『Ninja』と名乗るようになった理由

カワサキ ニンジャ

カワサキのフルカウル系のバイクはほぼNinjaです。

Ninjaっていうのは当たり前ですが忍者のNinja。

忍者

キッカケとなったのはもちろん一番最初にNinjaと名付けられたGPZ900R。

どうしてNinjaなんて名を付けたのかというと、北米カワサキがGPZ900Rを見て

「Ninja(忍者)にしよう」

と言い出したから。

初代ニンジャ

「いやいやGPZ900Rは全然忍んでないから・・・」

と、日本のカワサキは大反対しました。当たり前ですね。

しかし向こうの人にとって忍者というのは我々が思う忍者ではなく、空を飛ぶことも、水の上を走ることも、分身する事も出来るジャパニーズスーパーマンみたいな存在。

日本のカワサキも最後まで反対していたんですが北米カワサキが全く折れなかったため

「じゃあ北米だけ特別にNinjaに」

という事に・・・これがNinjaの始まりです。

日欧GPZ

こっちは既定路線だった欧州仕様のGPZ900R/1型(1984年製)。Ninjaとは入っていないのが分かるかと思います。

対して北米仕様のGPZ900Rはというと・・・

北米GPZ

GPZ900Rと入るはずのサイドカバー部にNinjaと入っている。

カタログでも”GPZ900R”ではなく”NINJA”または”NINJA900”という名前に。

NINJA900

そのためカワサキもGPZ900Rを紹介する際は

『Ninja GPZ900R』

ではなく

『Ninja/GPZ900R』

と分けて紹介しています。

ニンジャ25周年

もっと細かく言うと最初は水冷でもGPz900Rと小文字でした。

ところでNinjaのロゴってよく見ると荒い画像みたいにギザギザですよね。

ニンジャのロゴ

これ何故こうなったのかというと

「Ninjaじゃなきゃ嫌だ」

とゴネた北米に折れてNinjaロゴを製作し送った際、まだFAXの時代だったのでジャギーが出た荒い状態で向こうに届いた。

そしたら向こうの人が

「コッチのほうが最高にCOOLだ」

と痛く気に入り、このジャギーだらけの形になったんです。

2016年のNinjaロゴ

そしてGPZが大成功し、Ninjaブランドが確立した事から日本や欧州もこのジャギーの出た『Ninja』というペットネームを使うようになり、それが今も続いているというわけです。

文献:モトレジェンド vol.3 (SAN-EI MOOK)

【オマケ】

実は最近になって少し違うNinjaロゴが出来たのをお気づきでしょうか・・・それがコレ。

ZX-10R SEのNinjaロゴ

ジャギー感が全く無く、ツルツル滑らかな形をしてる。

H2のNinjaロゴ

この滑らかな立体ロゴを採用しているのは今のところNinjaの中でもH2シリーズとZX-14R、そしてZX-10R SEだけ。

さしずめプレミアムNinjaバッチと言ったところでしょうか。

カワサキが最初に作ったバイクはスクーター ~バイク事業の歴史~

カワサキの歴史

別の豆知識で各メーカーが最初に作ったバイクを紹介しており、カワサキは1961年のB7という話をしたのですがこれが間違いでした。

カワサキが本当に初めて作ったバイクは川崎航空機工業が1953年末に出したこれ。

川崎号

『川崎号』

何処からどう見てもスクーターという衝撃の事実なんですが、これだけで終わってしまうのも面白くないのでカワサキがバイク事業を始めるまでの歴史を駆け足ながら紹介。

カワサキは貿易商や海運業を執り行っていた”川崎正蔵”という人が海難事故に強い船を造ろうと1878年に

『川崎築地造船所』

を設立したのが全ての始まり。

川崎正蔵

しかし不幸なことに息子全員を早くに亡くしてしまい継がせる家族が居なかった。

そのため同郷であり恩人でもあった松方正義(第4代・第6代総理大臣)の三男である松方幸次郎に会社を託すことになります。

そうして跡を継いだ松方幸次郎は1896年に会社を株式会社へと変え

『株式会社 川崎造船所』

にします。これが川崎重工の前身です。

松方幸次郎

川崎という名を残した事に義を感じますが、株式化と同時に戦争特需に湧いていた造船だけに留めず

・鉄道車両

・タービン

・自動車

・飛行機

などなど事業の多角化も開始。これは松方が川崎を陸海空全てを担う会社にしたいという思いがあったから。

総理の三男という事からただのボンボンかと思いきや事業を順調に成長させ鉄道車両を『川崎車輛』として、川崎造船所飛行機を『川崎航空機工業』として独り立ちさせるまでに成長させ、残された川崎造船所も1939年に我々が知っている

『川崎重工業』

に改められました。

大まかに分けてこういう形です。

1939年のカワサキ

夢だった陸海空すべてに携わる重工を本当にやってのけたわけですね。

その中で川崎航空機工業が担っていたのは主に飛燕や屠龍などの戦闘機だったのですが、そのために敗戦と同時にGHQから工場を差し押さえれ操業停止。

民需産業への転換を条件に再開の許しが出たので歯車部門を皮切りに自動車やバスなど部品、そしてエンジン開発など航空で学んだノウハウを元に事業を展開するように・・・ちなみにホンダの下請けもやっていたとの事。

