時代はグッと進んで1986年。
この年に登場したのがエボリューションエンジン(通称ブロックヘッドエンジン)を積んだ第3世代スポーツスター。
1000cc一本だった状態から伝統の883ccモデル(XLH883)とボアを拡大した1100cc(XLH1100)の二本立て展開が始まったのもここから。
ブロックヘッドの由来はエンジン主要部品が積み木(ブロック)の様に積まれているような形だから。でも日本ではブロックヘッドと呼ばずに単純にスポーツスターと呼ぶ人が多いですね。
というのも何を隠そうこのエンジン今のスポーツスターにも使われているやつだから。
油圧式タペット調整機構を備えたアルミブロックの完全新設計で信頼性も大幅に向上した傑作との呼び声高いエンジンです。
ちなみにこのエボリューションエンジンについて
「これはホンダと造ったエンジン」
とか
「ホンダがハーレーに技術提供した」
とか聞いたことある人も多いかと・・・これはハーレーが経営危機を迎えたことが背景にあります。
時代を少し遡ることになるのですが、先に話した通りハーレーは1950年代から英国勢と北米市場をかけてバチバチ火花を飛ばしてそれなりに善戦していました。
しかし1960年代になると今度はもっと恐ろしい日本勢が登場し、小排気量を中心に猛烈な勢いでアメリカ市場を食っていったんです。
その事に危機感を覚えたハーレーは1960年にアエルマッキというイタリアの小排気量バイクメーカーを買収し反撃に出るも上手く行かず経営は更に悪化。
これはその一つである『X-90』と呼ばれるモデル。
SportsterならぬShortsterという愛称を持っています。
小排気量の販売が何故失敗したのかというと
「ハーレー=ビッグバイク」
というブランドイメージを損なうとしてディーラーから猛反対して売らなかったから。結局アエルマッキは数年でカジバに売却されました。
そんなこんなで持ち直す事が出来ず弱っていったハーレーを当時盛んだった企業買収による乗っ取りから守るために1969年にアメリカの大手機械メーカーであるAMF(American Machine & foundry)が保護買収。
ここから約10年は
『AMF Harley-Davidson』
としてやっていく事になったわけです・・・がハーレーファミリーの間ではこのAMF時代を
「思い出したくもない暗黒時代」
とか言われています。
何故そう言われるのかというとAMFはハーレーの経営を立て直すためにリストラを始めとした事業の大幅なスリム化を行ったわけです。
すると優秀な人がどんどんハーレーから居なくなり品質ガタ落ちで故障が耐えなくなった。
というか組み立てすらまともに出来てないまま納車されるレベルで
「乗ってる時間より修理してる時間の方が長い」
とか
「車体価格以上の修理費が掛かる」
とか言われるほど本当に酷いものに。
『ハーレー=壊れる』
というイメージが強くあるのはこのAMF時代の影響が大きいんです。
そんなもんだからブランドは更に失墜。
その一方で小排気量のみだった日本メーカーがCBやZなどで遂に大型バイクでも快進撃を開始。
何度も言いますがハーレーは元々ハイスペックメーカーだったのでそんな中でもXLX-61のエンジンにXR750(ファクトリーマシン)のヘッドを装備したXR1000というホモロゲを出したりして対抗しました。
そのおかげでBOTT(二気筒レース)やダートトラックでは戦績を上げたものの、一方で四気筒が相手となるデイトナなどでは分が悪く差は歴然だった。
そんな失態の連続もあって1973年には80%以上を誇っていた850ccオーバークラスのシェアも、1983年にはわずか23%とあまりにも無残な状況に。
さすがにこのままではマズいと創業者の孫を筆頭とした資本家グループが1981年にAMFから買い戻し。
ハーレー再建に打って出ました。
「何より急務は品質改善」
という事で、その際に頼ったのがホンダとされています。
V型エンジンのノウハウとサプライヤーとの関係、組立方式の指南などを指導してもらうことに。
そして登場したのがこのエボリューションエンジンで、シリンダーとヘッドの共締めやビッグツインと部品の共有化など日本車に近い作りになっていたことから
「これはホンダとの合作」
とか言われてるわけです。
ちなみに何処までホンダが噛んだのかは門外不出なのか資料が一切見当たらないので分かりません。
そんなエボリューションエンジンによる品質改善と同時に、幸運なのか根回しなのか当時の大統領だったレーガンが
「700cc以上の輸入バイクの関税を6年間4.4%から49.4%に引き上げる」
というハーレー保護法と呼ばれる関税障壁を1983年から実施した事で業績は大きく改善。
これによりハーレーは復活を遂げたんですが・・・それだけでは終わらなかった。
80年代後半になると上記の理由から人気だった883によるワンメイクレースをAMA(アメリカのレース協会)が正式に開催。
これにより北米で883人気が爆発。
『パパサン』
という言葉と車種が日本国内で広く知れ渡る事になったのは発端はこれ。
その波に乗るように89年にハーレージャパン(日本法人)が設立されハーレーが身近なものとなった事でスポーツスターが更に飛ぶように売れました。一時期883ccにちなんで88万3000円で売られていた事を覚えている人も多いかと。
この三段跳びの様な快進撃によりハーレーは業績改善どころか急成長となり、遂にはスポーツスターのために新たな工場まで建設。
北米650cc以上シェアも1999年には49.5%まで回復し、2000年には過去最高となる年間生産台数20万台を突破とイケイケ状態に。
今のハーレーがあるのはこのエボリューションスポーツスターがあったからと言っても過言じゃないというわけです。
ちなみに2003年までのこのスポーツスターはリジットフレームな事から『リジスポ』と言われています。