「YOSHIMURA」
バイクを知るものでこのカスタムメーカーの名を知らぬものは居ないでしょう。生産のホンダ、チューニングのヨシムラとか言われてたりしますよね。
YOSHIMURAの由来は文字通り創業者の吉村秀雄さんから取ってるわけですが、その吉村秀雄について色々と書いていこうと思います。
吉村は実は最初からバイクの道を望んでいたわけではなく子供の頃は航空操縦士を目指していました。しかし訓練中の事故により操縦士の道が絶たれる事に。それでも諦めきれなかった吉村は今度は航空技師を目指します。
すると19歳で航空技師合格という最年少記録を塗り替えてしまう。もうこの時点で既に天才の片鱗を見せていますね。
しかし残念ながら敗戦と同時に航空産業が禁止された事で、その道は完全に閉ざされる事となりました。更に多くの仲間の戦死も重なり吉村は既に結婚して子供も居たにも関わらず、働かずギャンブルばかりする典型的なダメ親父と化してしまいます。
そんなどうしようもない日々が続いていたある日、もともと航空機のエンジニアだった上に戦中はシンガポールでハーレーに乗っていた事から英語ペラペラという事で、それを聞きつけた在日米軍からのバイクの整備を依頼が舞い込みました。
その確かな腕はあっという間に在日米軍の間で広まり仕事がジャンジャン舞い込んできました。
更には米軍向けにBMWやBSAの代理店を始めるまでになり、在日米軍から親しみを込めてPOP(オヤジという意味)吉村と呼ばれるように。POP吉村と言われる由来はここからです。
そんな整備依頼をこなしていく中で転機が訪れたのは在日米軍からのある依頼・・・それは
「今度のドラッグレースに勝てるようにチューニングしてくれ」
というチューニングの依頼でした。
その仕事を引き受けると吉村は直ぐにエンジンを下ろしエンジンのカムやバルブを削るという当時としては非常に珍しい事をやり始めました。もちろん吉村は分かってやっていたわけですが、これを手の感覚だけで出来る人間ましてそれで性能を上げられるなんてPOP吉村くらいなものです。
そんな吉村の手が加えられたカムやバルブを積んだバイクは明らかに速く、瞬く間にその名は知れ渡り”神の手を持つ男”と呼ばれるまでに。
吉村自身も新しい道を見つけたと目を輝かせ、寝ても覚めても削って理想のカムを追い求めていたそうです。
次第に日本人の間でも草レースが行われるようになり、当然ながらその中でも吉村に手がけられたバイクはダントツの速さでした。
そんな吉村の実力を耳にし提携を求めてきた会社があります。
皆さんご存知ホンダです。吉村の腕を見込んで当時始めたばかりの四輪レース用チューニングの依頼を申し出てきました。
吉村は元々本田宗一郎に憧れを抱いていたのでコレを快く快諾し東京進出を果たします。
そこから更にCB750FOURのチューニングも手がけ、アメリカのデイトナレースで二輪としては世界初となる集合管マフラーを披露することに。
この件でヨシムラの名は日本だけでなくアメリカ中に知れ渡る事となり集合管ブームが巻き起こりました。世界のYOSHIMURAになった瞬間です。
が、しかしここで少し事件が起こります。吉村はホンダのチューニングを手掛けると同時にホンダの部品をチューニングして売るという事もやっていたのですが、その元となる部品の供給が止められてしまう。
これでは会社が回らないと吉村は意を決して本田宗一郎へ直談判に。それを聞いた本田宗一郎は「恥ずべきことだ」と担当を怒鳴り散らしたそうですが、それでも供給は戻りませんでした。
※コレには説が2つあります。
・ホンダ側が吉村の技術力の高さを恐れて供給を止めた説
・そもそも部品供給が間に合っておらずグループ外だった吉村は後回しにされた
どちらの説が正しいかは吉村のみぞ知る話ですが、どちらにせよホンダはレースを吉村に頼ることを止め、レース専用の部署(HRCの前身)を新たに設けるというが下され、吉村とホンダは決別する形となりました。
部品の供給を受けられなくなった吉村は廃車や中古車から部品を取っては手を加え販売&組込というそれまでの功績が嘘のような泥臭い運営に。
そんな状況でも吉村は絶対に諦める事はなく
「大きい所に勝つ」
という目標を掲げレースを続けていました。
しかし現実はそれほど甘くはなく経営は悪化の一途。そんな中でアメリカのビジネスマンから
「アメリカでヨシムラの商品を協力して売らないか?」
という商談が持ち込まれます。上で説明したたデイトナレースでの集合管がキッカケです。
吉村は願ってもないチャンスだと集合管を輸出するように。そしてそれが好評だったのを受け、吉村はアメリカ進出を目指します。
進出というよりも日本の工場を売り払ってアメリカに新しい工場を立てるという移転ですね。ホンダとの決別が引き金になったようです。
もちろん家族は大反対。これに激怒した吉村は家族(長女と一番弟子の夫)を勘当し渡米。でもやっぱり海の向こうでもヨシムラの手がけたバイクはダントツの速さで、ヨシムラマシンの特徴だった集合管がアメリカで一大ブームとなります。
