜好

「ウチ(ホンダ)はあくまで二輪屋」

ホンダはバイクシェア一位を死守するべく車に振っていた予算や人材を二輪に集中させ反撃に出ました。

そして反撃の第一打がこれ。

タクト DX(AB07)
-since 1980-

タクト

ヤマハの販売台数に大きく貢献していたパッソルと正面衝突となるスクーター。

その後もリードなどスクーターを大量展開しパッソルの勢いを削ぎに来た。

その甲斐あって辛うじて年間販売台数一位の座を死守。

営業面でも俗にいうバイク屋をホンダ車のみの取扱にするなどの敵対買収にまで出ました。これはヤマハも同様で買収やマツダにクルマと一緒に売ってもらったり。

後に「戦争」「シェア争いの悪例」と言われるほど問題になったのはここら辺からです。

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第一章
HY戦争の発端

ファミリーバイク

第二章
HY戦争勃発

泥沼化

第三章
戦争の泥沼化

HY戦争終焉

終章
終戦と余波

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