ホンダがハーレーを救った理由

ホンダは1980年頃にハーレーに対し技術供与というか資本的な提携が一切ない技術指南を行ったんですが・・・有名かと思いきやこの件に対して驚きの声というか詳しく知りたいという声を頂いたので長々と説明を。

最初に断っておきますがこの話は某識者から伺った話や、この件に関するであろう話を元にした推測なので話半分に聞いてもらえると助かります。

ハーレーは親会社AMFによる事業のスリム化によって落ちてしまった品質や業績を改善する為にホンダを頼ったと言われており

・V型エンジン技術

・日本流製造方式(通称カンバン方式)

をホンダから指南してもらった事で復活の足がかりを得ました。

この一件について巷では

「本田宗一郎がハーレーを助けろと言ったから」

などと美談で語られていますが、そういう単純な話ではありません。

ホンダが何故ハーレーに技術指南をしたのかというと・・・

GOLDWINGエンブレム

「ゴールドウィングを売るため」

と言われています。

これがどういう事なのか一言で表すならば1980年代頃にピークを迎えた対日貿易赤字(日本からすると黒字)による

『日米貿易摩擦』

にあります。

元々アメリカのバイク市場は50年代からBSAやTRIUMPHなどの英国勢が猛威を奮っていました。

インディアンモーターサイクル

その勢いにハーレーと並んで二大巨頭だったインディアンは業績が悪化し1953年に撤退。この時点で既にアメリカのバイクメーカーはハーレーだけとなりました。

そこにホンダという新興勢力が1959年から参入。

アメリカ製CR250R

参入を決めた際には国や社内からも猛反対にあったものの、スーパーカブなど当時アメリカにはなかった下駄車という文化を広め小排気量でシェアを一気に拡大。

更にCB450などで上のクラスへの展開も始めた事で1966年には年間販売台数の実に66%をホンダが握り、アレほど猛威を奮っていた英国勢は9%にまでシェアが下落。

そんな破竹の勢いだったホンダがさらなる一手として参入から10年後となる1969年に出したのが有名なCB750FOUR。

CB750FOUR北米

凄まじい性能を持ちつつも英国バーチカルツイン勢と変わらない$1,495という破格の値段。

辛うじてスポーツ(今でいうミドル)部門で踏み留まっていた英国勢を一気に食いました。

そんなホンダの快進撃なんですが、この時点で既に日米貿易摩擦への懸念と配慮が見え隠れしています。

その一つがCB750FOURを750(736cc)という日本独自の排気量のままで輸出したこと。

ナナハン自主規制

「アメリカ向けなのに何故750なのか」

と思いませんか。

これは当時の軽自協会が

「アメリカに輸出するなら750cc以下にしろ」

と釘を差していたというか暗黙の了解があったから。

要するにこれ以上アメリカ(ハーレー)を刺激するなという話で、750で売り出せばハーレーより排気量が小さい上に

「これは元々は国内向けに造ったバイク」

という言い訳が立つという算段によるもの。

CB-750

更に言うなればCB750FOURの数値目標が

「ハーレーを1馬力だけ上回る」

という事だった点や、1972年に小さかったカワサキが900Super4(通称Z1)という暗黙の了解を破るバイクを出して北米市場で大成功した後も、日本バイクの象徴だったホンダがCB750のままだった事も少なからず関係している。

ただホンダも指を加えて見ているだけでなく、北米向けの強力な一手としてGL1000ことゴールドウィングというリッターバイクを1974年に出しました。

ホンダGL1000

オーバー750の北米をメインターゲットに据えたモデル。

貿易摩擦でピリピリしていたアメリカの神経を逆撫でし、ホンダ脅威論を更に増すことになる様なバイクです。

しかしホンダは考えていました。

ホンダに対する脅威論を緩和するにはどうしたらいいか・・・ホンダがアメリカに貢献するメーカーである事をアピールすればいいんです。

ホンダ オブ アメリカ マニュファクチャリング

ホンダは1978年にアメリカにHAM(ホンダ オブ アメリカ マニュファクチャリング)という現地法人を設立し、同時にオハイオ州に四輪と二輪両方を兼ねた新工場を建設しました。

狙いはもちろん

「アメリカ経済に貢献するメーカー」

という事をアピールするため。

少し話が巻き戻りますがカワサキのZ1が許されたのは弱小メーカーだった事だけでなく、いち早くアメリカに工場を建設していたからなのも大きいと思います。

アメリカ製CR250R

だからホンダも続くようにまずCR250Rから生産を始め、そして1980年に当初の目的だった対北米車であるゴールドウィングの二代目となるGL1100を新開発し生産を開始。

ここが注目してほしい所というか重要な所。

ホンダはアメリカ生産に切り替えた事を機にゴールドウィングを『ジャパニーズスタイル』からハーレーと完全にバッティングするカウルを装備した『クルーザータイプ』に変えたんです。

ホンダGL1100

ハーレーに手を差し伸べたとされる時期と同時にホンダはこういう事をした・・・どう考えても偶然の一致じゃないですよね。

つまり

『現地法人の設立』

『現地工場の建設』

『現地工場での生産』

そして主題である

『ハーレーの救済』

これらを行ったのはアメリカの国民や政府関係者のホンダ脅威論を和らげる為。

いくらアメリカといえどアメリカで造ってる上にハーレーを救済したメーカーに対し

「ハーレーの驚異だパクリだ」

と無碍には出来ないですよね。

反対にもしもハーレーに手を差し伸べずゴールドウィングをぶつけていたら何を言われたりされるか分からない話。

ホンダはこの一件でゴールドウィングを全米で大手を振って販売する事が可能になったから

「ハーレー救済はゴールドウィングを売るためだった」

と言われているわけです。

オハイオ工場

ただホンダが一枚も二枚も上手だったのはこれだけではなく

『言われる前にやった事』

にあります。

ホンダがアメリカへの投資や生産といった貢献を始めたのは1980年からなんですが、自動車を含め他のメーカーは動きが鈍かった。

それに業を煮やしたアメリカが日本と話し合った結果、1981年に通商産業省が

「対米輸出を7.1%削減する」

なる旨の自主規制を設けました・・・要するに

「アメリカで売るものはアメリカで造れ」

というアメリカの要望を日本政府が正式に飲んだわけです。

NUMMI

そんなもんだから各メーカーとも大慌てでBIG3との協業に関する合意や新工場建設でドタバタ。

その一方でホンダだけは既に行っていたので一歩も二歩も抜きん出る事か出来たんです・・・が、これは四輪の話。

アメリカホンダディーラー

バイクの場合は車ほどの市場規模がなかった為にその動きが起きず、遂にGL1100発売から2年後の1982年に700cc以上の輸入車に対し高い関税が課せられる事になりました。

