第五章 技術者として引導を渡された宗一郎

本田宗一郎の引退

スーパーカブによる大成功を収めたホンダはそれを足がかりに四輪事業にも参入しN360を皮切りに成功を収めます。

しかしその舞台裏では「本田宗一郎の引退」が囁かれていました。

既に当時、ホンダを支えていたのは宗一郎よりも若手技術者達。
その筆頭として挙げられるのが中村良夫(初代ホンダF1チーム監督)、久米是志(後の三代目社長)、桜井淑敏(後のホンダF1優勝時の開発責任者)の三人。

その若手技術者と宗一郎の考えの違いが宗一郎引退に繋がる事となります。

CVCCエンジン

当時マスキー法という非常に厳しい排ガス規制強化が行われると決まったとき、宗一郎は「千載一遇のチャンスだ」と社員に言って聞かせました。

それは後発メーカーであるホンダがトヨタやフォードといった老舗メーカーと同じスタートラインに立つ事になるからです。(当時その規制をクリア出来る車は一台も無かった)

結果的にCVCCエンジンの開発により何処よりも早く解決し世界から絶賛されました。

これでトヨタやフォードにも勝てると喜んでいた宗一郎でしたが、それに対し桜井が

「排ガス問題は人類全ての問題であり、一企業が利益を生むために利用する問題じゃない。」

と言い放ちました。

”会社のために働くな、自分のために働け”

という自身の理念がいつの間にか会社主体の考えになってしまっていた事に気付かさた宗一郎は返す言葉も無かったそうです。

さらに久米にからも

RA302

「空冷には限界がある。これからは水冷の時代だから水冷エンジンに移行すべきだ」

と説得されますが宗一郎はこれを頑なに拒否。

「水冷といえど結局最後は空気で冷やすんだからそれなら最初から空冷でいいに決まっている」

と。
止む無く空冷で出されたバイクや車は案の定、熱による問題でお世辞にも良い車とは言えないものでした。

聞き入れてくれない宗一郎に対し、久米は宗一郎と唯一対等なホンダのナンバー2である藤沢や一番弟子である河島に直訴し、宗一郎が改めるまで出社拒否をすることに。

見かねた藤沢が”お互いのやる事に口出しをしない”という約束を初めて破りました。

「貴方は技術者なのか?それとも社長なのか?」

その一言で元々引退を考えていた宗一郎は第一線からの引退を決意。それを受け創業当初から一緒にやってきた藤沢も身を引くことを決めたそうです。

最後まで二人は二人三脚だったんですね。

”会社は個人のものではない”

