町中を一番走っているバイクであろうスクーター。
端的に言うとシート下に収納スペースがあるオートマバイクという感じでしょうか。
【特徴】
・プーリーと呼ばれる円盤とベルトによるオートマチックが基本
・左右のレバーがそのままブレーキになってる自転車に近い形
・車体もホイールも小さく軽いので取り回しも楽ちんで125ccまでなら税金も安い
・反対に長距離は苦手な部類
・メットインと呼ばれる便利な荷物入れがある
という感じ。今さら細かい説明は要らないかと。
【歴史】
スクーターの歴史は非常に古くまた変化に富んでおり、全部書くと長くなるので割愛しつつ書いていきます。
スクーターの始まりは1902年にフランスで造られた『auto-Fauteuil(オトフォトイユ)』と言われています。
4stの433ccエンジンを搭載したモデルで名前の意味は
『走る椅子』
まさにそのままですね。ちなみに排気口を足元に持ってきてフットウォーマー代わりに使うアイディア付きでした。
その後、イギリスやドイツそしてアメリカなど欧米で走る椅子ことスクーターの開発競争が始まったんですが、その中でも現代スクーターの原型と言われているのが1920年にイギリスのユニバスというメーカーが作ったモデル。
エンジンを椅子の下に収納し、小径ホイールを装着することで足付きの問題も改善した走る椅子。まさにスクーターですね。
こうしてスクーターの基本形が出来上がり、欧米のいろんな企業がOEMを含め造るようになり普及していきました。
「じゃあ日本はいつからなの」
っていう話をすると日本のスクーター文化は戦後の1946年からになります。
『隼』や『橘花』といった航空機を造っていた中島飛行機が敗戦によってGHQから平和産業への転身を迫られた事がキッカケ。
社名を富士産業(後にスバルとなる富士重工業の前身)に変え、会社を存続させるため農機具やトラック部品や食器など色々と手を出したうちの一つがスクーターだった。
何故スクーターだったのかというと
・進駐軍が使っていたこと
・儲け(単価)が大きい製品だったこと
などがあるんですが一番は内燃機で走るなど構造が
「航空機に通ずるものがあったから」
ですね。
そんな富士産業が幸運だったのは協力会社の野村工業に野村房男さんという御曹司が居たこと。彼は大のバイクマニアでありコレクターでもあったためアメリカのパウエルというメーカーが造ったスクーターを所有していた。
そこでそれを貸してもらい分解し、スクーターがどういう構造なのかを研究し1946年に完成したのが下のモデル。
『Rabbit S-1』
これが国産初のスクーターであり、日本のスクーター文化の始まりになります。
名前の由来はボディ後部の膨らみがうさぎの後ろ足に似ていたから。見た目もパウエルスクーターとソックリなんですが、決定的に違う所として荷台が付いている事にあります。
これはGHQから許可を貰うため。
というのも当時アメリカではスクーターは日常の足というよりも娯楽の乗り物という存在だったため、最初持っていった時は許可が下りなかったんですね。
そこで荷台を付けて
「これは娯楽の乗り物ではなく物資を運ぶための道具です」
と説得しなんとか許可を得ることに成功したという話。
こうして始めたスクーター事業は順調にモデルも台数も右肩上がりで増えていきました・・・が、戦後のスクーターといえば有名な所がもう一社ありますよね。
そう、三菱重工業のシルバーピジョン。
『零戦』を始め多くの軍事産業を担っていた三菱重工業も富士重工業(中島飛行機)と同じように平和産業への転換を迫られた事でスクーターを開発していました。
ただし三菱重工業が参考にしたのはパウエルではなくまた別の米メーカーのスクーター。
サルスベリー社のモーターグライドを参考にした。そしてラビットから半年遅れで登場したのがこれ。
『Silver Pigeon C-10』
シルバーピジョンの最初のモデル。名前の由来は平和産業であることをアピールするためと言われています。
ただ当時のスクーターは今と違い、大卒の初任給が500円前後だった時代に