※初年度45%から徐々に下げ6年目で4.5%

ここでもホンダはゴールドウィングというフラッグシップを既にアメリカで造っていたので他のメーカーと違い

「稼ぎ頭のトップエンドを輸出できない」

という状況にはならず損失は最小限で済んだ。

そしてそれと同時に

『ハーレー以外の唯一の鉄板クルーザー』

という存在にまでなった。

ちなみにTRIUMPHはこれがトドメとなり、あのBMWですら会社が傾きました。

更に言うとこの80年代にピークを迎えた貿易摩擦による日本製品の不買運動もゴールドウィングにとっては大きな追い風でした。

日米貿易摩擦

というのも車を破壊する行為が流行ったのを見れば分かる通り、日本製品の不買に賛同する人達はお世辞にも良識があるとは言い難い人達が多かった。

そしてそんな人達がプロパガンダとして祀り上げたのがメイドインUSAの象徴であるハーレーだった・・・つまりハーレーが暴徒と化した排他的な人達を象徴するバイクになってしまったんです。

その結果、本来ならハーレーを買うはずだった良識ある人達(メガクルーザーを買える上客)が

「ハーレーを買うと同類に見られてしまう」

と捉える様になりハーレーを止めてゴールドウィングを選ぶ様になった。

ゴールドウィング in USA

これはちょっとハーレーも可哀想ですけどね。

なんだか話がズレてきている気がするので纏めると、ホンダがハーレーを救った理由は

『アメリカの懐に入る』

という狙いがあったから。

GOLDWING OF America

そしてその狙いが見事に成功したからこそゴールドウィングはアメリカで絶大な人気を誇るモデルになったというわけです。

チェーンはチューンでチャーン

ローラーチェーン

馬鹿みたいなタイトルですが真面目な話。

圧倒的にチェーンドライブが多いバイクですが、チェーンドライブ車にとってチェーンというのは人間でいうアキレス腱とよく言われます。

しかし残念ながらドライブチェーンはシールチェーンが生まれ、さらに品質&耐久性が上がった事で切れて外れたりクランクを叩き割るような重大トラブルがほぼ無くなったこともあり、皮肉ながら軽視されがちなパーツ。

チェーンをメンテナンスする理由は汚れを落とし動きを良くする事で

・チェーンの寿命を延ばす

・フリクションロス(摩擦抵抗)を減らす事で燃費が良くなる

などといった理由が主ですね。一部ピカピカじゃないと落ち着かないという一風変わった人も居ますが。

フリクションロスと言うとエンジンの話によく出てくる言葉ですが、バイク場合はチェーンというエンジンを含むパワーユニットの中でも非常に高いフリクションロスが発生する構造を持ってるわけです。

EPSエンジン

メーカーのエンジニアはそんなフリクションロスを減らす努力を死に物狂いで行っています。何故ならフリクションロスを減らせば燃費も良くなるし、馬力も上がるから・・・そう馬力が上がるんです。

知ってますか、チェーンドライブ車というのはチェーンのコンディション次第で馬力(後軸出力)が最大で10%も変わります。マフラーやエアクリーナーを物色してパワーアップを図る暇があったらチェーン磨くほうが遥かに費用対効果があります。クリーナーとルブ合わせて3000円前後で後軸出力が10%もパワーアップなんてこれ以上のチューンはないですよ。

モトGP

だからレースなどにおいてチェーンは本当に使い捨ての消耗品で、MotoGPなどのトップクラスのレースになると走行毎に新品が当たり前です。10%も性能差が出るんだから当然ですね。

つまりチェーンはメンテナンスというだけでなくチューニングでもあるわけで

「パワーや燃費が気になったらまずチェーンを磨け」

という事です。チェーンを始めとした駆動系の点検にもなって一石二鳥です。

以下ダラダラ余談。

チェーンメンテの方法はネットで検索すれば幾らでも出てくると思うので割愛させてもらいます。お約束ですが5-56やパーツクリーナーで洗浄しちゃ駄目ですよ。灯油は賛否両論あるので触れません。

もしチェーンメンテの為にメンテナンススタンドを買おうか考えてる人が居たらV字フックタイプにしましょう。

フック付けるボルトが無いタイプはレーシングフック(プレートタイプ)など。

スイングアームの下から支えるだけのスタンダードタイプや、L字で受けるタイプは難易度が高く不安定になるので初心者にはオススメしません。

メンテナンススタンド

こういう悲劇を招く可能性がVフックよりも高くなります。

というかスタンド買ったら誰もが一回はすると思います。

海外ではスタンドの種類も豊富なんですけどね。面白いのがバイクタワーっていうやつ。

バイクタワー

ゲルマン魂が生み出した新世代のスタンドですが、結構お高いうえに失敗(傾く)ことがあるみたい。それに他の車種に使う場合は別途アタッチメントが必要でコストパフォーマンスはよろしくない。

他にもこういうセンタースタンドのようなメンテナンススタンドもあります。

SSセンタースタンド

安くてお手軽だけどこれもあんまり評判良くないみたい。

他にはSNAPJACKっていうお手軽な奴もある。

スナップジャック

スイングアームの下に差し込んで蹴り起こす事でリアタイヤを浮かせる方法。わざわざこれだけの為に買うくらいなジャッキでいいですよね。

なんだかんだで普通のメンテナンススタンドが他の用途でも使えますし一番。ショートタイプは上げるのにかなり力がいるのでトランポで使うなどスペース的な問題が無いならロングタイプが無難かと。

サイドスタンドの下に木片がなんか置いて車体を可能な限り水平にすれば比較的安全に上げられます。一番確実なのはスタンドで上げずに手で少しずつ押す事ですが。

スタンドの話はこれくらいにしてメンテナンスについてもう一つ。

チャーン

「俺はちゃんとチェーンメンテしてるぜフフン!」

って人にも

「面倒くさいから時々しかしない・・・」

って人にも共通するチェーンメンテの間違いがあります。それはチェーンメンテをするタイミング。

大多数の人がチェーンメンテをするタイミングは乗る前だったり乗る前日だったり。勿論それでも効果はあるんですが、もっと効果的なチェーンメンテタイミングがあります。

それは”乗り終わった直後”です。

走行後

チェーンはご存知の様に走行するためにグルグルシャラシャラ回っています。当然ながら摩擦(フリクション)があるので熱くなります。これがポイント。

その状態でチェーンクリーナーを掛けるとこびり付いている色んな物が混ざった汚れも温まってるので洗浄効果が増すわけです。それだけではありません。

走行後ならルブを挿した後は乗らないですよね?