言うのは簡単ですが実行できるというのは凄いことです。

宗一郎とカブ

引退時、お互いがお互いを褒め称えるかと思いきや

宗一郎「まあまあだったな」
藤沢武夫「まあまあでした」
宗一郎「でも幸せだった」
藤沢武夫「本当に幸せでした。ありがとうございました。」

というやりとりのみ。

でも関係者の話では第一線を退いてからの二人は現役時代では考えられない程、にこやかに笑うようになったそうです。

二代目社長となった河島喜好も

「オヤジがあと数年居座ったらホンダは潰れていた。でもあそこで身を引いたのはオヤジさんの凄い所」

と言い残しています。

系譜図
アート商会

第一章
自動車修理工場からの独立とトヨタの子会社化

東海精機

第二章
本田技術研究所の発足とA型の誕生

藤沢武夫

第三章
本田技研工業(現ホンダ)設立と藤沢武夫

鈴鹿工場

第四章
スーパーカブの誕生

本田宗一郎の引退

第五章
技術者として引導を渡された宗一郎

本田宗一郎の逸話・名言

終章
本田宗一郎の最期

本田宗一郎の逸話・名言

おまけ
後を託された歴代社長

第四章 スーパーカブの誕生

藤沢武夫

ホンダといえばカブ、カブといえばホンダ。
世界一売れたバイクというギネス記録を持っている名車オブ名車ですね。

そんなスーパーカブ誕生の経緯ですが、実は宗一郎は乗り気じゃありませんでした。

当時ホンダは倒産の危機を乗り越えては成長し、倒産の危機を乗り越えては・・・を繰り返していく内に何とか国内最大のオートバイメーカーと言われるまでに成長。

しかし宗一郎はそれに満足せず海外メーカー、言わば大型の高級バイクに対抗できる物を造ることに心血を注いでいた。

性能はもちろんの事、デザインもホンダ独自色を出していかないと考えていた宗一郎は日本が世界に誇る観光名所を片っ端から見て回りました。

そんな宗一郎によりデザインされたジャパニーズデザインバイクの第一号がこれ。

ホンダドリーム C70
-since 1957-

ドリームC70

ホンダ初となる二気筒エンジンのオートバイで、デザインのモチーフとなったのは何と神社。
鳥居をイメージした無骨な造形で宗一郎お気に入りの一作です。

「神社仏閣デザイン」と銘打たれたこのデザイン、宗一郎の力作で本人もお気に入りだったためしばらくはこのデザイン基調のバイクばかりが売られることになりました。

この様に宗一郎は大型バイク偏重でモペット(原付)は軽視気味でしたが、藤沢はもっと色んな人に親しまれ、台数が出るバイクを漠然と欲していた。

そこで藤沢は宗一郎を半ば強引にスクーターの聖地であるイタリアを始めバイク文化が根付いている欧州へ一緒に視察する事に。

そこで宗一郎が目にしたのは日常のみならず仕事の足として親しまれ、重宝されている大量のモペットでした。

ローマの休日

そして帰国した宗一郎が開発陣を集め発した一言

「今から蕎麦屋が乗るモペットを造る。つまり片手で運転できるモペットだ。」

これがスーパーカブの始まりです。

やると決めたからには徹底的にやるのが宗一郎。

オートマチックのミッション(自動遠心クラッチ)の開発はトライ・アンド・エラーの繰り返しで難航しました。

この時に誕生した宗一郎の有名な話が設計室に行く時間が惜しいとの事で地面に直接チョークで設計図を描いては皆で議論したというお話。

そして遂に完成したバイクこそが初代スーパーカブことC100です。

蕎麦屋のカブ

ちなみにエンジン周りを当時珍しかったプラスチックで覆う様にしたのは宗一郎の妻であるサチ夫人の提案で、「エンジンが鶏の臓器みたいで気持ち悪い」という一言で付けられました。

しかし結果的にこれが泥除け等の思わぬメリットを生むきっかけになり大ヒット要因の一つに。

完成されたC100を見た藤沢は

「これは売れる。三万台を目標に売ろう。月産で。」

と言いました。

ホンダC100

宗一郎を始め周りの人間は年三万台と思ったらなんと月三万台ということで静まり返ったそうです。

それもそのはず、当時の全てのオートバイの月産台数を合わせた台数でも二万台に満たない。
それをも上回る月産台数を掲げるなんて無謀としか言いようがありません。

しかし宗一郎は手を組んだ当初の約束である「お互いのやることに口出ししない」という事と、藤沢に全幅の信頼を置いていたため何も言わなかったそうです。

そして発売されたスーパーカブC100は初年度こそ10万台弱で目標に満たなかったものの、使い勝手の良さ、頑丈さ、速さが好評となり翌年には40万台を越える大ヒット。

スーパーカブ アメリカ

海外への輸出も始まるとトントン拍子に500万台、1000万台、1500万台とそれまでのホンダの何倍もの売上をもたらすことになり、世界一のメーカーへと駆け上がって行くことになりました。

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本田技研工業(現ホンダ)設立と藤沢武夫

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第三章 本田技研工業(現ホンダ)設立と藤沢武夫

藤沢武夫

A型のヒットで手応えを感じた宗一郎は新たに本田技研工業(現ホンダ)を設立。もちろん社長は宗一郎。

そしてホンダとして初となる4ストロークエンジンのオートバイ「ホンダドリームE型」を先に紹介した河島喜好が開発し、大ヒットとなりました。

4ストに半信半疑だった宗一郎を説得するため当時は長い急勾配でオーバーヒートするため一気に登れないのが当たり前だった山道を、自ら乗って休むこと無く登り切って宗一郎を驚かせたエピソードを持っています。

