「I’aventure」
SRを語る上で絶対に外すことが出来ないのが偉大なご先祖様であるXT500/1E6型。
このバイクが誕生したキッカケはUSヤマハから
「4stビッグシングルのオフロードが欲しい」
と言われた事が始まり。
これは当時アメリカで4stのスクランブラーをボアアップなどして楽しむ人たちが出始めていたから。そこを狙い撃ったのがXT500というわけ。
サラッと言いましたがどうしてスクランブラーが全盛だったのかといえば4stビッグオフ自体がまだ未知に近い時代だったから。
ましてヤマハは当時まだまだ2stがメインだったので、お手本となるバイクもなく右も左もわからない状況。そのため最初は4stナナハンTX750の部品を流用した単気筒450ccのトコトコ系なプロトタイプを開発しアメリカでテスト。
すると現地で物凄いダメ出しが来た・・・それもそのハズ、向こうの人が求めるのはもっとガンガン走れる4st版ビッグモトクロッサーだったからです。
エンジン設計の大城さんいわく、このダメ出しで開発チーム火がつき
「軽く、コンパクトで、高い耐久性を誇り、なおかつ美しい」
をコンセプトに掲げSC500(2st500モトクロッサー)をベースに再開発。
「1グラム1円(1円のコストで1グラム削る)」
を合言葉に4stでネガとなる重さを改善し、最低地上高を稼ぐドライサンプかつフレームにオイルタンクの役割を持たせる画期的な『オイルタンクインフレーム』を新開発。
ちなみに車体担当だった大野さんはトヨタ2000GTにも携わった方で、エンジンの方でも500ccにまで拡大しつつ同様に2000GTで培ったヘッド技術を投入。
結果タイヤのブロックパターンを捩じ切ってしまう問題を起こすほどガンガンな物にパワーアップしました。
更に凄いのはこれだけの性能をもたせつつカリフォルニアのモハーヴェ砂漠(35,000km2)を難なくはしりきれる耐久性も持たせたこと。
これはプロトタイプのダメ出しで火が付いた開発チームが自ら乗り込んで走り込むようになった際に耐久性の大事さを再確認させられたから。
その熱の入れっぷりは凄まじく、有名なのが始動を容易にするために備えたデコンプなどを含めた耐久性を検証するためにやった
『一万回のキックテスト』
何が何でも壊れないエンジンに仕上げたかった大城さんの発案で、一人100回をチーム内でローテーション。
まさに体当たりといえる開発で造られたXT500は好評どころか歴史に名を残すほどの名車となったんですが、そうなった経緯も凄い。
ビッグシングルバイクが全盛だったのは1960年代で、XTが出た70年代後半は多気筒や2stがメインだった。
じゃあなんでこんな4stビッグシングルが売れたかというと、ポテンシャルの高さを見抜いた目の肥えたコアな人達が飛びついたから。
具体的に言うとレースをやっている様な人たち。
そういう人達にとってXT500やTT500(保安部品が付いていないコンペモデル)は4st特有の粘りと信頼性をもった最高のバイクだった。
だからアメリカではモトクロスやエンデューロはもちろん、畑違いなフラットトラック(オーバルダート)にまで持ち込んでくる人まで出た・・・これが全米を震撼する出来事を起こす事になります。
テキサスで行われたフラットダートレースにて、なんとハーレーワークスのVR750や王者ケニー・ロバーツのXS650改を抑え、リック・ホーキンスのTT500が勝利したんです。
ツインエンジンが当たり前だったフラットトラックでまさかの優勝。
「あのシングルエンジンは何だ」
と話題になり、XT500/TT500だと分かるとユーザーはもちろん王者ケニーまで乗り換えるほどに。
結果としてダートだけでなくモトクロスやバハ1000などあらゆるレースで使われるようになり、そして活躍する姿を目の当たりにした人達もXT500/TT500を買い求めアメリカはビッグシングルブームへと突入することになりました。
一方で欧州の方はどうかというと、こっちもレースが絡んでいる。
XT500/TT500はもともとアメリカ向けバイクで欧州では後回しでした。そんな中でファーストコンタクトとなったのがISDEという1975年末にイギリスで行われていた6日間にも及ぶエンデューロレース。このレースにアメリカ人ライダーがXT500(おそらく先行生産された200台)で参戦したことが始まり。
これを見たスウェーデンヤマハの代理店に勤めていた4st好きなモトクロスレーサーのハルマンとランディが
「なんだそのバイクは・・・レースが終わったら売ってくれ」