それもポイントで、シールに掛かったルブを放置する事になるので、ルブがシールに密着する時間を与える事にもなります。

CB1000R

これがもし走行前だったらせっかく付けたルブがグルグル回される事による遠心力でチェーンから引き剥がされてしまう。ルブ塗って走ってホイールやスイングアームがルブまみれって経験ある人は多いと思います。

だから拭くわけですが、クリーナーやルブというのは乾きが遅い物が多いです。だから拭きとったからといってすぐに走りだしたら意味が無いとは言いませんが、せっかくのメンテ効果が薄れてしまいます。

あと誤解している方も居ますが、チェーンルブというのはチェーンを守るためではなく、チェーンを保護しているグリスを密閉しているシールを守る為にあるものです。

ローラーチェーン

チェーンがどうして伸びるのかと言うと3番『ピン』という青い部分に被さる様に入っている4番『ブシュ』という部分が回ることで互いが擦れて摩耗し痩せてしまうから。

それを少しでも防ぐためにこの3番と4番の間にはグリスが封入させておりシールで密閉しているというわけ。

だからよくチェーンは伸びると言われるけど、正確に言うと痩せるとか細るとかが正しい。

ピンが細く削れる事で遊びが生まれチェーンの全長が長くなる・・・どうでもいいか。

話を戻すと、つまりどれだけルブを大量に掛けてもシールの中(3番と4番の中)には入って行きません。入る様な隙間を開けていたら中のグリスが抜け出るから。

だからグリスというのはその密閉しているシールを守る為にかけるんです。だからシールの表面に定着させる時間が必要なわけですね。ただ錆止めとローラーの固着を抑える為にもローラーへの給油も忘れずに。

「チェーンメンテをするなら走行後」

です。ヘロヘロでチェーンメンテどころじゃないかもしれませんが、それが大事。

さらに余談

この記事書いた後にDIDさんが同じ内容を既に載せてる事に気づきました・・・何たるミス。ですがせっかく書いたので載せておきます。

ちなみにDIDさんによるとメンテは500km毎&雨天走行後が推奨だそうです。

そんな頻繁にしたくない、メンテ面倒くさいって人はヤマルーブとかから出てるドライタイプのルブがオススメです。掛けたことを後悔する程の強固な粘着性を持ってます。※オフ走行には適しません。

あと最後になりますがスタンドなどで上げてチェーンメンテをするときは

”絶対に進行方向とは反対に回すこと”

です。

チェーンメンテ

これホント大事です。チェーンメンテって比較的容易に出来る反面、スプロケに指を挟んで大怪我をする恐れがあるメンテナンスの中でもかなり危険な方です。

手で回す程度の速さでも挟まれたら指を持って行かれますからコレだけは本当に注意してください。特にチェーンメンテに慣れてる人。慣れは天敵、手順はチャーンと守りましょう。

チェーンメンテはチューン、でもチャーンと手順通りにね・・・なんちゃって。はいスイマセン。

ヨシムラから勘当されて出来たのがモリワキ

ヨシムラとモリワキ

日本を代表するマフラーメーカーのヨシムラとモリワキ。

初めてオートバイ用の集合管マフラーを作ったのはヨシムラですが、そのヨシムラとモリワキはもともと一緒だと知ってましたか。有名かなこれ。

POP吉村

言うまでもないと思いますが吉村秀雄という方がYOSHIMURAの創業者です。

1953年に吉村鉄工所という兄が経営していた鉄工所の一区画を間借りする形で始めたのがYOSHIMURA。間借りとか肩身狭かったでしょうね。

しかし当時はまだエンジニアなどという人が少なかった時代。そんな中で吉村はエンジン技術に長けていた上に、戦中はシンガポールでハーレーに乗っていただけあって英語ペラペラで在日米軍などからの仕事がジャンジャン舞い込んできました。

吉村秀雄

その巧みな技術力に米軍たちは敬意を込めてPOP(お父さん)と呼ぶようになり、POP吉村という愛称が生まれたわけです。

吉村は次第にその高いチューニング力を活かしオートバイレースに進出します。というかもともと吉村さんはレース大好き人間。

もちろん技術はズバ抜けていたので好成績を収め、一気にヨシムラという名前が全国に知れ渡ることになりました。

ヨシムラ

あまりにも速かったためホンダから部品供給を滞らせる嫌がらせ(諸説あり)等を受けたわけですが、その事実を吉村本人から聞かされた本田宗一郎が大激怒&陳謝。

そして活躍の舞台は次第に日本から世界へと上がり、もはやヨシムラは世界ブランドにまでなっていました。

すると得意先の一人だったアメリカ人がアメリカでも販売網を開拓すべきだとして、アメリカ向けにヨシムラレーシングをアメリカ人と50:50で共同設立。

ヨシムラレーシングUSA

これが事の発端でした。

その読みは見事に当たりアメリカで爆発的なヒットを飛ばしたヨシムラレーシングでしたが、何故か日本のヨシムラに売掛金の送金が何ヶ月も行われなかったんです。

不審に思った長女とその夫であり弟子でもあった森脇が吉村と話し合うも、吉村の考えに楯突きすぎて勘当を言い渡されてしまいます。

ヨシムラから追い出されてしまった二人は仕方なく新しい会社を立ち上げる事に。

モリワキエンジニアリング

それがMORIWAKIエンジニアリング。そうですモリワキっていうのは婿の名前から。

まさか名門と呼ばれるモリワキがそんな経緯で誕生だなんて・・・美談なんだかなんだか。

じゃあヨシムラとモリワキは仲が悪いの?

っていうとそうでもありません。送金されない問題を吉村自身解決するために日本の土地も工場もあらゆる財産を全て売り払い現金に変え渡米。(そりゃ娘達も反対するわって話ですよ)

んでまあアメリカのヨシムラレーシングに着いてみたらば共同創設者のアメリカ人が好き勝手な事をやってたわけです。そんな事実を見たPOP吉村は第三者の仲介や裁判などを起こしましたが、アメリカ人も吉村もヨシムラレーシング共同創設者という立場は変わらず。結局ヨシムラレーシングの経営を一旦諦める事にし帰国することに。

そんな心身ともにボロボロで帰ってきたPOP吉村を迎え入れてくれたのが、他ならぬモリワキエンジニアリング。そしてPOP吉村は再びモリワキエンジニアリングの助力を受け見事再起できたわけです。

※当時のヨシムラレーシングUSAは結局無くなっており今のUSヨシムラとは別の会社です。今のUSヨシムラはヨシムラ系列。

では今YOSHIMURAとMORIWAKIはどうなってるのかというと、YOSHIMURAの社長はPOP吉村の長男である吉村不二雄さんが、MORIWAKIはPOP吉村の長女と一緒に独立した夫の森脇護さんが社長を勤めています。

吉村社長と森脇社長

アディダスとプーマみたいな関係ですね。

でもイベントなどで一緒にトークしたりしています。

余談ですが、モリワキと言えば少しユニークなグッズがあるのをご存知でしょうか?

