HRC/トリコロールの由来と一人の日本人レーサー

2019年式CBR1000RRW

『赤・青・白』

HRCまたはトリコロールとしてお馴染みホンダの十八番カラー。

ちなみにHRCは

「HONDA RACING CORPORATION」

の略で、要するにホンダの中でもレースで勝つことに血眼になってる部門(会社)の事。

ホンダレーシング

レースをあまり見ない人でもトリコロールを見れば

『トリコ=HRC=本気ホンダ』

というイメージを持たれるのではないかと。

そんなトリコロールなんですが、では

RC213V-Sトリコロール

「いつ、どこで、なぜトリコロールになったのか」

というと実はこれホンダですらハッキリとは把握していない。

「HRCが設立された1982年からでは」

と思いますがトリコロールはそれ以前から使われています。

ただレースから来ているのは間違いなく

「こうかも知れない」

という個人的に調べ上げて導き出した(正解が分からないので推測の域を出ませんが)由来を紹介します。

ホンダが最初に正式参戦したレースは1949年に多摩川スピードウェイで行われた

『日米親善対抗オートレース』

と言われており、A型の出力を三倍の3馬力まで引き上げた2スト96ccエンジンを搭載したC型で参戦。見事にクラス優勝しました。

ホンダC型

当たり前ですがまだトリコロールじゃないですね。

そこからホンダは1954年のサンパウロオートレースで国際レースデビューし、1959年からはマン島TT(世界GP)へも参戦。1967年には50~500ccまで全クラス制覇という前人未到の偉業を達成しました。

ちなみにその時のワークスカラーがこれ。

ホンダRC166

赤ベースでまだトリコロールじゃないですね。どちらかというとイタリアのトリコローレ。

世界GPを制覇したホンダは目標を達成したとして世界GPから完全撤退し、レースで培った技術を取り入れた量販車に力を入れるようになります。2年後の1969年に出たCB750FOURが有名ですね。