ホンダドリームE型

さて、ここで疑問に思う方も居ると思います。
バタバタに始まりA型、そして初の4ストローク車となったのがE型。

B型、C型、D型は?という話ですが、もちろんありました。

写真をご用意できなかったのは残念ですが、2ストロークのエンジンを積んだバイクです。

しかしこれが焼きつくだの、走らないだの、すぐ壊れるだのクレームの嵐で実はこの時ホンダのブランド価値は地に落ち、後発ながら勢いがあったスズキが台頭していた。

何だか今では考えられない話だけど、このE型はその状況を打破するには十二分な出来でホンダブランドを再び押し上げる事になる。

こうしてバタバタ、A型、E型と名車を生んでいたホンダだったけど実は経営は上手くいっておらず倒産の危機を迎えていた。

というのも当時は買取制(バイク屋に買い取ってもらってバイク屋が売る)ではなく、後払いが基本だった上に、経営知識がカラキシだった宗一郎は踏み倒し等で代金の回収が上手く行かず社員の給料もまともに払えないほどの窮地を迎えていました。

そんなE型を開発をしていた頃、一人の男が官僚の紹介で宗一郎を訪ねてきました。

その男こそ、経営学を学ぶ者なら知らない人は居ないホンダの名参謀、影の宗一郎とも呼ばれた藤沢武夫さんです。

藤沢武夫

宗一郎の家で連日話し合った末、意気投合。

藤沢は順調に経営中だった自社の製造業を売り払い、潰れかけだった本田技研工業に常務として入社。
そして経営が下手な事を自覚していた宗一郎は藤沢を信じ経営の一切を任せることに。

その時に交わした

「お互い(技術屋と経営屋)のやる事に口出しはしない」

という約束は宗一郎、藤沢共に第一線を退くまで守りぬかれます。

本田宗一郎と藤沢武夫

そんな藤沢が本田技研工業に入社し、先ず行ったことは

東京進出、販路の拡大、買取制度の導入、工場の拡張、親族の入社禁止、マン島TTレースへの参加表明

といった攻めの経営でした。

ホンダを語る上で有名な「親族の入社禁止」ですが、実は宗一郎ではなく藤沢が定めたことなんです。
その理由は「会社は個人の所有物ではない」ということと「派閥を生まないようにするため」という二つの意味がある。もちろん宗一郎もこの考えに賛同した。

あと有名なのが生涯の親友だった井深大(ソニー創業者)が自社の名前を苗字にせず「ソニー」としたのを聞いた時は「ホンダ」という苗字から取った自社の名を恥じて改名しようとしたそうです。

ホンダモーター

流石に「今さらやめてくれ」と周りから止められ断念したみたいですが。。。

兎にも角にもこの藤沢の経営手腕は目を見張る物で宗一郎も当時を振り返る時

「藤沢が居なかったらとうの昔に潰れていた」

と話しています。

しかし驚くべきことにこの藤沢、実は経営学を一切学んでいないんです。

それどころか

「何冊か経済学の本を手にとって読んだことはあるが、結局その逆をやれば良いんだと思った。」

という破天荒っぷり。

コチラ

しかしそのカリスマ性から繰り出される経営手腕でホンダは何度もの窮地を脱することに成功することになります。

ちなみに写真は鈴鹿サーキットの為に手塚治虫先生が描いたマスコットキャラクターのコチラファミリー。そしてそのコチラちゃんのモデルとなったのも藤沢武夫さんだそうです。

ちなみに社内でのアダ名は声も身体も大きいことから「ゴジラ」だったとか。

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第二章 本田技術研究所の発足とA型の誕生

本田技術研究所

それから数年後、日本が敗戦し無条件降伏が行われると宗一郎は途方に暮れました。

そんな中、元々営利第一でそりが合わなかったトヨタ側の役員との大げんかをキッカケに会社をトヨタに売り払う形で退社。
ホンダとトヨタ(というよりそのユーザー?)が水と油なのは遡るとこの頃から始まっていたんですね。

売り払った金が尽きた一年後、ずっと一緒にやってきた弟と一緒に「本田技術研究所」を設立し再びチャレンジが始まりました。
まず宗一郎が最初に取り掛かった製作はバイク・・・ではなく自動織機。