その名もモリワキ最中。

モリワキモナカ

モナカ管とかけて作られてる知る人ぞ知るモリワキグッズ。

ちゃんと説明書も付いています。

モリワキ最中説明書

細かい作用手順や注意文が書かれてて結構本格的。

お求めを希望される方はモリワキオンラインショップへどうそ。

諸説あるホンダ”CB”の語源

CB

ホンダといえばCBですね。

CBと言えばホンダのネイキッド。

CBRといえばホンダのスポーツバイク。

欧州ではCBFなどもありますね。

さて、ホンダが最初に作ったCBという名前のバイクはドリームCB750FOURと思ってる方も居ますが違いますよ。最初に出たのは1960年のCB72というバイクです。

CB72SS

このバイクこそホンダのCB第一号・・・と世間では言われてますが、細かいことをいうと大々的に売りだした初めてのCBと言ったほうが正しくて、本当はレース用にベンリィをベースに魔改造されたCB92の方が先に出てたりします。

CB92

1959年DREAM SUPER SPORT CB92というバイク。

浅間火山レースでホンダのワークス車両より速かったいわゆるホモロゲーションモデルです。CBマニアに言わせると結局お蔵入りとなったCB90(未発売)が一番最初のCBなんだろうけどね。

さて本題の、じゃあそのCBの語源は何なのかという話ですが、CはスーパーカブC100にも使われていると通り

『CはCYCLEのC』

で問題のBは

『For CLUB MAN RACERのB』

と言われています。

レースに出るに辺り、スーパーカブと同じCではアレなので何か付けようと考え

「クラブマンレース用だからCLUBMANのBも付けてCBに」

という説が一番信憑性が高いです。

ちなみにクラブマンとはアマチュアレーサーという意味なんですが・・・信憑性・・・そう、実はCBの語源はホンダ自身ですら今やハッキリとは分かっていないんです。

ホンダも恐らくそうだろうという曖昧な答えしかしていません。

「CLUBMANだからBって変だ」

「じゃあ83年に出たクラブマンがGB250だったのはどうして」

と突っ込みどころ満載ですよね。

他の説として挙げられるのは

・BはBEST or BETTERのB

・CB無線のCBから取った

とか言われていますが、これらはそういった資料も根拠もない信ぴょう性に欠けるため論外。

ただそんな中で実しやかに囁かれている有力な説があります。

『CAの次だったからCB説』

単純にCAというバイクの次(または兄弟車)だったからCBという名前になったというもの。

というのもホンダは市販車初CBとなるCB72とほぼ同時期にCA72Dream(アメリカ向け)というバイクを造っていました。そのアメリカ向けのCA72とCB72は双子のようなモデルでAの次だからBでCBという説。

CA71

そこでアメリカ向けのCAの一番最初はCA72なのか調べてみたところ、CA72の二年前の1958年にCA95が存在していました。

さらに翌年の1959年にはCE71というバイクも出しています。

CE71

多分混乱している人が多いと思いますので、時系列を簡単に纏めるとこうなります。

CAとCBの歴史

こうやって見るとA型B型説が非常に信ぴょう性のある説に思えますね。

ただ気になる点を上げるとするなら、CA72が出たのはCB72と同じ1960年なのですが、最初はC72-A10001~という車体番号でCA(CA-10001)となったのは翌1961年からとなってます。これは元がC70だから。

それに対しCB72は最初からCB72-10001となってるということでしょうか。

ちなみに二桁の数字ですが、簡単に言うと十の位が何台目のバイクかで、一の位が改良の回数です。つまりCB72なら今で言うとVer7.2みたいな感じ。

「ただ恐らくこのA型B型説は違う」

その根拠となるのがCR71とCS71というモデル。

ホンダは初代CBであるCB92と同年にCR71という市販レーサーを出しています。これはC71のR(レーサー)でCR71。

CR71

更に言うならC71のSPORTSでCS71と命名されたCS71に至ってはCR71より一年早い1958年、つまり幻の初代CBであるCB90と同年に出ているんです。

そしてこのCR71を改良して出来たのが市販車初のCBとなるCB72です。

こうなるとCR71やCS71のRやSには意味がちゃんとあるのに、その後に出たCAやCBがただのA型B型というのは腑に落ちない。

更に更に言うなればCB92は北米でもCB92のままで1959年から1962年まで売られていた記録がありました。

CR72SS

1957年C70系(スタンダード)

1958年CS71(C70のSPORTS)

1959年CR71(C70のRACER)

1960年CA71(C70のAMERICA)※推測

同 年 CB72(何のB?)

こう並べると絶対にBには意味がある。そしてあるとするならやはりCLUBMANのBになる。

もしCLUBMANのCを取るとCCでサイクルサイクルになってしまうし、Mを取るとMOPED(モペット)になってしまう。

となると残るはLかBしか無いわけです。CLとCBどちらがCLUBと読めるかといえばCBですよね。

ホンダCL72

そして実はCLはCLでCB72の翌年である1961年に登場しています。北米向けのスクランブラーです。

A型、B型と来ていきなりL型にはなりませんよね?

