「ホンダが送る豪華版 スーパーカブ号」
今や世界160ヶ国以上で販売され総生産台数一億台を超えた名車スーパーカブの初代であるC100型。
先に紹介したカブF号で成功を収めていたホンダだったんだけど、バイク戦国時代ということで他メーカーに追従されジリ貧状態でした。
そんな中で本田宗一郎はスバルのラビットや三菱のシルバーピジョンといった当時としては高級な乗り物だったスクーターを売ろうとジュノオK型を発売。
しかしこれがオーバーヒートを起こすなどお世辞にも完成度が高いバイクとは言えず、わずか1年半で生産終了に。
リベンジを誓っていた本田宗一郎だったんですが、そんなある中で通産省後援による海外視察に行こうと専務(後の副社長)である藤沢さんが本田宗一郎を連れてヨーロッパへ。
そこで見たものは日本でいうところの原付が生活の足、コミューターとして根付いていた事。
本田宗一郎と藤沢武夫はそれを見てもっと庶民に親しまれるバイクを作らないといけないという結論に。
ちなみに参考にしようとバラして持ち帰ろうとした所、重量オーバーだと空港で止められた際に
「俺が重量オーバーならあの太った人はいいのか」
と言って事なきを得たのは有名ですね。
あとマン島TT参戦を決めたのもこの遠征がキッカケです。
会社が傾いていた上に何のノウハウも無かった中で、世界GPに打って出るというのはあまりにも無謀だと言われていました。
しかし終わってみたら前人未到の全クラス制覇。ホンダの名を世界に轟かせる事になったわけですが。
話をカブに戻します。
ヨーロッパから帰ってきて本田宗一郎はすぐに次世代のモペット開発計画
「マルMプロジェクト」
を立ち上げました。
欧州のように庶民の足として根付く日本のコミューターとして導き出した答えが
「そば屋が片手で運転できるバイク」
でした。
スーパーカブといえば代表的なのは遠心クラッチ開発によるクラッチレス化が有名ですが、開発において他にも大変だったのがエンジン。
本田宗一郎は元々2st嫌いなのでカブは4stで行くと決まったわけですが、2stのA型ですら1馬力だった中で”4馬力”というあり得ないほどの高い馬力目標を掲げました。
これはまだまだ未舗装路の多い日本ではパワーが無いと荷物を載せて走れないという考えから。
このエンジンを任されたのはF号に続き星野さんだったんですが、来る日も来る日も燃焼室の設計を見直す毎日。
そんな中でも面白いのが
「バルブを大きくするしか道はない」
という事でNGKに当時14mmが当たり前だったネジ径に対し、10mm径の特注プラグを特別に用立ててもらった事。
これによってバルブ径を大きく取ることができ、4.5馬力を発揮するエンジンがなんとか完成。
このように一番初めのスーパーカブであるC100というのは特注部品のオンパレードでした。
馬力だけでなく走破性を上げるために採用した17インチという大径のリムとタイヤもそうですし、泥除けのプラスチックカバーもそう。
コミューターにあるまじきスペックと専用装備を誇っていた。
そのためC100は当時5万5000円と他所よりも3割近く高い車体価格・・・と言ってもこれだけスペシャルパーツを奢っているので普通に売っても採算が取れない。
しかし影の本田宗一郎こと藤沢さんには考えがありました。
全メーカーの総生産台数が3万台強の時代に
「月3万台売れば量販効果で元が取れる」
として強気な投資/生産を決定。お互いのやることに口出ししないという約束通り本田宗一郎も全幅の信頼を置いていたので何も言わず。
実際どうだったのかというと、初年度こそ目標には届かなかったものの
「速くて燃費が良くて壊れない」
という口コミ、そして鉄の塊のようなバイクしか無かった時代だったので
「スタイリッシュでカッコいい」
という評判もあり二年目には月産3万台という目標を見事に達成。
とにかく造れば造るだけ売れる状況で、完成待ちの卸売業者が工場の外で待機するほど。
そして遂にはスーパーカブ専用の工場まで設立。
いまホンダのNシリーズ等の軽やFITなどを作っているこの鈴鹿製作所はもともとスーパーカブを造るため、スーパーカブによって建てられた工場だったんですよ。
その鈴鹿製作所が出来てからは月産5万台を超えるほどのペースに。