自動織機

何で織機かというと当時は自動織機といえば金の卵を生む鶏と言われるほど凄いものだった。あのトヨタが最初に成功し財を成したのが自動織機を開発したからと言えばどれだけ凄い物なのか分かる。

でも宗一郎のやる気が無かった事も災いしてか頓挫。他にもアイス製造機などを作ったもののいまひとつ。

そんな中、陸軍が使用していた無線発電用エンジンを見つけバイク(バイクモーター)の製造をひらめく。

そして試行錯誤のすえ生まれたのが有名なバタバタ。

ホンダA型

バタバタと音を立てて走る様からそう呼ばれるようになりました。

ガソリンが満足に手に入らない時代に車より燃費がよく、(車に比べ)安い事で飛ぶように売れました。それはもう全国から買い手が殺到するほど。

あまりの需要に宗一郎も造ることより払い下げエンジンの買い占めに奔走することの方が多かったみたいです。

そしてエンジンが品薄になり手に入りにくくなると宗一郎は自分達で造ることを決意。

結果として作り上げられたバイク(エンジン)がA型。これも大ウケし「ホンダ」という名が全国に広まる結果となりました。

A型

これが出来た時、宗一郎は嬉しさの余り近所を走って自慢したそうです。そして最後には盗まれてしまうというオマケ付き。

ちなみにこの時すでにタンクには羽のイラストが描かれていました。これがホンダウィングマークの始まりだったりします。

そしてそんな中、近所の知人の強い要望でその息子を入社させるか面接する事になります。
その青年は工業専門校(今で言う工業大学)を出ているエリート。

自宅に招きコタツに入りながら面接をしていた宗一郎はそれを聞くと

「そんなエリートを雇える余裕は無い」

と断ります。

しかし知人やその青年たっての希望に根負けした宗一郎は入社させることに。

河島

十二人目の従業員となったその青年の名は河島喜好。

本田技術研究所の4ストロークエンジンを担ったエンジニアで、後に本田技研工業(現ホンダ)の二代目社長になられた方です。

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第一章 自動車修理工場からの独立とトヨタの子会社化

アート商會

子供の頃から乗り物が好きだった本田宗一郎が最初に就職した会社は「アート商會」と呼ばれる東京の自動車修理工場でした。就職と言っても技術者としてではなく雑用として。

だから入社当初は社長の子供の世話だったり掃除だったりと今では想像が付かないような事を宗一郎はずっとやらされていました。

しかし何年かやっている内に社長に気に入られ、また、技術者としてみても優秀だったために自然と仕事を任されるようになります。

6年後、社長に気に入られていた宗一郎はのれん分けを許され浜松にて独立。
奇っ怪な事に宗一郎はその際の兵役検査で色覚障害と診断され免除された。本人が否定しているあたりもしかしたらワザとなのかもしれない・・・

何故に浜松かというと、当時”浜松”と言えば
自動織機を発明したトヨタグループの創始者「豊田佐吉(写真左)」
日本楽器の生みの親でヤマハ創始者の「山葉寅楠(写真右)」
といった数々の発明・実業家を生んだ技術者の土地だったから。

トヨタとヤマハの創始者

当時の時点で既に聖地化してたんですね。

もともと腕の良かった宗一郎のおかげで修理工場は評判となり順調に成長していきました。

しかしその一方で宗一郎は考え、夢を見始めます。

「整備工場はどんどん増えていっている。これじゃ仕事の取り合いになるのも時間の問題だ。ウチは”直す”から”造る”に転換しよう。」

そこで宗一郎が思い浮かんだのは”ピストンリング”