そして何よりCBの開発に関わった方(原田義郎・斉藤音次・松本正夫 参照:おーとばいザムライ様)自身が1962年の雑誌インタビューにて

「BはCLUBMANのB」

とハッキリ仰っています。

これ以上に有力と成り得る資料はないかと。

ちなみに上で言ったGB250CLUBMANは何でCBじゃないのか

クラブマン

という事なんですがGB250のGBはカフェレーサー発祥の地であるイギリスのグレートブリテン島(Great Britain)から。

そこら編の経緯についてはGB250の系譜をどうぞ。

「何処よりも高く買い取ります」のトリック

高価買取の真意

「何処よりも高く買い取ります」

という宣伝を見たことがある人は多いと思います。

「他所の査定額にプラスします」

とかもそうですが、これは言葉通りの意味ではなく色々と隠された狙いがあります。

ちなみに家電量販店で見られる

「何処よりも安くします」

とかいうのも同じです。

中古二輪自動車流通協会

そもそも中古車には相場というものがあり買取価格は基本的に

『店頭販売価格×0.4(※)』

で求められます。※状態や人気による

そして買取業者は買い取ったら業者オークションに出品し、落札された差額が利益となる。

だから絶対に業者オークションの相場以上の査定額は出さないし、出来ることなら1円でも安く買い取りたいのが本音。商売なんだから当たり前なんですが。

中古車の流れ

「じゃあどうしてこんな利益を損なうような宣伝をするのか」

というと一つはターゲットである顧客に対してイメージを植え付ける事にあります。

ケイフ王

「一番高値だとよく宣伝してるからここにしよう」

と思わせて比較する猶予や手間を与えずに買い取る狙いがあるんです。

たとえ売る気が無い人でもバイクを売ろう仮定したらよく宣伝してる所を真っ先に思い浮かべると思います。

そうして比べてもいないのに

「ここが一番高査定」

と勝手に思い込ませて買い取るというのが狙い。

つまり買取件数を上げる為の餌のようなものなんですが何故そんなに買取件数を上げる事に躍起になるのかというと、売買による短期的な利益だけではなく別の狙いもあります。

それは買取シェアを上げる事で利益率を高めるためです。

シェアグラフ

どうして買取シェアを上げる事が利益率に繋がるのかというと中古車というのは新車と違って数に限りがあるから。

ましてバイクというのはクルマほど数が出てないので数量限定品と言っていい商品。

だから買い占めれば買い占めるほど、シェアを上げれば上げるほど

『相場の主導権を握れる』

という事に繋がるんです。

例えばネットオークションでもう売ってない物を出品しようと思ったとき

・他所からも同じ物が出品されている

・誰も同じ物を出品していない

では価格も人気も全然違ってきますよね。それと同じ状況を業者オークションで起こせるようになるから利益率が上がる。

だからライバルに取られるくらいなら上乗せしてでも買い取ると宣言しているわけ。

買取

そんな高値買取宣言ですが、実はこれにはもう一つ巧妙なトリックがあります。

この

「何処よりも高値で~」

という謳い文句は実は顧客だけに言ってるわけじゃない。これ同業他社に向けても言ってるんです。

どういう事なのか・・・それは同業他社の気持ちになってみると分かります。

例えばしがないバイク屋をやってる自分のところにバイクを売りたいと言ってきた顧客が居たとして30万円の査定額を付けたとします。

買取セールトーク1

しかし買取価格というのは十中八九は顧客が望む額より少ない。

そうすると顧客は宣伝で『他所より高く買い取る』と謳っている大手買取店に赴き、そこで最初の買取価格より良い査定額を貰い売却する。

買取セールトーク2

30万円の査定額を付けたバイク屋としてはこんな事をされるとどうでしょう。

「頑張っても(高値を付けても)無駄だな」

と思いませんか。

結局どれだけの値段を付けたところで大手買取店の踏み台にされるだけなら頑張るのをやめようと思いますよね。

「無理のない額を提示して売ってくれたら儲けもの」

程度の考えになる・・・これが狙いなんです。

買い取りキャッチコピー

「何処よりも高値で買い取ります」

という言葉は顧客にはセールストークに聞こえる一方で、同業他社には

「お前より高値を付けるから頑張っても無駄だぞ」

というキラートークに聞こえる。

その結果、大手買取業者は頑張っていない査定額にプラス数万円足すだけで

『何処よりも高いけど何処よりもお得に買い取れる』

というわけ。

何処よりも高値で買い取るという甘い言葉にはそんなトリックが込められているんです。

『カフェレーサー』の『カフェ』とは 〜モッズとロッカーズ〜

カフェレーサーとは

「カフェレーサーとは何ぞや」

という話をしたいと思います。

写真参照:When The Youth Of The ’60s Erupted Into Violence

現代でカフェレーサーというとザックリですが低いハンドルとバックステップでスポーツに特化したポジションのネイキッドですね。

オシャレバイクというイメージを持たれている方も多いかと。

kカフェレーサーのイメージ

ソコらへんも含めてカフェとは何なのかを長々と。

カフェレーサーが生まれたのは1960年頃のイギリスになります。

この頃イギリスは経済が思わしくなく職にあぶれたり不本意な仕事をせざるを得ない若者が多かった事で、若者の間で社会や既存の価値観への反抗心が高まっていた。

その結果として生まれブームとなったカウンターカルチャーが

『モッズ(モダンズの略称)』

とよばれるもの。

モッズ

・前髪を垂らす長めの髪型

・ピチピチスーツにミリタリーコート

・ソウルミュージックやR&B

などなど。

簡単に言うと

『大人からすると非常識な物事』

で身を固めるライフスタイルやそれに興じる若者達の事です。

モッズのビートルズ

『ビートルズ』などが正にモッズファッションですね。

若い人は『SEKAI NO OWARI』と言ったほうがピンとくるでしょうか。

そんな非常識を貫く若者たちにとって移動手段であるバイクも当然ながら非常識なものに・・・それがこれ。

モッズのバイク

ベスパやランブレッタなどいわゆるスクーターをベースにミラーやライトを限界まで装着するカスタム。

スクーターだったのはせっかくの洋服を汚さない為。

「いやいや全然カフェが見えてこない」

と感じるかと思いますが・・・ここからが本題。

モッズの生活

モッズとよばれる若者が何して過ごしていたかというと主にナンパ。クラブでオールナイトフィーバーするのが日課でした。

1960年代前半はそんなモッズにハマる若者が急増していたわけですが、その一方で同じ様に社会に対する反抗心は持ちつつも

「モッズは軟弱者のスタイルだ」

と共感しない若者の集団がいた・・・それが『ロッカーズ』です。

ロッカーズ

名前の由来はロックンロールを愛してやまない事から。

リーゼントを決めて革ジャンと革パンにエンジニアブーツ。そしてバイクはNorton、TRIUMPH、BSAなどのスポーツバイクをベースにレーサーの様なカスタム。

同じカウンターカルチャーながらモッズとは大きく異なるスタイル。

ロッカーズのカップル

当時のイギリスの若者はこのロッカーズかモッズかの二者択一な風潮でした。

ここで少し補足。

同じ時期に流行ったカウンターカルチャーであるモッズとロッカーズですが、先に確立したのはロッカーズ。

元々イギリスには

『タンナップボーイズ(100マイル/時速160km以上で走る若者達)』

という日本で言う暴走族が存在していたんですが、アメリカでヒットしていた

『The Wild One(和名:乱暴者)』

という暴走族映画の主人公であり頭役だったマーロン・ブランドに憧れるタンナップボーイズが続出。

乱暴者

『タンナップボーイズ×乱暴者』

という形でミックス(タンナップボーイズの過激化)されカルチャーとして確立されたのがロッカーズなんです。