今となっては「アメリカ人が唯一読めるカタカナ」とまで言われるレベルです。ホンダのCB750FOUR2やカワサキのZ1000Aが集合管にモデルチェンジしたのは紛れも無くヨシムラの影響。
がしかし、またもや問題が発生。手を組んでいたアメリカのビジネスマンが欲に目がくらんだのか最初から狙っていたのか吉村を追い出し会社を乗っ取ってしまいます。
抗議も虚しく吉村は金もUSヨシムラも工場も失ってしまい無念の帰国。
心身ともにボロボロとなった吉村でしたが、そんな吉村に勘当された長女と一番弟子はいつ帰ってきても良いようにと新しく鈴鹿に工場を作っており迎え入れました。ちなみにこの会社がMORIWAKI(夫の名前から)です。
これで吉村も折れたのかと思いきや
「今度こそアメリカで成功する!何としても”偽ヨシムラ”を叩き潰してやる!」
と全く懲りずに日本でYOSHIMURAを再開し稼いだお金で再びアメリカ進出を目論み家族と大げんか。
結局「ヨシムラR&D」という社名で再び渡米し、積年の怨みをレースで晴らすかのごとくデイトナレースで前代未聞の三連覇を成し遂げ見事に偽物を叩き潰しました。(※今あるアメリカのヨシムラは本物のヨシムラです)
悲願が叶った吉村でしたが直ぐに次なる目標が出来ました。それは意気投合したスズキの横内悦夫さんとの口約束。
「ホンダに勝とう!」
です。
1970年代半ばにスズキから初めて提供されたGS750を吉村は僅か三ヶ月のチューニングでいきなりAMAスーパーバイクを優勝しスズキの横内さんも驚いたそうです。
そんな中で二人が耳にしたのが
「第一回インターナショナル鈴鹿8時間耐久オートバイレース(現 鈴鹿8耐)」
そして
「そのレースをホンダワークスのRCBが走る」
という事でした。
スズキとヨシムラはRCBと戦えるチャンスと、このレースに照準を定めることに。
AMA優勝の勢いそのままに・・・といきたい所ですが、相手がホンダワークス(ホンダ・エンデュランス・レーシング・チーム)のRCBとなると話は変わってきます。
当時RCBは2年連続ヨーロッパ耐久選手権優勝、更にその翌年(第一回鈴鹿8耐の前年)には全勝優勝を達成し無敵艦隊とまでいわれていたからです。
それに対しスズキは4stレース経験が皆無に等しい状態。そのことはスズキも身にしみて分かっていて
「750のままじゃダメだ」
とGS750を元に更なるパワーアップ、そして品質の向上を図ったGS1000の開発に明け暮れてました。
そしてスズキ(横内さん)が凄いのは、まだ開発中だったフラッグシップモデルになる予定の秘蔵車GS1000のプロトタイプを鈴鹿8耐でホンダに勝つためと社内の反対を押し切って吉村にくれてやったんです。このバイクを好きに使ってくれと。
GS1000は当時まだ開発途中だったもののスズキの造り込みに
「過剰品質だ。レースに向いてる。」
と吉村ですら舌を巻いたのは有名な話。それだけスズキも吉村も鈴鹿8耐に賭けていたわけです。
世間は誰もがRCBが勝つと思っていました。
当時はまだ世界選手権クラスではなく、今の鈴鹿8耐よりもお祭り感のあるレースでホンダRCBの凱旋レースの様なものと捉えてる人が大半でした。それは参戦するチームもそう。
上で言ったとおり全勝優勝するようなホンダのワークスマシンに勝ちたいなんて普通は思わない。でもスズキとヨシムラだけは本気だったわけです。
そしてご存知な方も多いとは思いますがRCBのトラブルも重なったとはいえ、終わってみたら優勝はYOSHIMURA。
「しがない町工場のパーツ屋が、天下のホンダのワークスマシンRCBに勝った」
これには誰もが度肝を抜かれ、誰もがYOSHIMURAの凄さを認めざるえない歴史的な出来事となりました。
吉村はこの一件以降も留まるところを知らず、GSX-R750によるF-1三年連続優勝、F-1、F-3ダブルタイトル獲得、世界初のレース用チタンマフラー、そして世界選手権クラスとなった1980年の鈴鹿でも優勝と、数々の功績を挙げていきました。
かの本田宗一郎も大きくなっていく会社の入社式において
「町工場でも大企業に負けないという信念を持っている吉村という男がいる。皆もその精神を持って欲しい。」
と言っています。
更に余談ですが・・・
吉村は本田宗一郎の息子である本田博俊(MUGEN創業者)が
「チューニングの技術を学びたい」
と、よりにもよってホンダと決別した後に申し出てきたんですが、快く受け入れ技術指南を行いました。つまりMORIWAKIは勿論のことMUGENもYOSHIMURA無しには語れないYOSHIMURAには足を向ける事が出来ないメーカーなんですよ。
そんな気さくで大らかな吉村は晩年になろうとも決して現状に満足すること無くレースに打ち込み、ガンを患い余命幾ばくとなろうともピットに立ち続けました。
「挑戦してやり遂げた時の喜びに勝るものは無い」
最期にそう言い残しています。
系譜図