※補足:この時に社名を『川崎産業』へ一時的に変更しますが再び川崎航空機工業へと改名

そんな中で川崎航空機工業のバイク用に造っていたのは

KBエンジン:2st/50~60cc
KEエンジン:4st/150cc
KHエンジン:4st/250cc

で主に大日本機械工業という所へエンジン供給していました。

大日本機械工業

川崎航空機工業の名前が見当たらないのは大日本機械工業が川崎エンジンなのに自社開発と謳っていたから。

なんてやつだと思うわけですが、そんな大日本機械工業も100社以上が犇めき合っていた時代の競争に破れ1953年にバイク事業から撤退します。

大口を無くしてしまった川崎航空機工業だったのですが、大日本機械工業でバイク事業をやっていた人が新たに

『川崎明発工業(通称メイハツ)』

という大日本機械工業に変わるバイク(組み立て)メーカーを設立し川崎航空機工業はそこに供給するようになります。

1954年のカワサキとメイハツ

川崎と名が付くものの(カワサキエンジンを自社ボディに取り付ける)製造は東京で、川崎航空機工業が出資したと言われていますが完全子会社ではなかった模様。

こうして川崎航空機工業はメイハツにエンジンを供給し

メイハツ125

『メイハツボディ×川崎航空機エンジン』

のバイクとして東京を中心に販売し好評を得るようになるわけですが、市場の拡大と好評からだんだん川崎明発工業のキャパをオーバーするようになってきた。

そこで川崎航空機工業は1959年に単車部を社内に設け、自社による一貫生産及び販売を計画。1960年に目黒製作所と提携し1961年に始動する事となります。

1961年カワサキ誕生

その時に誕生したのが『カワサキ自動車販売』という今で言う所のモーターサイクル&エンジンカンパニー。

自動車という名前になっているのは軽自動車も売るつもりだったから。

KZ360

結局マツダなどに先を越されたため計画は廃止となりました。残念。

それはさておきカワサキ自動車販売として始動し、初めて販売したのが自社(明石)工場で全て造ったメイハツ設計のB7。

B7とカワサキPET

ちなみに横に映っているのは1961年に発売されたカワサキPETと呼ばれるモペットで現在のカワサキが最初に一から開発したモデルはこれ。

「カワサキって川崎重工じゃなかったのか」

と思われるかも知れませんが、このあとすぐそうなります。

1969年に国際競争力を付けるために川崎重工、川崎車輌、そして川崎航空機は合併するんです。

1961年カワサキ誕生

こうして今のカワサキに至るという話。

もともと川崎航空機工業の大株主も川崎重工だったんですけどね。

最後にもう一度本題に戻しますが

川崎号のプロトタイプ

「B7が最初ではなく川崎号が最初だった」

という話なんですが、いま説明してきた経緯を見れば何故これが出たのかも分かりますよね。

川崎号が出た1953年に何があったか。

『大日本機械工業の撤退』

ですね。

当時バイクメーカーは100社以上もあり戦国時代で大日本機械工業もすでに思わしくなかった。

巨大な工場を維持するために規模の経済を活かし高額な物を大量に造って売るしかない川崎航空機工業にとってもこれは軽視できる問題ではなかった。

1966年頃の明石工場

そんな中で当時はスクーターという乗り物がバイクモーター(自転車にエンジンを取り付けるタイプ)よりも高性能な高級バイクとして富裕層に人気があり、三菱重工のシルバーピジョンが飛ぶように売れていた。

戦闘機のノウハウを元にエンジンはもちろんバスやトラックなどでモノコック技術にも秀でいた川崎航空機工業が造らない手は無いですよね。そうして誕生したのがこの川崎号というわけ。

カワサキのスクーター

正真正銘の明石製で性能も

・2st/58.9cc

・2ps

・足踏切替式2速ミッション

・テレスコフォーク

・最高時速45km

と当時としては優れたものを持っていました。

川崎号のエンジン

・・・が、売れなかった。

見落としていた言い訳でもあるんですが、この川崎号は国内総生産台数が16万台ほど時代に

「たった200台ほど」

しか生産されず終わってしまったんです。

理由は軍事産業により培ってきたネームバリューはあったものの、コンシューマ(一般消費者)の販路を持っていなかったから。

1954年の生産台数

何処で買えるのかも、何処で修理してもらえるのかも、そもそも川崎航空機工業がそんな物を造っている事すら一般消費者には知るすべが無かったから兵庫近辺でしか売れなかった。

これがカワサキのバイクメーカーとしての第一歩。

最初から自社で売るのではなくメイハツと二人三脚の道を選び、またバイクメーカーとして本格始動する前年に全国に販売網を持つメグロと提携したのも川崎号の教訓があったからなんでしょうね。

※カワサキのバイク事業が出来るまでのザックリな時系列

【1953年】
バイク用エンジンを開発/販売
大口だった大日本機械工業がバイク事業から撤退
『川崎号』を開発/販売するも販売網が無く不振に終わる

【1954年】
大日本機械工業の後釜として明発工業を設立(出資/提携)