そしてそんなロッカーズの溜まり場だったのが24時間営業の『ACE CAFE LONDON』というカフェ。

エースカフェロンドン

クラブマークのロゴを見たことがある人も多いのではないでしょうか。

ロッカーズはタンナップボーイズが元なので

『速い奴がカッコいい』

という単純明快なルールが設けられておりモッズが夜な夜なクラブで遊ぶのは対照的にカフェ間の競争や

『ジュークボックスレース』

といってジュークボックスの再生と同事に決められたコースをどれだけ早く走って帰って来れるか、曲をタイムレコード代わりにして競争するのが日課だった。

ロッカーズのバイク

この事から『カフェレーサー』という名前が付いたとされています。

ただしこれにはもう一つ別の解釈というかニュアンスもあります。

結局のところレースと言えど公道なので当然ながら競争するとなると事故が絶えず騒音も酷かったのでロッカーズはモッズ以上に社会から嫌われる存在でした。

そのため

「カフェにいるレーサーモドキ」

という皮肉を込めて

ロッカーズのレース

『カフェレーサー』

と呼ぶ人たちも居たんですね。

※最初は皮肉の方を主題に書いていましたスイマセン。

【余談】

どうして『ロッカーズ』だけでなく『モッズ』まで説明したのかというと、ロッカーズ/カフェレーサーが廃れたのはモッズの台頭によるものが大きかったから。

そして趣向の違いからも分かるように犬猿の仲で、最終的にはスタイルを巡って大乱闘にまで発展したから。

『1964年ブライトンビーチの暴動』

ブライトンビーチの暴動

これがその乱闘で参戦者は1000人以上。

メディアが仕向けたという説もあるものの、何れにせよスタイルの違いだけでここまで熱くなれる時点で若者がどれほど夢中だったかが分かりますね。

ただ残念ながらこの一件からカウンターカルチャー自体に冷めてしまう若者が急増しブームも鎮火。

そして元々ロッカーズはモッズに食われ気味なカルチャーだった事に加え、溜まり場だったエースカフェが1969年に閉店してしまった事で自然と廃れていきました。

ちなみにエースカフェは2001年から再び営業を開始しており現代では

エースカフェロンドン

『ロッカーズ/カフェレーサーの聖地』

として超人気スポットになっています。

またウェアやグッズなども販売しており日本でも展開しているのでロッカーズになりたい方は【公式ショップ】をどうぞ。

最後になりますがこの歴史を描いた1979年製作の映画があります。

さらば青春の光

『さらば青春の光』

日本語で検索しても漫才コンビしかヒットしませんがそれの元ネタ。

モッズの主人公を中心とした映画ですが興味のある方はレンタルサービスなどでどうぞ。

ブリヂストンも昔バイクを作っていた

ブリヂストンサイクル

タイヤメーカーシェアが脱シェア宣言しておきながらずっとNo.1のブリヂストン。創業者の石橋(正二郎)からStone&Bridgeでブリヂストン。

「ブリ”ジ”ストンじゃないブリ”ヂ”ストンだ」

というやり取りをたまに見たりしますが、実は最初はブリヂストンではなくブリッヂストンと小さい”ッ”が入っていました・・・さっさとブリヂストンのバイクを見せろと言われそうですが、背景も説明した方が面白い思いますので怒られそうなくらい割愛して説明します。

石橋正二郎

ブリヂストン(以下:BS)が誕生したのは1931年の事で、日本足袋(現アサヒシューズ)がタイヤの製造に成功し、タイヤ部門として分社化されたのが始まり。

当時ダンロップ(イギリス)しか選択肢が無かった日本で、負けずとも劣らない品質のタイヤを作れる唯一の日本企業として重宝され新品装着タイヤに選ばれるまでになり急成長しました。

しかし第二次世界大戦が始まると統制により車の製造が禁止され、国内唯一といえるタイヤメーカーだったBSはトラックや戦闘機のタイヤ、果ては戦車用のソリッドタイヤといった軍事用のタイヤ生産に明け暮れる軍需会社に。

となると当然ながら敗戦による損害も大きく、亜細亜ゴム工業や朝鮮タイヤ工業(後のハンコック)などコツコツやってきた海外事業所を全て失うハメに。更にタイヤを生産しようにも配給統制でゴムを輸入できない。

そこでBSは経営の多角化として戦後需要を見越し自転車事業を開始。

ブリヂストンサイクル株式会社

この狙いが見事に的中し順調に業績を伸ばした事で1949年に「ブリヂストン自転車株式会社」として分社化。今では自転車のトップブランドとして有名ですね。

ブリヂストンサイクルが誕生した2年後の1951年、創業者の石橋は中島飛行機の流れを組む富士精密工業を日本興業銀行(現MIZUHO)から買収しました。説明が下手でわかりにくいと思いますので図にしました。

BSモーター

これが後に合併されスカイライン・グロリアで有名なプリンス自動車工業になります。

ただバイクが出るのはその前後なので話を少し戻すと、合併前の富士精密工業が開発した30ccの小型ガソリンエンジンを自転車に搭載し1952年にバンビー号として発売したのがBSバイクの始まり。

BSモーター

上の写真はその後継にあたるBSモーター。非常に好評でした。

しかし1950年代後半になると時代はモペットからオートバイへと急速に移り変わりつつありました。

カブ

その流れを作ったのは他ならぬホンダのスーパーカブ(1958年C100型)です。

BSはまだペダル付きのモペットしかなかったので完全に出遅れてしまう。高まるオートバイ需要に応えるため急いで富士精密工業にオートバイの開発をさせ作られたのがBSチャンピオンシリーズなんですが・・・。

チャンピオン1型

これもペダル付きのモペットだったため不評に終わりました。

ここでエンジンを作っていた富士精密工業が自動車業へ専念する(合併してプリンス自動車になる)ために二輪向けエンジンからの撤退を決定します。

しかし諦めきれないブリヂストンサイクルは技術協力をこぎつけ自社生産の道を選択。

チャンピオン3型

そうして誕生したのがチャンピオン2型(写真は3型)。フレームもエンジンもBS製の正真正銘ブリヂストンバイクが誕生しました。しかもペダルもついてない。

しかしながらこれまたテスト不足により難のあった耐久性や、保守的なデザインなどで市場から不評を買ってしまう。1型からの失敗続きで上り調子だったシェアもBSモーターというブランド力も地に落ちてしまう。

バイクBIG3

更に当時のBIG3だった「ホンダ・ヤマハ・スズキ」の快進撃が追い打ちをかけます。

1960年時点ですでに三社合わせて67%もあった国内シェアが、6年後の1966年には92%にまで拡大。もうこの三社で寡占状態でBSは3%しかなかった。

チャンピオン3型カタログ

赤字が膨らむ一方のオートバイ事業はブリヂストンサイクルの足を引っ張るお荷物状態に。終いにはBSブランドの面汚しとまで言われる始末。

これはBSが駄目だっただけじゃなく三社のバイクが凄かったのもあると思いますけどね。カワサキもこの状況からスタート(1961年)して今があるんだから凄い話。

チャンピオンホーマー

結局軽自動車の普及によって二輪市場全体が縮小傾向になりつつあった事を機に1966年(輸出は1977年)にオートバイ事業からの撤退を決定。

皮肉にもお荷物だったオートバイ事業を切ったブリヂストンサイクルは業績が大幅に改善し躍進。自転車事業のトップメーカーに上り詰めました。

結局踏んだり蹴ったりでブリヂストンとは思えないほど見せ場もなく終わったオートバイ事業でしたが「ブリヂストンタイヤ五十年史(社史刊行物:非売)」の最後に

ブリヂストンサイクル90シリーズ

「”BSというブランドなら絶対に売れる成功する”という驕りが生んだ絶対に繰り返してはいけない悲痛な教訓」

と書かれていました。

つまりブリヂストンサイクルが後に自転車トップブランドに上り詰めた事はもちろん、タイヤを始めとしたブリヂストンの製品が確固たる地位を築き今も揺るがないのは”オートバイ事業の失敗”が少なからず影響しているわけです。