ピストンリング

何故ピストンリングなのかというと、当時ピストンリングを製造する会社はその難しさゆえに僅か数社しかおらずピストン並に単価が高くなるという現象が起こっていた。

これは名案だと宗一郎が会社に持ちかけるも満場一致で大反対。

「やるならお前一人でやれ。会社を巻き込むな。」

と見放され宗一郎は涙したそうです。

そりゃそうです。
今やってる修理業は順調だし、いくらピストンリングの需要があるからと言っても簡単には作れない事を皆わかっていたから。

しかしそのショックで寝込み仕事放棄をした宗一郎を見かねた会社側が根負けし、別会社という形でピストンリング製作を了承。

その会社名は「東海精機株式会社」

宗一郎が初めて社長を務めた会社です。

大喜びし、早速寝る間も惜しんで製作に取り掛かった宗一郎でしたが、ただでさえ難しいと言われるピストンリングを無知の状態から始めて作れるわけもなく挫折する羽目に。

しかし諦めきれなかった宗一郎は工業高校の金属工学科に入り勉強することしました。

順調に知識を付けていった宗一郎でしたが理系以外の授業や行事には一切出なかったため、三年生の時に学校側の堪忍袋の緒が切れ咎められます。

それに対し宗一郎は

「俺は仕事を成功させるために学校に入ったのであって、卒業証書なんて何の役にも立たない紙切れが欲しくて学校に入ったわけじゃない。」

と啖呵を切り退学処分に。

しかしある程度の事を学んだ宗一郎はその学を元に血の滲むような努力をし、遂にピストンリングの開発に成功します。

トヨタ自動車

そこで宗一郎は早速トヨタ自動車へ何万本も作った中から50本ほどを厳選し持って行きました。
しかしトヨタの品質基準に合格したのは僅か5本ほど・・・

話にならない精度だった事で落胆するかとおもいきや宗一郎は今度は各地の大学を飛び回り更なる学を身につける。そして遂にトヨタの品質基準でも問題のない生産技術を確立。

その結果、東海精機は修理工場とは比べ物にならない程のスピードで急成長していきました。

更に驚くべきことにピストンリングを作るための製造機械もほとんどが宗一郎が自分で作ったオリジナルの物だった事。

宗一郎曰く

「人間やろうと思えば大抵の事はできる」

だそうです。

言うのは簡単だけど本当に出来てるんだから凄いの一言。

経済統制

しかしタイミングが悪い事に太平洋戦争が開戦したことで国による統制が強化。

東海精機はトヨタの子会社にされてしまい、経営をトヨタ側の人間に握られる事となってしまいました。

系譜図
アート商会

第一章
自動車修理工場からの独立とトヨタの子会社化

東海精機

第二章
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藤沢武夫

第三章
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鈴鹿工場

第四章
スーパーカブの誕生

本田宗一郎の引退

第五章
技術者として引導を渡された宗一郎

本田宗一郎の逸話・名言

終章
本田宗一郎の最期

本田宗一郎の逸話・名言

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後を託された歴代社長

HY戦争終戦とその余波 -第四章-

ソフトバイクシリーズ

無謀な拡充路線を取っていた両社は景気低迷により大量の在庫を抱える事となり大打撃。

特にホンダ以下の規模でホンダ以上にトバしていたヤマハの被害は深刻で、200億円もの赤字を出し会社が傾きました。

そして景気回復の兆しも見えず倒産危機を迎えるまでに陥った結果、ホンダ社長へヤマハ社長が直々に敗北を宣言し記者会見。

発起人である二代目ヤマハ発動機社長である小池久雄さんを始めとした役員の退任や降格、そして新人事はホンダの意向を尊重ということで手打ちとなりました。

終戦したあとも両社の痛手は中々癒えずレーサーレプリカブームが起こる数年後まで回復しませんでした・・・このHY戦争で一番可哀想なのは喧嘩を売ったヤマハでも買ったホンダでもありません。

鈴木修会長

同じくファミリーバイクを売っていたスズキです。

「市場を破壊するだけだ」

鈴木会長(当時社長)は両社を説得するも聞き入れられず、強制的に巻き込まれる形となり通算で100億の赤字というヤマハに次ぐ多大な損害を出しました。

トップ争い出来るレベルで優勝も経験していたWGP(現MotoGP)の一時撤退もHY戦争の影響による経営悪化が原因。それどころか二輪撤退まで検討されたそうです。

結局は車で稼いだお金を注ぎ込むことで生きながらえました。もしもガンマが生まれなかったら本当に撤退してた可能性が高いです。

カワサキ

そしてもう一社、ファミリーバイクを持っておらず傍観気味だったカワサキ・・・実はこちらも他人事ではなく被害を受けています。

カワサキの稼ぎ頭だったアメリカ市場が「景気低迷」「投げ売りによる飽和」「無理な買い替えサイクルによる中古車の潤沢化」と最悪な環境になってしまい一時撤退する羽目に。