【1959年】
川崎航空機工業内に単車部が出来る

【1960年】
目黒製作所と提携し販売網を確保

【1961年】
明発工業経由をやめ自社による一貫開発/販売を始める
カワサキPET及びB7を発売

【1963年】
カワサキ初の完全新設計オートバイB8を発売
レースで活躍したことでカワサキの認知度が向上

【1964年】
目黒製作所の業績不振によりカワサキが吸収

【1969年】
川崎重工、川崎車輌、川崎航空機工業が合併し川崎重工に

【1972年】
川崎重工が900Super4(Z1)を発売

参考資料
カタログで振り返る日本のスクーター
国産オートバイの光芒
世界モーターサイクル図鑑KAWASAKI-I

我々が知らないカワサキの別の顔

カワサキZX14R

カワサキといえばなんといってもバイク。他にやってる事業と言えば新幹線、航空機関係や船舶関係といったボヤッとしたイメージでしょう。

そこで普通に生活してたら知る由もないカワサキの意外な一面を紹介。

例えばトヨタ初のカーボンモノコックボティで作られたスーパーカーのLFA。

LFA

エンジン開発にヤマハが携わった事は有名だと思います。世界の工場というドキュメンタリーのLFAで知ったんですが、設計はヤマハ、部品の生産などはトヨタ(空いていたF1の設備を使用)、そして組み立てはまたヤマハと結構行ったり来たりしてる。

音叉システム

しかも面白いことにヤマハ内でエンジンを組む人たちの作業着を見ると「YAMAHA」とは書かれておらず「ONSA」と書かれてる。音叉がエリートの証なのかな・・ってこのページの主役はカワサキだった。

何で急にLFAを挙げたかというと、LFA生産にはカワサキも一枚噛んでいるから。もう生産終了してるから噛んでいたが正解か。

それがどの部分かというとボディ溶接。LFAのボディ溶接の一部にはカワサキの自動車産業用ロボットが使われています。

更に言うなればカワサキは専用工場and専用ロボットのレクサスLFAに限らず、トヨタ系工場のボディ溶接の大部分担っています。トヨタ工場におけるスポット溶接ロボットのシェアはカワサキがトップ。

トヨタ工場

写真左はアメリカ工場でカムリを作ってるライン、そして右は日本でプリウスを作ってるライン。見え辛いですがどちらもカワサキの証であるフライングKがバッチリ入ってる。

つまりトヨタ車はカワサキ車と言えなくも・・・言えないか。でもトヨタ工場で大活躍してるのは事実です。

ただ本題はここから。カワサキのロボット事業というのは何も溶接ロボットや塗装ロボットといった自動車関係だけではありません。

カワサキ産業ロボット

産業用ということで業界人しか知らず我々が知る由もないので知らないで当たり前ですが、カワサキは国内で一番最初に産業用ロボットの市販化に成功した企業。

現在では多方面に渡り自動化分野における特許は100を超え、10万台以上のロボットを国内のみならず世界に納入という実績があります。

そしてそんなカワサキが強みとしているロボットはなんと半導体産業用ロボット。

半導体カワサキ

正確かつクリーンさが求められる産業ロボットでカワサキは更なる自動化を進め好評を得ています。あのカワサキが半導体用ロボットですよ。

MC004N

なんだかロゴの場違い感が凄いですね。

更には医療部門でもロボット事業を展開。

IPSロボット

これは話題のiPS細胞を自動培養してくれるロボット。しかもただ作っただけじゃありません。

独立法人の成育医療と産総研により”熟練者でなければ培養が難しいiPS細胞の自動培養”に世界で初めて成功。そしてその際に使われた自動ロボットはこのカワサキ製ロボットでした。

カワサキのロボットが世界を救う日が訪れるかも知れませんね。

重工という事からアナログなイメージが湧きがちなカワサキの別の顔でした。

道理と無理が入り交じるディスクブレーキ事情

ディスクブレーキ

これは元々、初心者向けのページである

「知ってるようで知らないディスクブレーキの仕組みと大事なこと」

で書こうかと思ったのですが、ちょっと小難しく長い話になってしまったのでコチラに。

ちなみにこの話はブレーキに携わる方から見たり聞いたり、某メーカーの人がポロッと漏らしていた話を元に掘り下げて書いている内容なので、豆知識というより持論みたいなものと思っていただけると助かります。

さて本題・・・今やディスクブレーキといえばスポーツバイクの必需品ですね。

そして喜ばしい事に昨今ではもう

「ブレーキが効かないバイク」

というのはほぼ存在しなくなりました。

これはマスターからキャリパー、受け止めるサスやフレームやタイヤ、そして何よりブレーキパッドの性能が向上したから。

ブレーキパッド

昔のブレーキパッドは金属繊維を樹脂で焼き固めた

”オーガニック(レジン系)”

というのが基本で、柔らかく効き(摩擦係数)があまり良くなかった。

それが今では金属を高温高圧で成形した

”シンタード(メタル系)”

という摩擦係数がとても高いパッドや、レジン系ながら金属の割合が高いセミメタルが登場した事で大きく改善したから。

恐らく一番知名度があり人気であろうデイトナさんで見てみましょう。

デイトナブレーキパッド表

黒パッドがレジン、赤パッドがセミメタル、金パッドがシンタードです。分かりやすいですね。

ちなみにAMECAというグローバル品質認証を取り仕切っているアメリカの団体があります。

アメカ

そしてこの団体の品質認証を受けたブレーキパッドは裏面に性能(摩擦係数)が載っています。

D(0.25以下)~H(0.55以上)とランクがあり、低温時と高温時の二文字が刻印されている。

ブレーキパッドコード

上のものは住友の純正品(セミメタル)なんですが、FFとかなり優秀。ちなみにゴールデンパッドは公式では0.7と言ってるので相当高い。

この様な事から

”効くor効かない”