BMWのロゴはプロペラが由来ではない

BMWロゴ

駆け抜ける喜びでお馴染みのBMW(Bayerische Motoren Werke)。日本語に訳すと”バイエルンエンジン製作所”という結構地味な名前。ドイツ語ってお得ですよね。

BMWのロゴというのは青い空と白い雲、そして十字は航空機のプロペラを表していると勘違いされがちですが実は違います。

これを説明するにはBMWの歴史を説明しないといけないのですが、あまり掘ると長くなってしまうのでザックリ割愛して説明させてもらうとBMWの前身にあたる会社は二つあります。

BFW

一つはカール・フリードリッヒ・ラップが設立したラップエンジン製作所(Rapp Motorenwerke Munchen)という航空機のエンジンを作っていた製作所。

初期の頃はドイツ軍からダメ出しされ売り物にならないエンジンしか作れなかったのですが、天才エンジニアのマックス・フリッツ氏の入社とカリスマ経営者のフランツ・ヨーゼフ・ポップの豪腕によってメキメキ成長します。

RAPP

この結果、創業者であるカール・フリードリッヒ・ラップは最終的に会社を追い出されました。

そしてもう一つはグスタフオットー航空機製作所(Gustav Otto Flugmaschinen Werke)という航空機メーカー。

オットーと聞くとピンと来る人がいるかもしれませんね。その読み通りグスタフ・オットー社は4st内燃機関を発明したニコラウス・オットー氏の息子が立ち上げた製作所。ただオットーの息子なのにエンジンではなく航空機の車体を手がけていました。

Otto_pusher

これら二社をより高性能な航空機を欲していた国家が主導で合併(RAPP社に吸収)させ1917年に誕生したのがバイエルン・エンジン製作所(Bayerische Motoren Werke)つまりBMWというわけです・・・凄くザックリですが。

なぜ社名にラップもオットーも入っていないのかというと、オットーは経営センスが皆無で二度も会社を傾け合併というよりも吸収だったから。そしてラップ社は天才エンジニアのマックスフリッツを迎えるまではドイツ軍ですら断るどうしようもないエンジンしか作っておらず”RAPP=駄目エンジン”という悪評が広まっていたから。

そんなこんなで会社設立の後に出来たロゴがこれです。

BMWロゴ初期

今でもお馴染みBMWのロゴですね。四回ほど変わっているので若干の違いはありますが。

で、本題のロゴの由来は何なのかというと、回りの黒い枠は前身であるラップ社からで、中の青白は地元であるバイエルンの旗から取っています。

BMWロゴの由来

旗の色や形が若干違うのは、政府の物をそのまま使用することを法律で禁止されていたから。

この一件が大々的に知れ渡るキッカケとなったのはニューヨークタイムスの記事。

ニューヨークタイムス

同じ勘違いをしていたニューヨークタイムスの記者がある日BMWのスタジアムツアーへ取材に行った際にガイドから

「BMWのロゴはRAPP社とバイエルンの旗からきている」

と自分が思っていた由来とは全く違う説明を受け疑問に思ったことが始まり。真意を確かめるために記者はアメリカのBMW社に問い合わせたところ

「BMWのロゴはプロペラから来ている」

と今度は自分が思っていた由来と同じ答えを返されたわけです。

いったいどっちが正解なのか気になって調べてみた結果、やはりガイドの言い分が正しいという結論に至りNYTの記事になりました。その事を決定づけたのはBMWのロゴをプロペラにあしらった資料から。

BMWロゴのプロペラ

この資料が最も古いBMW&プロペラになるわけですが、注目してほしいのは日付で1929年となっている事。BMWのロゴが誕生したのは1917年と10年以上も前で辻褄が合わない。

つまりプロペラというのは後からデザインの遊び心で用いられただけの事。ただこれが上手いこと表されていたので勘違いが始まったというわけです。その後、問い合わせた米のBMWからも自分の間違いだったという訂正が届いたというので間違いないでしょう。

BMWプロペラ

何より面白いのはこの一件が記事になったのは2010年とついこの前の事で、100年近くも勘違いされたままだったということ。

そしてもう一つ知っておいて欲しい事として、このサイトを見てくださる方はご存知な方が多いとは思いますがBMWが設立当初、重きを置いて作ったのは航空機と”バイク”です。四輪の車ではありません。

1932R32

これはBMWが設立された6年後の1923年に作ったR32というBMW初のバイク、BMW的に言えばモトラッドでしょうか。

作ったのは航空機を手がけていた天才エンジニアのマックス・フリッツで、この時から既に水平対向二気筒エンジンにシャフトドライブでした。これが大変好評で航空機と並び初期のBMWに大きな利益をもたらすことに。

車を手がけるようになったのはソコから更に5年後の1928年から。航空機やバイクで稼いだ資金を元にイギリスオースティンのライセンス生産をしていたアイゼナッハ自動車製造(Fahrzeug Eisenach)を買収しライセンス生産を始めたのが始まり。

BMW MOTORRAD

航空機部門は後に切り離されているので、今のBMWの始まりは車ではなくバイクという事になるわけです。

余談:BMWとMercedes-Benzの関係

BMWの前身であるグスタフ・オットーが内燃機関の父であるニコラウス・オットーの息子という話をしましたが、その偉大な発明家であるニコラウス・オットーの下で働いていた内の一人が自動車を生み出したゴットリープ・ダイムラー。

ゴッドリープダイムラー

そしてダイムラーとベンツの二人が組んで生まれたのがダイムラーベンツ、後にメルセデスベンツとなる会社です。

つまり内燃機関の父であるニコラウス・オットーから見ると、息子はBMWの礎に、部下はベンツの礎を作ったという事になるわけですね。

ちなみにBMWのもう一つの前身であるラップ社を立て直し創業者のカール・フリードリッヒ・ラップを追い出した豪腕経営者のフランツ・ヨーゼフ・ポップも元々はダイムラー・ベンツの人間でした。天才エンジニアであるマックスフリッツに惚れ込んでBMW側に来たわけです。

更に時は流れて1959年、この頃のBMWは日本メーカーで例えるならマツダのように後ろ盾の無い弱小メーカーでした。そしてヒット車を作る事が出来ず遂に経営が行き詰まり倒産の危機を迎えます。そこで提案されたのがダイムラーベンツへの吸収合併(身売り)。

大株主を含め多くの株主が賛成し決まりかけていた時、株主の一人だった実業家のヘルベルト・クヴァント氏が50%近い株を買い増しすることでBMWを救済し身売りを阻止。

ステファンクヴァント

その後すぐに経営は立て直され事なきを得ました。その結果クヴァント家はBMWの大株主であると同時に長者番付にも載るほどに。上の写真はヘルベルト・クヴァントの長男であるスフテファン クヴァント氏。もちろんBMWの大株主&役員。

バイクまでもが高齢化の時代

バイクの高齢化

皆さんのバイクはいま何歳でしょうか?