HY戦争は「シェア争い・企業間競争の悪例」として今も参考にされています。

例えばタイヤ業界においてシェアNo.1であるブリヂストンはこれに習いシェアNo.1ながら「脱シェア宣言」をしました。

「能力増強一辺倒の経営から持続可能な経営」

へのシフト。

バイク以上に熾烈な争いを繰り広げる自動車業界もHY戦争を見習って行き過ぎたことはしないようにメーカー間で睨み合っていると聞きます。

最後に

HY戦争というと

「ホンダにコテンパンにされたヤマハ」

「ヤマハは馬鹿をやった」

と言われる事が大半です。

確かにそうですが手段を選んでいなかったのはホンダも同じ。結果的に勝ったのがホンダで、負けたのがヤマハというだけ。

現に当時ヤマハの社長だった小池久雄さんは表舞台から姿を消しましたが、ホンダの社長だった河島喜好さんも下から相当な恨みを買ったという旨の話が退任会見で出ています。

ホンダ・ヤマハ本社

「HY戦争に勝者は居ない」

というのが正しい認識かと思います。

そしてこうなってしまったのはプラスに考えれば、ホンダもヤマハもそれだけ

「オートバイメーカーとしてのプライド」

を強く持っていたからとも言えるわけですから。

【関連】

メーカーの二つ名はマーケティング戦略の片鱗|バイク豆知識

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第一章
HY戦争の発端

ファミリーバイク

第二章
HY戦争勃発

泥沼化

第三章
戦争の泥沼化

HY戦争終焉

終章
終戦と余波

HY戦争泥沼化 -第三章-

HY戦争泥沼化

ホンダの反撃で年間販売台数一位を取れなかったヤマハでしたが、諦めるどころが更に攻勢に出たことで

「仕切合戦、リベート合戦、ダンピング合戦」

が更に加速しました。

バイク屋にホンダの営業マンが来て

「店を手伝います」

と言ってヤマハのバイクを奥に追いやりホンダのバイクを前に出す。

すると今度はヤマハの営業マンが来て

「店を手伝います」

と言ってホンダのバイクを奥に追いやりヤマハのバイクを前に出す。

~以下繰り返し~

当時のバイクショップ

ピーク時の営業マンは両社1500人以上だったそうです。

価格の方も定価の半値以下は当たり前、オマケでもう一台、複数台纏めて十万円など。もはやママチャリ並。

そしてそんな競争はやがて中型や大型を巻き込み、終いには海外まで飛び火。

バイクは工業製品の中ではトップの利益率(利益率約20%。ちなみに車は約5%)ですが、毎週のように新車種ラッシュで三台も四台も出して投げ売りや営業のローラー作戦をしていたので当然利益なんて出ない。

両社のHY戦争の産物バイクは数え切れないほどあります。

例えば有名なのがこれ。

モトコンポ(AB12)
-since1981-

モトコンポ

当時は車は一家に一台への過渡期でした。

そして先に言ったとおりホンダは当時四輪が好調だった。

「それなら車におまけでバイク(メーカーオプション)をつければ二輪台数も稼げて一石二鳥」

という戦略。ほぼサービスで付けてたとか何とか。

逮捕しちゃうぞモトコンポ

ちなみに人気が出たのは『逮捕しちゃうぞ』に登場した事がキッカケですが、それは既に生産終了となった後の話。

そして肝心のシェアはどうなっていたのかというと、正確な数字は分からないのですがホンダがトップを固く死守した様です。

そしてこんなダンピング・リベート合戦が長く続けられるワケもなく(と言っても3年以上続きましたが)、終戦の時が来ました。

キッカケはオートバイの主要市場だったアメリカの景気低迷です。

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HY戦争終焉

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HY戦争勃発 -第二章-

ソフトバイクシリーズ

結果として読みが当たったのは・・・・ヤマハでした。

ファミリーバイクは学生や大型ライダーのセカンドなどの新需要を掘り起こし、年を追うごとに販売台数もウナギ登り。

そして単月ながら史上で初めてヤマハがホンダを抜き、半期累計でもホンダ40%に対しヤマハ36%と迫る結果に。

この事実がHY戦争を生むキッカケとなりました。

それまでヤマハ発動機は(創業して間もない頃)本田宗一郎の技術助力を得た歴史もあったため、ホンダとは切磋琢磨し合う良き好敵手だったんですが、新たに就任した新社長(小池久雄さん)が好機と判断。