という次元の問題はほぼ無くなり、今は車種に合ったフィーリングや軽量化などの改良が開発のメインになっている。

ところがそんな流れにおいて矛盾とも取れる部分があります。

ディスクローター

それはディスクローターです。

今やディスクローターはタイヤバルブにアクセスするのも困難なほど大きな物が車種問わず当たり前になりました。

ディスクローター大径化の主なメリットは、強力なブレーキングになる事と熱キャパが上がって熱ダレ(フェード)し難くなること。

「良いことじゃないか」

と思うかもしれません・・・が、一概にはそうとも言えないんです。

CB1300とXJR1300のブレーキ

ディスクローターを大きくした場合まず問題となるのは重量増です。

”バネ下重量”

って聞いたことがある人も多いでしょう。

サスペンションのバネ(スプリング)より下にある物の重量の事。

フロントを例に上げると

・ホイール

・キャリパー

・ディスクローター

・フェンダー

・アクスルシャフト

・タイヤ

などがあります。

バネ下

「バネ下の軽量化は効果的」

と言われるのはバネ下、つまり上下に往復運動する部分が軽ければ軽いほど慣性モーメントが減るから減衰を小さく出来る。

要するに収束させようとするサスペンションの負担が減るので乗り心地を良く出来るというわけ。

反対にローター大径化などでバネ下を重くするとサスペンションに大きな負担を強いるので、乗り心地の悪化やサスの熱ダレを招きます。

でも問題はそれだけじゃない。

バイクが真っ直ぐ走る事が出来るのは、回転軸を維持しようするジャイロ効果が主にホイールで起こるから。

ホイールジャイロ

ジャイロ効果は回転が速ければ速いほど、そして重ければ重いほど強力に働く。

つまりホイールと一緒に回るディスクローターが大きい(重い)とジャイロ効果を増す事となり、寝にくさ(起きやすさ)が強くなってしまうんです。

まだまだ問題はある。

ローターが大きくなると必然的にキャリパーも外側(リム側)へ追いやられるわけですが、そこで問題となるのが左右に切る構造となっているステアリング。

レコード

キャリパーという重量物が左右に動く操舵軸から離れてしまうため、操舵慣性モーメントが増える。

要するにハンドリングが鈍重になってしまい、コントロール性が損なわれてしまうというわけ。

「バネ下を軽くするとハンドリングが軽快になる」

と言われている理由もこれです。

なんとまだまだ問題はあります。

SV650とZ650のブレーキ

最初にローターを大径化するとブレーキが強烈になると言いましたが、これは言い換えると

『強烈になりすぎる』

とも言えるわけです。

ディスクジョッキー

いきなりですがちょっとDJ気分になって目の前にレコードが回っていると思って下さい。

「このレコードの回転速度を指でコントロールしろ」

と言われた時に、A点とB点どっちを抑えたほうが精密にコントロール出来るでしょう。

レコード

もしB点を抑えて調整しようとしたら軽い力なのに必要以上に速度を抑えてしまう難しさが生まれる。

対してA点なら微妙なコントロールが出来るので限りなく狙った速度へ調整できる。これがバイクのディスクブレーキにも言えるんです。要するにローターが大きくなるほどブレーキコントロールが難しくなるということ。

もう効く効かないの時代ではなくコントローラブルの時代なのに、それらを無視どころか不意にする様なディスクローター大径化の流れ。これが何故かと言うと『見た目』や『経年劣化を考慮したマージン』でもあるんですが一番大きな理由は

「我々がブレーキを停止装置と思ってるから」

です。

停車

性能が向上したブレーキパッドと大径ローターが当たり前となった現代では、多くの一般的なライダーはアンコントローラブルなブレーキを起こし易い状況にある。

ところがアンコントローラブルなブレーキを起こしても誰一人としてブレーキに文句や不満を言わない。なぜなら想像以上に効かせてしまうアンコントローラブルなブレーキを起こしても

グロムのジャックナイフ

「しっかり効く良いブレーキだな」

としか思わないから。

本来ブレーキというのは必要な時に必要なだけ減速させる

『最適な減速をするための装置』

しかし多くの人はそうではなく

『最短で停止するための装置』

と考えてるから想像以上に効いてしまう事をプラスと捉えてしまう。だからもし反対にローターを小径にしてコントロール性を取ったら

「効きが甘い」

という不平や不満が間違いなく出てくる。

the wait is over

で、話を少し巻き戻しますが最初に

「ブレーキが効くようになったのはパッドの性能が上がったおかげ」

と言いましたが、これも厳密に言うとちょっと違うんです。

結局のところブレーキ(減速)が何処で行われてるのはディスクとパッドではなく、それによって起こる路面とタイヤの摩擦。どれだけ高性能なブレーキを持っていようがタイヤや地面がツルツルだったら止まれないのは分かりますよね。