少し前に

「バイク乗りの平均年齢が50歳を突破 -深刻な若者のバイク離れ-」

というトリビアを書かせてもらいました。

これは若者のバイク離れが主な原因ですが、じゃあ載ってるバイクの平均年齢はどうなのかって話です。

参考までに四輪の自動車の場合は平均車齢は7.78歳です。

それに対しバイクはどうかというと自検協 小型二輪(251cc~)保有動向調査によると2014年3月末時点で

「バイクの平均車齢は13.93年」

となっていました。

車のほぼ倍で最終製造後平均8年といわれる部品供給年数をはるかにオーバーしています。

車に対しバイクがここまで延びている原因についてですが、バイクの場合は中古車の割合が非常に大きいことが関係していると思われます。

まあバイクの場合は多少高齢化してもポテンシャルは余り変わらないですし、税金もそんなに変わらないですし、それに”その年式”や”そのバイク”が好きで乗ってる人が非常に多いと思うんですよね。

メンテナンスを

ただ余計なお世話だとは想いますが

ご高齢のバイクや高齢になりつつあるバイクに乗られている方は、バイクも人間と同じように歳を取って足腰や心臓などが弱っていきますので

「まだまだ現役じゃい!」

ってブイブイ言わせながら走るのも良いですが、そのぶん今まで以上に健康に気をつけてあげて下さい。

ヤマハ発動機の歴代社長

ヤマハ発動機の歴代社長

国内4メーカーの中で一番いろんな事業をやっているものの二輪部門の構造比が60%強と最も高いヤマハ発動機。

成り立ちについてはYA-1で書いたので割愛しますが、1955年からのヤマハ発動機を引っ張ってきた歴代社長にはどんな人が居たのか歴代を簡単にご紹介。

※便宜上『ヤマハ(楽器)』と『ヤマハ発動機(バイク)』で書き分けていきます。

初代 川上源一(1955~1974)

川上源一

ヤマハからヤマハ発動機を立ち上げた実質的な創業者。

父親である川上嘉市が三代目ヤマハ社長で源一は四代目としてその後を継いだ長男坊。終戦後に平和産業への転身を条件にGHQから返してもらった佐久工場と工作機械を元にバイクの製作を始めた事が全ての始まり。

「生活必需品ではないもので生活を豊かにする」

という逆張りにも近い信念は今もヤマハ発動機の企業理念として受け継がれている。

ちなみに近年のYZF-R1やYZF-R6それにMT-10などのエアクリーナーボックスにはモーターサイクル設計思想の頭文字を取って

『GENICH』

と源一を捩ってると思しき刻印がされている。

ジェニック

※Genesis of Electronic engineering for New Innovative Control technology with Human orientation (人間性を重視した新しい制御技術における電子工学の創造)

二代目 小池久雄(1974~1983)

小池久雄

元々ヤマハの社員として入社し川上源一の右腕として発動機を切り開いてきた人物。社長就任後も二人三脚で事業を更に拡大させる事に成功。

バイクメーカーの首位を狙ってホンダに宣戦布告しHY戦争の引き金を引いたのもこの人で、最終的に引責辞任となった。

三代目 江口秀人(1983~1994)

江口秀人

東京大学経済学部出身で小池氏と同じくヤマハに最初は入社したもののすぐにヤマハ発動機へ出向となり、ヤマハインターナショナル(北米ヤマハ)の社長などを歴任。

そのご再びヤマハに戻って取締役を担っていたもののHY戦争の敗戦と再建を任される形でヤマハ発動機の社長に就任。マリン事業などオートバイ以外の拡大に尽力した。

四代目 長谷川武彦(1994~2001)

長谷川武彦

名古屋大学工学部出身でヤマハ発動機としては初めての技術畑出身社長。

学生時代に川上源一氏へ開口一番YC-1のダメ出しをした事がキッカケでヤマハ発動機へ入社。国産初のスポーツバイクであるYDS1を皮切りに、かの有名なトヨタ2000GTの製造責任者、ファミバイの先駆けパッソルの開発責任者などを多大な功績をあげた。

HY戦争の責任を取る形で一度は出向になったものの、再びヤマハ発動機に戻され社長就任となった。

現在もヤマハ発動機が掲げている企業理念である

「感動創造企業」

はこの人が打ち出したもの。

五代目 長谷川至(2001~2005)

長谷川至

横浜国立大学経済学部出身で沼田喜穂教授のゼミに所属し商売のイロハを学んだ後、ヨット部に所属していた事と教授の勧めでヤマハ発動機に入社。

マリン部門で経理を担当した後にアメリカにおけるスノーモービル事業を立ち上げ成功を収める。その後、販売監査役などを歴任したのちに社長に就任。縦構造から横構造に会社を変え、設計から販売にいたるまでのプロセスを合理化するなどの改革を行い過去最高益を叩き出す。

ちなみにヤマハが得意とするアルミダイキャスト技術もこの社長が合理化の一環として推し進めたもの。

六代目 梶川隆(2005~2009)

梶川隆

慶応大学経済学部出身で欧州ヤマハモーターの取締役などを歴任し先代の長谷川氏から直接指名され社長へ就任。

選ばれた理由は

「私利私欲が無い人」

ということから。そんな人柄通りリーマンショックで巨額の赤字を出した際には責任を取り、自らを降格処分とした。

七代目 戸上常司(2009~2010)

戸上常司

会長だったものの二人三脚でやっていた先代梶川氏の降格処分により社長に就任。

ヤマハ発動機のIM(産業用ロボット)事業で数々の貢献をした技術畑出身の人で、大のバイク好きでもあったものの就任後すぐに体調を崩し入院。そのまま退任となった。

八代目 柳弘之(2010~2018)

柳弘之

戸上氏の代わりに社長へと就任。東京大学工学部出身でモーターサイクル事業部出身。

生産にまつわる仕事がしたいと海外勤務を志願し手腕を発揮。一時期はフランスのMBK(YZF-R125などを生産)の社長にも就任。

そのノウハウを元にヤマハ発動機の社長になった後は生産のスリム化やグローバル化、プラットフォーム化などでリーマンショックで苦しんでいた経営を見事に立て直した。

九代目 日高祥博(2018~)

日高祥博

名古屋大学法学部出身で柳氏と同じくモーターサイクル事業部で手腕を発揮されていた方。

学生時代からヤマハのバイクに乗っており、社長になった今でもイベントでは自らスマートに乗りこなしプレゼンしたりする。

メディアへのインタビューでも

「嫌なことがあってもバイクに乗れば全て忘れる」

と言うあたり相当なバイク好き。ちなみに愛車はYZF-R1Mとの事。