と直談判し買い取った後に自分たちでハスクバーナのフレームに積むなどチューニングし、モトクロッサー版XT500を開発。
それを日本のヤマハに見せて
「世界モトクロス選手権に参戦したらXT500の宣伝になる」
と直談判し、開発と資金調達の目処を立てて参戦。
そうして開発されたのがこの
『HL500(Hallman Lundin)』
というモデル。
HL500は並み居る2st500ワークス勢に負けずポイントを獲得するなど大健闘をしたことで、クロスするように販売されたXT500がドイツを中心にヒット。
HL500の存在は向こうではかなり有名なようで、XT500をHL500風にするレプリカ的なカスタムが流行ったりもしました。
そんな欧州でさらなるヒットを呼ぶキッカケとなったのが有名なパリダカ。
フランスヤマハがXT500SPL(TT500ベースのビッグタンク仕様)にて、1979年の第一回ダカールラリー(旧名オアシスラリー)をワンツーフィニッシュ、第二回では表彰台独占という快挙を達成。
これによりもう欧州でその名を知らぬものは居ないと言い切れるほどの存在に。
ちなみにXT500が欧州で人気となった理由には他にも
「構造がシンプルで修理やカスタムがしやすい」
という部分も大きかったようです。だからダカールラリーでも勝てたんでしょうね。
そして最後は日本・・・実は日本でも話題になったんですよ。
それは発売の翌年にあたる1977年に行われた鈴鹿六耐(八耐の前身)での事。
ロードボンバー/SHIMA498YというシマR&Dの島英彦さんと三栄書房社長だった鈴木脩己さんがタッグを組んで造ったモデル。
XT500のエンジンをオリジナルフレームに搭載したこのマシンがエントリーしたんですが、当時は無謀というか誰も注目していませんでした。
「四気筒のリッターバイクに敵うハズは無い」
と。
ところが単気筒ならではの軽さと燃費を武器に八位入賞という下馬評を大きく覆す結果となり一転してシングルの星として。
ロードボンバーについてはもう一つ話題があるのですがそれはSRのページで話すとして、XT500はこのように日欧米全てのレースで結果を残し歴史に名を刻む事になりました。
改めてもう一度言いますが、何が凄いってこれヤマハにとって4stビッグシングル第一作目という事。
にも関わらずフラットダートでワークスに勝って、モトクロスで2stと互角の勝負を繰り広げて、畑違いの鈴鹿でもマルチ相手に善戦し、ダカールラリーでは敵なしで連覇。
これを名車と言わず何と言いましょう。
最後に小ネタ。
XT500は最初の試作機がダメ出しされて作り直した経緯があるという話をしたんですが、実はその後にもう一度作り直された経緯がある。
原因はXT500を開発する上で掲げたコンセプト
「軽く、コンパクトで、高い耐久性・・・なおかつ美しい」
の”美しい”の部分を満たしていなかったから。
というのも性能を追い求めた結果エンジンの形が左右で大きく違うものになってしまったから。
エンジン担当だった大城さんはこれがどうしても納得がいかず、最後の最後で作り直してるんです。
※ヤマハニュースNo487
SRにおける造形美の一端を担っているエンジンの美しさは実はこのXT500譲りなんですね。
XT500はパフォーマンスだけではなく、美しさまでも妥協なく磨き上げられた文句のつけようがないビッグシングルでした。
主要諸元
全長/幅/高 | 2170/875/1180mm |
シート高 | 835mm |
車軸距離 | 1420mm |
車体重量 | 139kg(乾) |
燃料消費率 | 43.0km/L ※定地走行テスト値 |
燃料容量 | 8.8L |
エンジン | 空冷4サイクルSOHC単気筒 |
総排気量 | 499cc |
最高出力 | 30ps/5800rpm |
最高トルク | 3.9kg-m/5400rpm |
変速機 | 常時噛合式5速リターン |
タイヤサイズ | 前3.00-21-4PR 後4.00-18-4PR |
バッテリー | 6N6-3B |
プラグ ※2つの場合は手前が、3つの場合は中央が標準熱価 |
D8EA |
推奨オイル | – |
オイル容量 ※ゲージ確認を忘れずに |
全容量2.2L 交換時1.2L フィルター交換時1.3L |
スプロケ | 前16|後44 |
チェーン | サイズ520|リンク100 |
車体価格 | 370,000円(税別) |
ランボーにもチラッと登場したよね?
保安官の事務所から逃げ出してすぐに奪ったバイクがコレだったような・・・。
パトカーを振りきろうとして、立ち上がりでハデなウイリーをしてたアレ。
違ったらゴメンなさい。