ニンジャ1000のブレーキ

つまり効く効かないのレベルではなくなったのは厳密に言うと制動力が上がったからじゃないんです。

「あまり握らなくてもブレーキが効くようになった」

というのが正しいんです。

ちなみにこれを理解している人と理解していない人ではカスタムにも顕著な違いが現れます。

カスタマイズ

ブレーキを減速装置だと分かっている人はメンテナンスやサスセッティングも同時に考え、タッチやフィーリングを良くする為の

『探るようなカスタム』

をする。

対してブレーキを停止装置だと考えている人は、サーキットを走るわけでもないのに

『強くするカスタム』

をする・・・そしてどんどんアンコントローラブルにしてドツボにはまる。まあ趣味なんだからそれも一興ですけどね。

もちろんいま売っているバイクは大径ローターだからアンコントローラブルになっていると言いたいわけではないです。

日進ブレーキ

最初に言ったようにメーカーはコントロール性向上の開発に注力し、車種ごとに何回も何回も開発実験を繰り返した上で採用してある非常にコントローラブルなもの。

ただしアンコントローラブルを招きやすい大径化という無理は許容できても、コントローラブルな小径化という道理を許容することは難しいのが実情という話。

ところが・・・この道理と無理の問題が当てはまらないバイクがあります。

それはシングルディスクのバイク。

400スポーツ

「シングルディスクは安いっぽい」

という声はよく聞きます。

確かにシングルディスクの狙いはコストカットが大きいし、Wディスクほどの制動力(摩擦力)を発揮できないもないから見た目のインパクトも弱い。

でもそのかわりシングルディスク車はいま紹介してきた

・バネ下の軽量化

・操舵慣性モーメントの軽減

・最適なストッピングパワー

というWディスクブレーキ車が半分諦めている恩恵を大きく享受しているんです。

ジムカーナやミニサーキットでわざわざWディスクの片方を外している人を見たことが無いでしょうか。アレをしている人はこの恩恵の大きさを分かっているからやっているんです。

250スポーツ

要するに効く効かないという次元ではなくなった現代ブレーキにおいて、シングルディスクブレーキというのは

『道理的なディスクブレーキ』

という事なんです・・・結局これが言いたかっただけ。

川崎重工業の二輪部門はオマケ程度って本当?

川崎重工明石工場

よくカワサキのバイクは新幹線や飛行機や船舶といった部門の売上に頼り、バイクはそのお情けで作っていると言われる事があります。

結論からいうとこれは「嘘」です。

確かに新幹線も飛行機も船舶も作れる会社は数える程度しか無く、その中に川崎重工が食い込んでいる事は事実です。

しかしだからと言ってバイク部門「川崎重工業モーターサイクル&エンジンカンパニー」がおまけ程度の売上かと言われればそうではありません。

川崎重工売上割合

バイク部門は新幹線を作る車両製造事業、飛行機や宇宙用機器を作る航空宇宙事業よりも高い売上割合を占めています。
決して重工業の片手間遊び半分でバイクを手がけてるワケではないです。