C100はあまりの売れっぷりから時期によって形や色が少し違うモデルがいくつもあります。
これが何故かいうと部品メーカーの供給が追いつかなくなったから。
一社のみの供給では間に合わなくなり、色んなメーカーから掻き集める様な形になったんです。
当時のチラシでも追いついていないのが分かりますね。
このC100の登場と、強気な戦略のおかげでホンダはバイク業界の盟主として圧倒的な地位を築きました。
そしてスーパーカブは日本だけでなくアメリカでも成功を収めています。
これはC100の三年後にあたる1962年にアメリカ向けに作った赤いボディとダブルシートが特徴的なCA100。
それまでバイクと言えばハーレーなどの娯楽的なものという文化だったアメリカにおいて、実用バイクという新しい風を吹き込むことに成功。
1963年に出たスクランブラースタイルのハンターカブC105Hと共にホンダのアメリカ市場の足がかりとなりました。
ちなみにこのスクランブラースタイルのハンターカブは後に日本でも短期間ながら発売される事となります。
このようにスーパーカブというと色んな派生モデルがあり、アジアのウェイブやアストラなどまで挙げだすとキリがないので基本的に国内向けのモデルに絞って紹介していきたいと思います。
ではC100にはどんな派生モデルがあったのかというと・・・
二年後1960年には要望の多かったセルモーター付きのC102(写真上)と、若者向けに5馬力までチューニングしたエンジンとスポーティなボディのスポーツカブC110(写真下)を発売。
ちなみにこのスポーツカブをベースにしたレースマシンがCR110で、少し前にDream50として復活しました。>>Dream50の系譜|系譜の外側
まだあります。
翌1961年には免許改定に合わせ二人乗り出来るように54cc化して原付二種となったC105とセル付きのCD105、更に1963年にはもっとパワーが欲しいという声に答えて90ccの上位モデルCM90を発売。
ちなみにこれが皆さんよく知るカブ90の初代モデルなんですが、実はスーパーカブ90は系譜的に言うとスーパーカブC100とは縁もゆかりもないモデル。
というのもこのCM90はC100系とは違いベンリィCD90のエンジンをC100よりも大型なボディに積んだ物。つまり中も外もスーパーカブとは違うモデルなんです。
CM90については後述するとしてC100に話を戻すと、1962年にはギアを一つ減らしウィンカーやブレーキランプを取っ払った廉価版ポートカブC240を発売。
ポートは文字通り港という意味で、世界中の港で見るように(世界中で売れるように)という意味が込められています。
一応C100の派生カブと呼ばれるのはこれだけ。
最後に初代スーパーカブC100のデザインをされた木村さんが当時を振り返ってこう言われていました。
「簡単に決まったのは車名だけだった」
デザイン、遠心クラッチ、耐久性、高馬力、低燃費。
スーパーカブC100が空前の大ヒットとなったのは、ホンダ技術者たちの苦労の連続があったからこそという事ですね。
主要諸元
全長/幅/高 | 1780/575/945mm |
シート高 | – |
車軸距離 | 1180mm |
車体重量 | 55kg(乾) [53kg(乾)] |
燃料消費率 | 90.0km/L [100km/L] |
燃料容量 | 3L |
エンジン | 空冷4ストロークOHV単気筒 |
総排気量 | 49cc |
最高出力 | 4.5ps/9500rpm |
最高トルク | 0.34kgf-m/8000rpm |
変速機 | 常時噛合式三速 [常時噛合式二速] |
タイヤサイズ | 前2.25-17-4PR 後2.25-17-4PR |
バッテリー | 6N2-2A-7 |
プラグ ※2つの場合は手前が、3つの場合は中央が標準熱価 |
C7H |
推奨オイル | ホンダウルトラ 夏季#30 冬季#20W,#10W |
オイル容量 ※ゲージ確認を忘れずに |
全容量0.6L |
スプロケ | – |
チェーン | – |
車体価格 | 55,000円 [43,000円] ※スペックはC100 ※[]内はポートカブ(C240) |