『ラビットスクーターS-1:12,000円』
『シルバーピジョンC-10:45,000円』
という価格設定で一般庶民はとてもじゃないけど買えない高級車だった。
しかしそれでも乗用車が禁止されていた事から富裕層や公用として人気というか需要がありました。この需要は乗用車が解禁された1950年代に入っても変わらず、乗用車がおいそれと買える乗り物ではなかったことから今度は所得が上がってきたサラリーマン等がこぞって買うように。
つまり最初期は富裕層に、そしてその後はサラリーマンなど労働者の足として年を追う毎に拡大していったのが日本のスクーター文化の始まり。
こうして改めて振り返ると
「日本のモータリゼーションはスクーターから始まった」
といっても過言ではなく、皆のよく知るホンダやカワサキやヤマハもそんな市場を狙ってスクーターを造り参入した歴史があります。
しかしものの見事に全部失敗に終わりました。
原因は単純に技術力不足で、商品として問題があり大不評だったためスクーター事業からすぐに撤退。どのメーカーも黒歴史と化しています。
今では信じられない話ですが、逆に言うとそれだけラビットとシルバーピジョンが優れていたという話。
ちなみに意外に思うかも知れませんがもう一つの日本を代表するバイクメーカーであるスズキはこの頃まだスクーター事業に参入していません。
そんなスクーターなんですが1960年代の末に終わりを迎えます。
三菱重工業は1964年のC-140とC240をもって生産終了。
最後まで残っていた富士重工業も1968年のS-301をもって生産終了。
スクーターを製造販売するメーカーが居なくなり、文化が完全に途切れる事となりました。
【総生産台数】
シルバーピジョン:約46万台
ラビットスクーター:約63万台
相次ぐスクーター事業からの撤退ですが、この理由は大きく分けて二つあります。
一つは三菱も富士もより規模(儲け)が大きい四輪事業に力を入れた事が一つ。そしてもう一つは1958年にあるモデルが登場したから。
『SuperCub C100』
皆さんご存知スーパーカブです。
一番簡単な免許である原付一種(50cc)に該当しつつも、圧倒的な性能と革新的なデザインで多くの人がカブを買い求めるようになり、時代はスクーターからモペット(ステップペダル付き)が求めるように。つまりもうスクーターを造って売っても旨味がない市場になってしまった。
余談ですがこのスクーターからモペットへの移行は1940年代の欧州で起こっていた事。それを本田宗一郎と藤沢武夫(副社長)が欧州視察の際に知り、そのトレンドを日本に持ってくる形で生まれたのがスーパーカブなんですね。
でも現代の日本ではどちらかというとスーパーカブよりスクーターの方が町中を走っていますよね。
そのキッカケはスーパーカブ誕生から約20年後となる1977年になります。
「パッソルS50」
ヤマハがステップがあるモペットではなくステップスルーの原付、つまりスクーターを11年ぶりに復活させたんです。
何故ここに来てスクーターを出したのかというと、ホンダがこの一年前にあたる1976年に自転車の延長線上にあるようなキック要らずの原付を出してヒットしたから。
『ロードパル』
女性の社会進出が進んできた事をうけて造られたキック要らずの女性向けモペット。ラッタッタの愛称でもお馴染みですね。
これがヒットしたのを見てヤマハが
「女性はスカートを履くから跨るタイプよりステップスルーが良いだろう」
という事でスクーターを再び開発し販売したというわけ。
この狙いが見事に的中。
バイクとは無縁だった層を掘り起こす空前の大ヒットとなり販売台数が伸びた事でホンダを追い越せると更に攻勢に出た事で、1980年頃からヤマハとホンダで仁義なきシェア争いが勃発。
新型スクーターのぶつけ合いや被せ合い、それにダンピング合戦が行われました。
その結果スクーターが市場へ大量に出回る事となり、ちょっと前まで消えていたのが嘘のように当たり前な乗り物として多くの人に認知されるようになった。
こうしてスクーターが復権したんですが、あまりにも増えすぎた事で事故も急増。