走る実験室メーカーなので世界GPから一度撤退している事を知らない人も多いかと思いますが、再び世界レースに戻ってきたのはそれから12年後となる1979年。

楕円ピストンという非常識極まりないエンジンでお馴染みNR/RC40、そしてホンダV4の始祖であるレーサーNR500/0X型で復帰しました。

1979NR500

何処からどう見てもトリコロールですね。

ということでトリコロールになった最初のモデルはHRCが設立される3年前の1979年NRレーサーから。

1981NR500

「V4とトリコロールの系譜は繋がっていた。」

というロマンティックなオチ・・・にしたいのは山々なんですが残念ながら違います。

トリコロールは世界GP制覇からNRによる復帰の間、空白の12年の間に生まれたものなんです。

トリコロールが生まれた年

ワークス撤退中にワークスカラーが生まれたなんて普通に考えたら意味不明ですよね。そこら辺を長々と。

ホンダは世界GPから撤退した後もレースと完全に無縁になったわけではなくレース好きな社員達が

ホンダRSC

『RSC:Racing Service Center』

※最初期はCENTERではなくCLUB

という鈴鹿のレース/チューニングサポート部門と手を取り合いながらナショナルレースには参戦していました。

その中でも代表的なのがアメリカ最大の市販車レースである『デイトナ200マイル』です。

デイトナ200

「ファクトリーレーサーの世界GPは無理だけど、市販車レースならCB750FOURがある」

という事から参戦していたんだろうと思われます。良い宣伝になりますしね。

そして見事に1970年にデビュー・トゥ・ウィンを飾りました。

CB750レーサー

これがその時の車両。

赤/白ときて、青ではなく黒・・・惜しい。

ホンダというかホンダ社内のレース狂たちはこれ以降も世界GPに挑めない鬱憤を晴らすかのようにデイトナ200に翌年も、その翌年も参戦しました。

そんなデイトナ200参戦3年目となる1973年のCB750がこれ。

CB750レーサー

完全にトリコロール・・・始まりはここ1973年になります。

しかしそれだけで終わりでは不完全燃焼かと。

「なぜトリコロールになったのか」

というのが気になりますよね・・・でも肝心のこれが不明なんです。

公式が述べている説の一つとして

星条旗カラー

「アメリカ(星条旗)から取ったのかも」

という説があります。

これは当時アメリカでウェアを星条旗カラーにするのが流行っていたから。その流れで車体もトリコロールになったんじゃないかという話。

1973年ホンダAMAモトクロス

確かにアメリカのデイトナ200がトリコロールの始まりである事を考えると腑に落ちる話ではあるんですが・・・恐らく星条旗説は違う。

というのもトリコロールが生まれた1973年にホンダの中で一つ大きな変化がありました。先に話したレースサポート部門だったRSCが正式に会社として設立されたんです。

RSCデカール

この会社がHRCの前身になります。ロゴが既にHRCのそれですね。

世界GPから撤退してたのに何故ここに来て設立されたのかというと、社内でレースの機運が高まっていた事と同時にあるレーサーの活躍があったから。

先に言ったように初のトリコロールが1973年デイトナ200のCB750Rであることは間違いないんですが、注目して欲しいのはCB750Rではなくそれに乗った選手。

1972年の隅谷

1973年のCB750Rに乗ったのは隅谷守男(すみや もりお)という日本人レーサーなんです。

『ブルーヘルメット』

と呼ばれるホンダ技術研究所(開発部門)の社員のみで構成された当時社内で唯一レース活動をしていたチームに所属していた方で、デイトナ200に出る前年の1972年に鈴鹿で行われてた全日本GPにて優勝しています。

マイク・ヘイルウッド

しかもただ優勝しただけではなく誰も破れなかったヘイルウッド(ホンダを世界GP制覇に導いた天才レーサー)のタイムを破りレコードホルダーになるほどの速さだった。だからこそデイトナ200に抜擢されたんですね。

そして星条旗説が違うといえる根拠もここにあります。

全日本GP優勝の年、つまりデイトナ200でトリコロールになる前年である1972年の隅谷さんの写真がこれ。※CS90・CB90レーサーブログ様より

レーサー隅谷

マシンがGPレーサーのままな一方で、ツナギは明らかにトリコロール。

つまりデイトナ200のCB750Rがトリコロールになったのは星条旗が始まりじゃない。

隅谷守男さんとCB750レーサー

「隅谷さんのツナギに合わせるために赤ボディに青と白を加えたのが始まり」

というのが最も腑に落ちる。

隅谷さんが何故トリコロールだったのかは正確にはわかりませんが、当時ちょうど黒一色からカラフルなツナギが流行りだした時代だった事と

赤:ホンダの色

青:チームカラー

白:日の丸ヘルメットから

といった所かと。

補足として現在(HRC)では

赤:勝利への熱い情熱

青:理論に基づく高い技術

白:スポーツを愛する全てのお客様へ

という意味があります。

ブルーヘルメット2018

更に補足すると隅谷さんが所属していたブルーヘルメットは現在も存続しています。実はHRCより歴史が長いんですね。

まあとにかくトリコロールの由来について纏めると

Q.いつ?

A.1973年CB750R

Q.どこで?

A.米デイトナ200マイル

Q.なぜ?