恐らく90年前後のバイクシェア低迷や、嗜好品ゆえに景気の影響での赤字ニュースなどが大きく報道されたりしたことがデマを生んだんでしょうね。

あと他メーカーと違いコミューターに力を入れていなかった事もかな。

バイクの排気音がうるさいと言われる原因

バイクの排気音

車もそうですがアクセルを開けるとブンブンと排気音がしますね。そしてその音がたまらないと思う人が居る一方で、うるさいと思う人も居る。

意外と知らない人が多いんですがバイクの騒音規制というのはつい最近までクルマより厳しいものでした。にも関わらずウルサイとよく言われるのは基本的にバイク。

「何故バイクばかりが言われるのか」

と疑問に思う方も多いと思います。そこで今回はその答えについて書いていきます。

【1.連想するかしないか】

『オートバイの排気音に対するライダーと非ライダーの意識の違い』

という研究論文でバイクに乗る人と乗らない人を集めバイクの排気音を聞かせてどんな音だったか例えてもらったところ

「バイク乗りと非バイク乗りの間で大きな差は無い」

という事が分かった。どう聞こえているかは同じだったわけです。

当たり前な話でもあるんですが、しかし一方でバイク乗りが良いと感じる音を非バイク乗りはうるさい音だと感じるパターンが多かった。

この原因は

「音だけで判断するか否か」

という違いがあったから。

バイク乗りがなぜ排気音を良い音だと捉えるのかというとバイクの楽しさを連想するから。

音から連想する

図太い低音を聞くとバイクのパワーを、甲高い高音を聞くと駆け抜ける爽快感を連想し高揚する。だから良い音だと感じる。

しかしバイクに乗らない人はそれらを連想する思い出や経験が無いから音だけで判断する。

音から連想する

だからウルサイとしか思わない。両者を分ける大きな要素はここにある。

「知らない曲は雑音でしかない」

という例えがあったりすると思うんですが、それはバイクの排気音でも同じという事。

連想させる

ましてバイクに乗る人間はクルマに比べて少数だからそれだけバイクが言われるというのが一つ。

【2.社外マフラーと逆輸入車や外車の存在】

バイクは嗜好性の高い乗り物でマフラーもスリップオンならボルトを数本外すだけという手軽さからオシャレを兼ねて交換をする人が非常に多い。

社外マフラーにすると当然ながらうるさくなるわけです・・・が、そう言われてこう思ってる人も居るかと思います。

「俺はJMCAの合法マフラーだから大丈夫」

と・・・でも実は胸を張ってそう言えるのは2010年(平成22年)4月移行のモデルに乗ってるバイク乗りだけなんです。

というのもそれまでJMCAの基準が

『近接排気騒音規制』

だけだったから。

近接排気騒音

近接排気騒音というのはニュートラルの状態でマフラーの0.5m後方45°の所にマイクを置き

・最高出力時の75%の回転数

・最高出力時の回転数が5,000回転を超える場合は、最高出力時の回転数の50%

で騒音を基準値内に収めないと売れませんよという話。

これを守っているのが合法マフラーことJMCAマフラーなんですが、一方でメーカーが国内販売するために取る型式認証の場合に課せられている騒音規制である

加速走行騒音

『加速走行騒音規制(50kmで一定区間を走った際の騒音)』

はずっと適応されていなかった。

これ何が問題なのかというと近接排気騒音よりも加速走行騒音の方が圧倒的に規制値が厳しいという事。

2002年からの騒音規制値
近接排気騒音:94db
加速走行騒音:73db
(251cc~)

明らかに加速走行騒音のほうが厳しいのが分かると思います。だからメーカーは加速走行騒音を規制値内に収める事に重点をおいていた。加速走行騒音をクリア出来れば近接排気騒音は問題にならないからです。

結果何が起こったか・・・分かりますよね。社外マフラーは94dbの近接排気騒音だけクリアすればいい状態だったから、実際(加速走行騒音)はかなりオーバーしていたんです。そしてその状態で走る人が多かったから気持ちの問題ではなく本当にうるさかったという話。

ちなみに

逆輸入車

「俺は純正マフラーだから大丈夫だ」

と思ってる人、それ逆輸入車や外車ではないでしょうか。

というのも逆輸入車や外車も測定されるのは(車検と同じ様に)近接排気騒音だけ・・・つまり社外マフラーと同じような扱いだったんです。

ただし過去形な事からも分かる通り現在(平成22年4月移行)では社外マフラーにも逆輸入車にも外車にも加速騒音が適用されるようになっています。

最近のJMCAマフラーを付けた事がある人ならおわかりと思いますが純正と大差ない静かさだったりします。

【3.構造上の問題】

バイクはクルマと違って各部が剥き出しになっているため囲う事ができず

「音を周囲に放射してしまう」

という構造上の問題があります。早い話が音を全方位に撒き散らしてしまうという事ですね。

そしてもう一つが

「エンジンの回転数が比較的高い」

という問題。

どういう事か音響学を学んでる人に怒られそうなくらいザックリ説明します。

排気サウンド

我々が思う排気音というのはエンジンの排気(振動)が音源で、排気の間隔つまり時間あたりの回転数や気筒数が少ないほど周波数(音の高さ)が低くなり、反対に多くなるほど高くなる。

これの求め方は

『回転数*気筒数/2/60』

という感じで4st単気筒の6000rpmなら

『6000*1/2/60=50』

一秒間に50回振動する50Hzの音が出ていると分かる。これが四気筒になると2回転で4回の燃焼をするので*4で200ヘルツになるから同じ回転数でも音が高く感じるという話。

高回転エンジン

例に上げた6000rpmですが、これはクルマでいえばレッドゾーン近辺にあるモデルが大半かと思います。そしてそこまでガンガン回しながら走ってる人はそうそう居ない。

しかし一方でバイクにおける6000rpmというのは決して高い回転数じゃないどころか常用域なモデルが大半。

しかし多くの人はそんな甲高い高周波の排気音を聞き慣れていないし、バイクに思い入れなんて無いから(特に4kHz~16kHz付近を)不快この上なく感じるからうるさいと言われるという話。

この3点がバイクがうるさいと世間様から言われる代表的な要因です・・・なんだか夢も希望も無い豆知識になってしまったので次は夢のある排気の話を書こうと思います。

繋がっているKとK

フライングK

バイク乗りでKと聞けばKAWASAKIですね。

しかしIT業界でKといえばといえば筐体数864台、CPU9万個を並列に連結しているスーパーコンピューター京。

スーパーコンピューター京

1秒間に1京回の計算をする事から

「京(K computer)」

と名付けられました。

家庭用のハイスペックパソコンで200年以上かかる計算を1日でやってのけるんだとか。

そんな京がカワサキとどう繋がるのかって話ですが、スーパーコンピューターという事で計算速度はもちろん消費電力も桁違い。

京はフルロードさせると最大で約1万3000kwも必要になる。約4,500世帯分の電力。

そんな膨大な電力の半分は関西電力から、そしてもう半分を担っているのが実は川崎重工のガスタービンなんです。

PUC60

6000kW級の発電機を二つ。

節電と片方が切れても大丈夫なようにこうしてるわけですが、凄いのはそれだけじゃない。このガスタービン、UPS(無停電電源装置)も備えているんです。

万が一、何らかの理由で電力が届かなくなってもカワサキのガスタービンがフル稼働して保護。最悪の場合このガスタービンだけで運用できる様に備えているというわけ。

「バイク関係ないじゃん」

と痛いところを突かれそうですが、実はそうでもないようなんです。

スーパーコンピューター京は2012年から共用運用、つまり

「本当に京の力が必要なら公募してね」

という感じ。何処の誰でも使えるわけではありません。

そんな中で京の発電部を担ったコネを活かしたのか、川崎重工は見事に選定。

そこでカワサキが京を使って何をしたかというと

「タービンの気流解析」

です。

究極の空気圧縮機を目指し、通常の何倍もの速さで仕事を熟す京を使ってシミュレーションしている。

羽といえば・・・そう、2016年に登場した市販車初のスーパーチャージャーバイクH2。

これに使われているタービンはもちろん内製、川崎重工業ガスタービン事業部によるもの。

H2の中にはスーパーコンピューター京の力も含まれているというわけ。まさにKKコンビですね。

”単車”と呼ばれる様になった由来

単車と呼ぶゆわれ

よくバイクを「単車」と言う人が居ますよね。

バイクを”単車”と呼ばない人でも「単車」と言われればバイクを指してる事だと理解します。

でもなんで単車なんでしょう?

