駒ではなく仲間を増やしたスズキ ~マニュファクチャラー7連覇の栄光~

スズキレーシングチーム

スズキのロードレースにおける偉業というと鈴鹿8耐ヨシムラとのタッグによる番狂わせの優勝が有名ですが、一方で純レーサーで行われるWGPとなると今ひとつ語られないイメージ。

2015年にWGP(MotoGP)へ復帰し、2016年には初勝利を上げ2019年に至っては上位に食い込むなど大健闘をしているんですけどね。

スズキのWGP

当たり前ですがスズキもWGPでチャンピオンに輝いた事もマニュファクチャラータイトルを取ったこともあります。

若い方は

「スズキがWGPでブイブイ言わせてた時代がある」

なんて言っても信じられないでしょうから輝かしい功績と合わせてスズキのWGPにおける実績を交えつつ長々と。

まず何と言っても紹介しなければいけないのが50ccクラスで出場した伊藤光夫さん。

マン島TT王者伊藤さん

1963年にWGPの中でも特別な位置づけにあったマン島TTで日本人として初であり唯一の優勝された方。

この時のメーカーがご覧の通りスズキでした。※2019年7月3日逝去

そこからズズッと進んでバイクブーム時代だった80~90年代。

この頃を知る方ならスズキのWGPといえば

WGP歴代チャンピオン

「ケビン・シュワンツ」

と即答される方も多いかと思います。

当時を知らない人でも名前くらいは聞いたことがあるかと思いますがザックリ説明するとアメリカの方で、苦節八年デッドヒートの末にRGV-Γ500で並み居る強豪を抑え1993年にチャンピオンとなった苦労人です。

ケビン・シュワンツ

暴れるマシンを器用に乗りこなす姿から

「ロデオライディングのフライング・テキサン(テキサス人)」

と称され非常に人気がありました。

しかしながら実はこれらの時、伊藤さんの時もケビンの時もスズキはマニュファクチャラータイトルの獲得には至っていません。

バリー・シーン

これは2000年に同じくWGPチャンピオンとなったロバーツjrの時もそう。

理由としてスズキは二輪部門が小さいくせに赤字事業で金欠だから。お金がないからライダーやセカンドチームなど環境規模を大きくする事が出来ずポイントを稼ぐことが難しいんです。

では

「スズキはWGPでマニュファクチャラータイトルと取った事がないのか」

というとそんな事はなくこれまで7回も獲得しています・・・しかもその7回というのは7年連続で。

これがいつかというとケビン・シュワンツよりもう少し前の1976年の事。

バリー・シーン

『バリー・シーン』

というエースの活躍によって1976~1977年チャンピオンと同時にスズキもマニュファクチャラータイトルを獲得しました・・・が、それもここまで。

3年目となる1978年に思わぬ天才ライダーが黒船のごとく現れます。

ケニーロバーツ

『ケニー・ロバーツ』

こちらも名前くらいは聞いたことがある人は多いでしょう。

ハングオンまたはハングオフという膝を出して曲がっているスタイルとイエローストロボ(インターカラー)を世界に広めた伝説のライダー。それまでの常識を覆すような神がかり的な速さで1978年から三連覇を達成しました。

その時のレース結果がこう。

1976年から1980年

優勝はケニー・ロバーツ・・・だけどもマニュファクチャラーはスズキ。

「どうしてスズキがマニュファクチャラーを死守できたのか」

という話ですが、この頃のWGPはホンダがNRとかいう斜め上な挑戦をしていた事もあり実質的にヤマハとスズキの一騎打ち状態で、例として1979年の年間リザルトをあげるとこういう結果でした。

1位ケニー 113pt
2位バージニオ  89pt
3位バリー 87pt
4位ウィル 66pt
5位フランコ 51pt
6位ボート 50pt
7位ジャック 36pt
8位ランディ 29pt
9位フィリップ 29pt
10位トム 28pt