それまでの友好関係から180度反転し

小池社長

「打倒ホンダ、バイク業界盟主の座を取る」

を宣言したんです。

当時スズキやカワサキは勿論のこと、他の業界からも

「眠れる獅子の尻尾を掴む無謀な行為だ」

という声が多く聞かれました。

バイクが生まれてからずっとトップに君臨し続けた企業を倒そうと言うんだから当然の事。

当のホンダも会社の士気を上げる為のプロパガンダか何かだろうと最初は信じませんでしたが、直ぐにヤマハが本気だという事に気づきます。

ホンダと繋がりのある役員を全員追放し拡充&増産路線を始めたから。

ホンダ・シビック

当時ホンダは車でCVCCエンジンという偉大な発明をして四輪でも世界に名を轟かせ一躍時のメーカーとなっていました。

だから四輪へ偏重気味だった時期で既に四輪の売上は二輪を凌いでいたんですがホンダはヤマハの攻勢に対し

・大事な時期だった四輪を優先しバイク業界一位の座を譲るか

・四輪に大きく振っていた舵を二輪に向けるか

の二択を迫られました。

決め手となったのは当時の社長であり、本田宗一郎の一番弟子である河島喜好さんの一言

河島喜好

「ウチ(ホンダ)はあくまで二輪屋」

ホンダはバイクシェア一位を死守するべく車に振っていた予算や人材を二輪に集中させ反撃に出ました。

そして反撃の第一打がこれ。

タクト DX(AB07)
-since 1980-

タクト

ヤマハの販売台数に大きく貢献していたパッソルと正面衝突となるスクーター。

その後もリードなどスクーターを大量展開しパッソルの勢いを削ぎに来た。

その甲斐あって辛うじて年間販売台数一位の座を死守。

営業面でも俗にいうバイク屋をホンダ車のみの取扱にするなどの敵対買収にまで出ました。これはヤマハも同様で買収やマツダにクルマと一緒に売ってもらったり。

後に「戦争」「シェア争いの悪例」と言われるほど問題になったのはここら辺からです。

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HY戦争の発端

ファミリーバイク

第二章
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泥沼化

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戦争の泥沼化

HY戦争終焉

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終戦と余波

HY戦争の発端 -第一章-

ホンダ対ヤマハ

HY戦争と聞いてもピンと来ない人は多いと思います。
もうカレコレ30年以上前の事ですし、両社が競争ではなくルール無しの殴り合いをしてたなんて信じられない人もいるでしょう。広報や雑誌などを見ても軽くタブー扱いですしね。