タイヤは2つ付いてるのに単車、同じタイヤ2つの自転車は単車と呼ばない・・・何故?

調べてみたらちゃんと由来がありました。

もしかしたら暴走族的なイメージを持っている人もいるかもしれませんがそれは違いますよ。

時代は遡ること終戦後1950年前後の頃。

この頃はみな貧しく、GHQの生産規制もあって車なんてものは持っていませんでした。

そこで庶民の足として親しまれ活躍したのがサイドカー付きオートバイ。

側車付きオートバイ

車ほどでは無いにしろ荷物を側車に載せる事が出来る利便性から広く普及しました。

そしてサイドカーの方を”側車”、バイクの方は”本車”と呼び、両方合わせて初めてオートバイと言われるまでに。

しかし時代が進み軽自動車が出始めると荷物を運べるという側車付きのメリットは薄れ使われなくなっていきました。

するともう側車は必要ないので側車を外し、移動手段として本車だけで走る人が増え始めます。

その”側車の付いてない本車”の呼び名が「単車」だったんです。

これが単車と呼ばれる所以だと言われています。

今では側車付きの方が珍しいですが、当時の人から言わせると

そこら辺を走ってるのはオートバイではなく「単車」なんですね。

参照:JAMA

後を託された歴代社長

ホンダCSR

先にも述べましたがホンダにはいくつかの決まり事があります。

その中でも特殊であり有名なのが

「社長は技術畑出身であるべき」

という決まり事。

そこで歴代ホンダ社長がどういう技術者だったのか振り返ってみたいと思います。

初代社長(1948~1973年)
本田 宗一郎(ほんだ そういちろう)

宗一郎

世界のホンダを一代にして築き上げた創業者で口癖は

「世界一じゃなきゃ日本一じゃない」

最期まで技術者として皆と寝食を共にしオヤジと親しまれた。

二代目社長(1973~1983年)
河島 喜好(かわしま きよし)

河島喜好

日本楽器(現ヤマハ)に入りたかったもののそれが叶わず本田技研に入社した初めてのエリート(現在でいう大卒)。

4st技術により初期のホンダを支え、また最初期のレース活動および北米進出の陣頭指揮を取り、45歳の若さで宗一郎と藤沢から直々に社長就任の命を受け、最初こそ技術者の身分で居たいと出社を拒否したものの就任。

全責任を追うプロジェクトリーダー制度や、上下関係を取っ払った協創作業の『ワイガヤ』を初めたのもこの人。

これは副社長だった藤沢に

「宗一郎が居なくなっても大丈夫なように、小さな宗一郎をいっぱいつくるんだよ」

とアドバイスされた事がキッカケ。

つまり実質的に今のホンダの基礎を作った非常に偉大な大功労者。

三代目社長(1983~1990年)
久米 是志(くめ ただし)

久米是志

入社と同時にマン島TTやフォーミュラーのエンジニアに抜擢され、更にはCVCCエンジンの開発者としても多大な活躍をされた方。

もてぎサーキットの建設もこの人がモータリゼーションを培うために決断したおかげ。

一方で水冷or空冷問題で本田宗一郎と大喧嘩を繰り広げこれまた出社拒否というエンジニアとしての熱も凄かった。

ちなみにASIMOやホンダジェットのプロジェクトを許可したのもこの人。

四代目社長(1990~1998年)
川本 信彦(かわもと のぶひこ)

川本信彦

飛行機が造りたかった中で本田宗一郎の

「飛行機を作らせてやる(大嘘)」

という言葉を信じて(半分騙されたような形で)ホンダに入社した方。

F1のエンジン開発責任者として活躍すると同時にセナとも仲良しだったものの、F1に魅せられすぎて撤退に納得できず辞表を叩きつけて出社拒否し自室でエンジンを設計していた(本人はコスワースに行こうと考えていた)経緯を持つ。

NSXとホンダジェットのプロジェクトを社長に直談判したのもこの人で、自身もVFR750R/RC30開発の直訴に対し

「好きにやっていいよ」

と社長権限で市販化を許可した事でも有名。

五代目社長(1998~2003年)
吉野 浩行(よしの ひろゆき)

吉野浩行

東京大学工学部航空学科出身という超エリート。

入社理由は川本さんと同じで川崎重工に入るつもりだった。

ちなみにCBXやNRで有名な入交さん(初代HRC社長でSEGAへ転職しサクラ大戦をプロデュースした後に社長に就任)とは同期生。

東大の講演に呼ばれた際に

「大学で学ぶことは何の役にも立たない」

と言い放ち大学から落胆されたエピソードがある。

六代目社長(2003~2009年)
福井 威夫(ふくい たけお)