ここで注目してほしいのはケニーではなく2位以下・・・実はこれ全てスズキなんです。

1979年のWGPリザルト

怒涛のスズキラッシュ。

だからマニュファクチャラーのリザルトはこう。

1位スズキ165pt
2位ヤマハ138pt
3位モルビデリ2pt

優勝はヤマハのケニー・ロバーツだけどマニュファクチャラーは逆転してスズキ。

こうしてスズキはマニュファクチャラーの連覇を達成する事が出来た。

1979年のWGP500シルバーストン

金欠のスズキが何故これほどのエントリーを設けられたのかというと、これはスズキが設けたわけではないんです。

「メーカー直系ではないプライベーターの多くがスズキを選んだから」

なんです。

というのもスズキはYZR500という怪物マシンを投入してきたヤマハに対抗するため

XR14

『RG500/XR14(eXperimental Racer)』

というファクトリーマシンを製作し1974年から挑んでいました。

しかしその一方でWGPで初のチャンピオンとなった1976年に

『RG500-1』

という瓜二つながら別の名のレーサーも製作。

RG500-I

これはファクトリーマシンRG500/XR14と一部の部品を除いてほぼ全て同じといえるレーサーレプリカならぬファクトリーレプリカ。

スズキはなんとこれを300万円という破格の値段で売ったんです。

何千万円と開発費が掛かっているレーサーと寸法までほぼ同じマシンを300万円で販売なんてスズキとしてはもちろん大赤字だし、こんなものを売ったらワークスを脅かす存在にもなる。

一体全体どうしてこんな事をしたのかというと

「ワークス(自分達)だけでなく共に戦ってくれる仲間を作ろう」

という方針転換をしたから。

それまで市販車ベースの改造車がメインだったプライベーターにとって巨大メーカーが手掛けた最速マシンが破格で手に入るなんて夢のような話。

RG500-II

しかも毎年ちゃんと改良される上にスズキのメカニックサポート付きなもんだから何処のチームもこの市販レーサーRG500を買い求めた。

その結果パーツの融通やセッティングのノウハウなどを共有するチームの垣根を超えた巨大なRG500ファミリーが完成しWGPがスズキ一色に。

そしてスズキの思惑通りワークスがダメな時もプライベーターが代わりに勝利を上げてくれた事でマニュファクチャラータイトルを死守する事が出来たというわけ。

実質RG500一択だった状況の結果こういう珍事も起こりました。

RG500-II

マシンはスズキのRG500なのにツナギはイエローストロボのインターカラー・・・。

これはUSヤマハに所属しWGP250で戦っていた

『ランディ・マモラ』

という選手が途中で契約解消となった際、市販ファクトリーのRG500で参戦していたプライベーターの席が急遽空いて飛び乗ったから。

そうしたら19歳ながらケニーの前に出るわ表彰台で2位を獲得するわの大活躍で

「アイツは何者だ」

と話題になり翌年からはスズキワークスと契約。

スズキワークス ランディ

その後もWGPで活躍という正にシンデレラストーリーとなったわけなんですが、これもスズキがRG500というとんでもないファクトリーレーサーを売ってプライベーターを活気づけたから出来たこと。

もちろんスズキもライダースタイトルを諦めたわけではなく晩年の1981年と82年には再びワークスで挑み見事にリベンジ。

1976年から1982年

この要因の一つとしては再び勝つために大きく生まれ変わった新型ファクトリーマシンの投入があったから。

その名も・・・

XR35

『1981 RGΓ/XR35』

そう、皆さんご存知ガンマの始まりはここになります。

XR45

『1982 RGΓ/XR45』

スズキはこのRGΓによってリベンジ&二連覇に成功しワークス撤退となりました。

つまりスズキのマニュファクチャラータイトル連覇は本当なら2連覇で止まるハズだった。

それを7連覇まで伸ばすことが出来たのはワークスだけでなくプライベーターも一緒になって戦ったから。

1980WGP

「駒ではなく仲間を増やす」

という異例の戦略を取ったから成し得た偉業なんです。

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