三重県鈴鹿市にある鈴鹿サーキットと、栃木県茂木市にあるツインリンクもてぎ。
日本有数の国際サーキットなだけあり、走行やスクールだけでなく大規模なレースが毎年開催されています。
【ツインリンクもてぎ】
MotoGP・全日本・トライアル・SUPER GT(四輪)
【鈴鹿サーキット】
鈴鹿8耐・全日本・F1・SUPER GT(四輪)
などなど
サーキットやレースに全く関心のない人に断っておきますが、この二つはただ大きいコースがあるだけのサーキット場じゃないですよ。
どちらかというとコースもあるアトラクションだらけの遊園地です。
ホンダという強力なバックを武器に、採算取れていないとしか思えないクオリティのアトラクションだらけ。
「ここに来て喜ばない子供は居ない」
と断言できるというか、大人でも楽しめるほど充実しています。
さて本題。
先に建造されたのは鈴鹿サーキットで1962年に作られました。
鈴鹿サーキットは日本初の全面舗装サーキットなんですが、これは本田宗一郎が
「レース場&試験場が欲しい。絶対に必要。」
と言い出したのが始まり。
今では信じられない話ですが、昔はボコボコの河川敷や峠道でテストしていたんですよ。
ただし鈴鹿サーキットの建設は一筋縄では行きませんでした。
というのも当時の日本はモータースポーツ観戦という娯楽文化がなかったから。
観戦できる様に観戦席を設けようとしたら・・・
「ホンダがギャンブル場を作ろうとしている。」
という誤解が広まり、地元住民や自治体を中心に猛反対されてしまったわけです。
競艇場とか競馬場の延長線上に捉えられてしまったんでしょうね。いま聞くと笑える話ですが。
しかしサーキット場を造ることは副社長だった藤沢さんも賛成で、あちこち説得して回ることで誤解を解き建設にこぎつけた歴史があります。
藤沢副社長がなぜ賛成したのかというと
「モータリゼーションの底上げに繋がる」
と考えたから。
そしてそのためのもうひと工夫。
親子で楽しめる施設にして、小さい子にも(小さい頃から)その面白さを身近に感じ、知ってもらいたいと考えた。
そうして生まれたアイディアがアトラクション併設という形。
今も昔もコースだけでなく親子で楽しめるアトラクションが充実しているのはこのため。
藤沢副社長が目指したのは
『ゴミが一つも落ちていないサーキットを兼ねた遊園地』
これは”夢を与える”という同じコンセプトを持っていたディズニーランドにヒントを得たそう。
つまり鈴鹿でゴミをポイ捨てする事は藤沢さんを冒涜する行為なので絶対に止めましょう・・・いや鈴鹿に限った話ではないですが。
それに対しツインリンクもてぎは1997年に作られた比較的新しい国内最大規模のサーキット場です。
ただし鈴鹿サーキットと同じくホンダが作りたくて作ったサーキット場であり、基本的なコンセプトも一緒。
だからアトラクションが充実しています。
しかしながら鈴鹿サーキットという立派なサーキットを既に持っていたにも関わらず
「どうしてホンダはもう一つ作ったのか」
って思いますよね。
サーキット場というのは莫大な維持費が掛かるので、ホームサーキットを持っていないメーカーも当たり前の様にいます。
国際サーキットを、それも日本国内に二つも持つというのは普通では有り得ない話。
じゃあホンダが何故ツインリンクもてぎを作ったのかというと
「関東でレース出来る場所が欲しい」
という営業側からの要望がキッカケです。
要するに首都圏からアクセスが良い場所に欲しいという話。
でもですね・・・これはただのキッカケ。
要望が持ち込まれた当時(80年代)の社長は三代目になる久米是志社長。
「自動車技術会インタビュー(pdf)」で話されていたのですが、久米社長にはずっと気がかりな事がありました。
「現地生産の流れで輸出はいずれ出来なくなる。資源のない日本は知的財産しか飯を食える道はない。」
日本からの輸出がどんどん減っている状況に懸念を抱いていたわけです。
「じゃあ知的財産ってなんだろう。」
と考えた時、ホンダの脳と言われる開発部門の研究所を置いておくだけでは不十分。
「道具としてではなくカルチャーとして親しむ人達がいてこその知的財産」
と考えたわけです。
そしてそれにはそういう人達が集まれる場所が必要不可欠。そうした場合、やはり場所は集まりやすい関東が良い。
そんな考えがあったから久米社長は計画を承認したんです。
「触る、作る、楽しむ、遊ぶ・・・そういう事が好きな人達が集まって面白いことをやりだす”モータリゼーションの聖地”みたい場所を作りたかった。」
「『もてぎに行けば何かしらやってるぜ』って言われる様になるといいなって。」
これが二つ目の国際サーキット”ツインリンクもてぎ”が作られた理由です。