この事態を重く見た国は1986年に
『原付(50cc)のヘルメット義務化』
を課すことにしました。※51cc以上は既に義務化
今でこそ当たり前なヘルメットですが当時は利便性が大きく損なわれたと販売台数も急落。しかし同時にこれがスクーターを原付を象徴する乗り物に押し上げるキッカケにもなった。
『メットインスクーター』
の誕生です。
上の写真はそれを一番最初に備えた1985年のヤマハ・ボクスンというモデル。
今でこそスクーターにとって当たり前な機能ですがこれはヘルメットという規制があったからこそ生まれた面があり、移動手段としてバイクを使っていた人達にとってこれほど便利な機能はない。
結果として下駄として使う原付ユーザーの多くがメットインスクーターを選ぶようになりそれが
「原付といえばメットインスクーター」
という常識を生み、現代も続いているという話。
本当にザックリですが、これが現代のスクーターの成り立ちみたいなものです・・・が、スクーター文化はこれだけじゃ終わらない。
1990年代になるとメットインスクーターがコミューターとして確固たる地位を築き上げ生活の一部として根付いたわけですが、同時に日本には世界的なバイクメーカーが多く存在していたため絶えず競争が行われていた。
そうした競争の末、日本で新たな形のスクーターが生まれました。
『ビッグスクーター』
です。
乗り心地やタンデム性それに安定性や加速性など従来のスクーターの弱点を補うまさに大型バイク版スクーター。
最初にこの形を出したのはホンダで、国内最大排気量かつ大容量のメットインを備えた
『1984年:SPACY250FREEWAY』
またはクルーザー要素を取り入れることでスクーターが苦手としていた長距離走行とタンデム性を向上させた
『1986年:FUSION』
がその始まりと言われています。
しかし両者ともコンセプトは良かったものの80年代の250はレーサーレプリカ(スポーツ全盛)時代だったため注目されず。
ではこのビッグスクーターという新しいカタチを認めさせたのは何かといえば1995年にヤマハが出したモデル。
『MAJESTY』
です。ここまで来ると知っている人も多いのではないかと。
大人のセダンバイクというコンセプトで造られたエアロボディのおしゃれなビッグスクーター。
これが人気を呼んだことでビッグスクーターが認知されるようになったんです・・・が、ここで終わらなかった。ビッグスクーターが確立して10年ほど経った2000年代半ばにブームが起きます。
元々ビッグスクーターというのはどちらかというとオジサマ向けの乗り物だったんですが、いわゆるVIP感がある事から若者のハートにささった。
加えて250なので負担も軽くオートマでメットインという便利な装備も付いている。つまり何故ビッグスクーターブームが起きたのかといえばカスタムが栄えた事から見ても
「使い勝手が良いアメリカンみたいなバイク」
という認知のされ方をしたから。ある意味ではクルーザーを食った形なんですね。2010年代に入るとそのブームも収まって大人のセダンバイクという本来の立ち位置に戻りましたが。
最後に少し余談をすると、実はこのビッグスクーター文化はスクーター発祥の地である欧州にも影響を与えているんです。
向こうでも排気量が大きいスクーターはあったものの大容量のメットインとエアロデザインのクルーザーチックなビッグスクーターは存在していなかったため意外とウケた。
今では欧州向けビッグスクーターなども出しているように
『Maxi Scooter』
として認知され欧州メーカーまでもが参入。しのぎを削るジャンルにまで成長という文化の逆輸入を起こすまでに至ったという話。
ちなみに一番最初にビッグスクーターを本場欧州に持ち込み、広く認知させるキッカケとなったモデルが何かというと1998年に出たこれ。
『BURGMAN400(和名スカイウェイブ400)』
意外にもスズキなんですね。
参考文献
・日本のスクーター(小関和夫|三樹書房)
・二輪車1908-1960(小関和夫|三樹書房)
該当車種
などなど