福井威夫

F1をやりたくてホンダに入り、実際に第三期F1の指揮を取った方。

それ以外にもWGP責任者としてNR500/NS500/RVFなどの開発/監督/総責任者を歴任し、HRCの社長にも就任したバリバリのレース畑出身者。

自らもF1マシンやRC211Vでデモンストレーションを行い「世界一速い社長」の異名を取る。

ちなみに父親は戦艦大和の開発技師として有名な福井静夫さん。

七代目社長(2009~2015)
伊東 孝紳(いとう たかのぶ)

伊東孝紳

NSXのシャーシを周りの反対を押し切ってオールアルミ化したエピソードを持つお方。

NSXが再登場したのは間違いなくこの人の差し金なものの、リーマンショック時には後継の開発中止という苦渋の決断をし開発チームを説得して回った苦労人でもある。

車の開発が中心だったものの実は大のバイク好きで、愛車CB1100で通勤したりもする上に、新型バイクは市販前に必ず自ら試乗する心意気だった。

NC700が市販化されたのもこの人が太鼓判を押したからだったりする。

八代目社長(2015~)
八郷 隆弘(はちごう たかひろ)

八郷隆弘

ホンダ(本田技研工業)の頭脳的存在である本田技術研究所の所長という先代までの全員が通ってきた社長コースを通らず九人抜きでホンダ社長となり大きく話題となった方。

前任の伊藤氏とはエンジニア時代からの仲で二代目CR-Vの生みの親。車を持っていない社長としても話題になったがバイクはVTRを持っている。

イギリス工場など生産拠点の閉鎖や商品開発部を研究所から本体に移すなど肥大化した会社の合理化を進め、F1撤退と憎まれ役まで一手に引き受けた。

大企業病に陥りつつあった社内の改善にも尽力しており、鈴鹿で行われた新入社員への挨拶では

「石橋を叩いて渡るな、石橋を叩き壊して新しい橋をかけろ」

と檄を飛ばした。

九代目社長(2021~)
三部 敏宏(みべ としひこ)

三部敏宏

F1に憧れて入社し主に自動車エンジンのエンジニアとして手腕を発揮され本田技術研究所社長からホンダの社長に就任という王道を歩んで来られた方。

SULEVアコード(超超低排ガスエミッション車)のエンジンを開発した環境技術のエキスパートで、カーボンニュートラル社会への順応を示す形となった。

四輪事業の改善が課題とされ、これまでホンダがやってきた『自前主義』を見直す方針も打ち出している。

参照:ホンダ企業情報より

系譜図
アート商会

第一章
自動車修理工場からの独立とトヨタの子会社化

東海精機

第二章
本田技術研究所の発足とA型の誕生

藤沢武夫

第三章
本田技研工業(現ホンダ)設立と藤沢武夫

鈴鹿工場

第四章
スーパーカブの誕生

本田宗一郎の引退

第五章
技術者として引導を渡された宗一郎

本田宗一郎の逸話・名言

終章
本田宗一郎の最期

本田宗一郎の逸話・名言

おまけ
後を託された歴代社長

終章 宗一郎の最期

ホンダドリーム

現役を退いてからも宗一郎は忙しい毎日でした。

三度の飯より仕事が好き、散髪は工場で寝ている間に奥さんがする程の男だったためか、現役を退いたにもかかわらず気付くと会社に車を走らせていたことが数ヶ月も続いたそうです。

そこで宗一郎は全国の営業所にお礼参りの旅に出ることに。
その後もさらに本田財団、サイエンス財団、安全協会などを設立し社会貢献もしていきました。
その甲斐あってか自民党から東京都知事選の誘いが来たらしいのですが断ったそうです。

創業間もない頃の苦しい時期にあった議員からの融資の話も断るなど、政治には一切関わろうとしなかった宗一郎。

サチ夫人

実はこれは宗一郎をずっと支えてきたサチ夫人から「政治には関わらないで」という数少ないお願いがあったからなんです。宗一郎は最後までちゃんと守り通したんですね。

そんな宗一郎も晩年になると若いころの無茶がたたったのか身体にガタが来始めます。糖尿病や脳血栓症といった病気を患い入退院の日々が続き日に日に弱っていきました。

更に悲しいことにずっと二人三脚でやってきた藤沢武夫が心筋梗塞により亡くなります。
遺体を見た宗一郎は人目もはばからずに号泣したそうです。

そしてその三年後の1991年、末期がんで容態が悪化し緊急入院。そして亡くなる二日前、サチ夫人におんぶして病室を歩くようにお願いをし

本田宗一郎

「浜松に帰ろう」

そう言い残しこの世を去ったと言われています。享年81歳でした。

系譜図
アート商会

第一章
自動車修理工場からの独立とトヨタの子会社化

東海精機

第二章
本田技術研究所の発足とA型の誕生

藤沢武夫

第三章
本田技研工業(現ホンダ)設立と藤沢武夫

鈴鹿工場

第四章
スーパーカブの誕生

本田宗一郎の引退

第五章
技術者として引導を渡された宗一郎

本田宗一郎の逸話・名言

終章
本田宗一郎の最期

本田宗一郎の逸話・名言

おまけ
後を託された歴代社長