「HY戦争」という言葉は終わった後に付けられた俗称で要はシェア争いです。ただそれが常軌を逸していて戦争のようだった事からそう言われるようになりました。

時はさかのぼって1970年代半ばの事です。

当時「二輪はもう飽和状態」と誰もが言い、誰もがそう思っていました。

しかしそんな常識を大きく覆すバイクがホンダから登場します。

ロードパル(NC50)
-since 1976-

hondaロードパル

原付と言えばCUBかモペット(ペダル付き原付)しかなかった時代に登場した通称『ラッタッタ』です。

キック要らず(ゼンマイ式)な事と、スーパーカブ50が10万円の時代に販売価格6万円という大ヒット前提の大量生産による安さが大きく話題となりました。

飽和と言われる中で何故これほど強気に出れたのかというと、巧妙な販売戦略にあります。

ロードパルは本来のバイク屋ではなく自転車屋やデパートなどを中心に販売されたんです。

自転車屋で売ることによって既存のバイクユーザーではなく、自転車が主な移動手段でバイクとは無縁の主婦を始めとする女性や主婦をターゲットにしたのです。

ロードパルS

キック要らず(当時はキックが主流)にしたものコレが理由。

そしてこの読みが見事に的中し、ファミリーバイクという新規市場を開拓し爆発的なヒットに。

このバイクの登場で自転車屋からバイク兼自転車に変貌した店は多いです。

自転車屋なのかバイク屋なのか分からない店があったらほぼこのバイクがキッカケと言っても過言ではないです。

そんな大成功を収めたホンダに対し、ヤマハはというと・・・

パッソルS50(2E9)
-since 1977-

パッソル

中島飛行機(現スバル)が1944~68年まで発売したラビット以来となるスクーターをロードパルの翌年に発売。

ちなみにラビットが終わった理由はスーパーカブの台頭によるもの・・・因果を感じますね。

言ってしまえばファミリーバイクに向けた完全な追っかけ製品です。値段も当時69800円とロードパルを意識して安め。

しかしそこはヤマハ。

ただコピーしたファミリーバイクと言うわけではなく、スカートでも乗れるフラットなステップと外装全体をプラスチックで覆うことで、それまでのメカメカしいイメージを払拭しポップで取っ付き易いイメージにした事でロードパル以上の大ヒットとなりました。

スクーター

このパッソルのエンジンから後輪まで一体となった作りは現代スクーターの基本形となりました。

ここでホンダとヤマハにHY戦争の火種となる差異が生まれます。

ロードパルで成功を収めたホンダは後継車を出しつつも

「ファミリーバイクの需要はある程度満たされ今後は縮小する」

と考え規模の圧縮を図りました。

対するヤマハは

「まだまだファミリーバイクの需要がある」

と規模の拡張を図ることに。

結果として読みが当たったのは・・・・

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ロードパル

第一章
HY戦争の発端

ファミリーバイク

第二章
HY戦争勃発

泥沼化

第三章
戦争の泥沼化

HY戦争終焉

終章
終戦と余波

DUKE250 -since 2015-

duke250

390が出て一年経った頃に急に出てきた次男坊の250。

250が出たって事はDUKE200はお払い箱になるのかな?って思ったらそうじゃなかった。

この250は390をベースに作られたDUKE。対して200は125をベースに作られたDUKE。

10kg軽い200、5馬力高い250と言えばわかりやすいかな・・・いやよく出来てる。

話のネタも無いのでちょっと足回りのお話。

このスモールデュークシリーズが世界で評価され人気が出ている一番の理由は足回りにあります。

WPとBybre

スモールデュークシリーズはWPというメーカーのサスペンションとBybreというブレーキメーカーの物を使用しているわけですが・・・恐らくほとんど皆さん知らないと思います。

まずWPですがBMWにも使われてたりするサスペンションメーカーでKTMのグループ会社になります。本当はホワイトパワーって名前らしいんですけど政治的な問題でWP(ダブリューピー)になったとか何とか・・・日本人には想像が付かない問題ですね。

そしてブレーキの方のByBre(バイブレ)

何か胡散臭い名前だなと思う事なかれ。実はこれブレンボなんです。

ブレンボがアジア向けに作った廉価ブランドで「By Brembo」から取ってByBre。せめて金色に塗ってくれと思いますが、まあ大人の事情ってやつです。

更にABSも有名なBOSCH製の物を使ってたりと足回りには良いもの使ってる。実に欧州らしく、こういうところが評価されているんでしょうね。

デューク

国内メーカーには無いハッチャケ感と足があって(値段がちょっと高い事を除けば)遊びバイクとしては文句なしのレベルなスモールデュークシリーズ。

遊び倒すなら持ってこいです・・・遊び倒すならですよ。多少のトラブルを気にしたら負けです。

最後になりますがスモールDUKEシリーズを買う時は

「絶対に正規代理店またはレッドバロンで買うこと」

これは絶対です。

目先の数万円をケチって先に泣きを見ないためにも必ず守りましょう。

エンジン:水冷4サイクルDOHC単気筒
排気量:248.8cc
最高出力:
31ps/9000rpm
最大トルク:
2.44kg-m/7250rpm
車両重量:139kg(乾)

系譜図
KTMとDUKEについて

KTMについておさらい

デューク125

2011年

DUKE125

デューク200

2012年

DUKE200

デューク390

2014年

DUKE390

デューク250

2015年

DUKE250

【関連車種】
GROMの系譜YZF-R125/MT-125の系譜ST250/グラトラの系譜Ninja250/Z250の系譜