A.隅谷さんのツナギから

という事になる。

RSC隅谷

しかしこれだけでは納得しない人も居るでしょう。

「アメリカのワンレースだけでそんなに定着するかな」

という話。

それはごもっともで恐らくこれで定着したわけじゃない。

理由は隅谷さんを持ってしても勢いを増してきた2st勢に歯が立たず6位と優勝を逃してしまったからです。それでも日本人初のデイトナ200入賞者なんですけどね。

ではトリコロールが世界に広まったキッカケが何処にあるかというとトリコロール登場から3年後、そして世界GP復帰の3年前でもある1976年にあります。

この年ホンダは

『耐久ヨーロッパ選手権へのワークス参戦』

を決めました。

耐久ヨーロッパ選手権

現在の世界耐久選手権なんですが、参戦理由は欧州で世界GPを上回るほどの爆発的な人気となり、また市販車ベースということから売上にも直結していたから。

そのためにホンダは1975年末に

『HERT:Honda Endurance Racing Team』

という必勝ワークスチームを結成。

HERTのメンバー

後にRSC社長となる秋鹿監督を筆頭に、CBR1100XXを生むことになる山中さん、BIG-1を生むことになる原さんなどなど凄いメンバー。

そんな方々が開発したのがCB750FOURをベースにDOHC化など施した耐久レーサーRCB1000。

RCB1000

ご覧の通り初陣となる1976年/480A型の時点で完全なトリコロール。

総力をかけて挑んだ事もあり8戦7勝という圧倒的な速さを誇り、二年目の1977年にはなんと8戦全勝を達成。

1977RCB1000

まさに1967年の世界GP完全制覇の再来と呼べるもので、不沈艦隊の異名を取ると同時に世界中にホンダのトリコロール旋風が巻き起こりました。

この勝利の勢いがあったからこそ1979年の世界GPへ復帰する事が出来たとも言われています。

そしてこの時のレーサーこそトリコロールから分かる通り隅谷さん・・・ではない。

RCB1000のライダー

海外選手だけ。

「じゃあなんでトリコロールなんだ」

って話ですが、これは隅谷さんも無関係ではなかったから。正確に言うと隅谷さんという”存在が”と言ったほうがいいでしょうか。

すみやもりお

隅谷さんはホンダのトップレーサーだったんですが

・2stしか勝てない時代になった

・ホンダが2stレーサーを作らなかった

という事から活躍出来る機会が激減しました・・・そんな中で見つけた活路が

『4stじゃないと勝てない耐久レース』

だった。

もともと鈴鹿10時間耐久レースで何度も優勝していた実績もあった隅谷さんはRSCと共にワークス参戦の一年前となる1975年時点で、一番人気で耐久選手権の実質オオトリだったボルドール24時間耐久レースへの参戦を決意。

・・・しかし隅谷さんがボルドール24時間を走ることはありませんでした。

サルテ・サーキット

不幸なことにルマン/サルテ・サーキットでの練習走行中に事故で帰らぬ人となってしまったんです。

ちなみにこれが隅谷さんのRSC製つまり非ワークスの耐久レーサーCB500改(750cc)。

隅谷さんのCB500改

綺麗なトリコロールですよね。

そしてもう一度見て欲しいのが隅谷さんが亡くなった年の末に結成されたHERTつまりワークスの耐久レーサーRCB1000。

1976RCB1000

カラーリングが酷似しているのが分かるかと思います。

つまりこのRCB1000のトリコロールというのは隅谷さんのトリコロールなんです。

これはワークスのHERTが11月という年末結成なうえに何もない状態からワークスマシンを造らないといけなかった状況で大きく助けとなったのが一年前から備えていた隅谷さんとRSC製CB500改のノウハウだったから。

でも個人的にはそれだけではないと思います。

RCB1000がトリコロールになったのは隅谷さんに対するリスペクト、そして共に戦うという意味も間違いなくあった。

何故ならRCB1000を造ったHERTのメンバーそして何より秋鹿監督はワークスの代わりにレースを戦い続けたRSCに所属していた人、つまり

『隅谷さんと共に戦ってきた人』

だからです。

秋鹿監督はRSCの社長となった後、つまり隅谷さんが亡くなった後も

「耐久の結果はいつも隅谷に報告しているよ」

と仰っています。※The Origin(野澤隆彦)

それほどまでに隅谷さんの、そして隅谷さんとの耐久レースへの思いを忘れていない。だからこそRCB1000もトリコロールを施したんでしょう。

RSCトリコロール

そしてその思いはやがてコーポレートカラーまでをも変え、今もHRCとして受け継がれている。

トリコロールの系譜

これが調べ上げたうえで至ったトリコロールの由来。

ホンダのトリコロールはワークスカラーだけどワークスカラーじゃない。

隅谷守男

ワークス撤退後もレースの火を絶やさず戦い続け、またワークス復活にも大きく貢献した一人の日本人レーサーがもたらした色。

というお話でした。

こちらもどうぞ

『HRC/トリコロールに起きた変化』

電子制御のFI 正確過ぎるが故にアイドリングが苦手

インジェクター

今となっては原付ですらフューエルインジェクション(以下FI)が当たり前の時代。

それは年々厳しくなる排気ガス規制に対応するためで、常に最適な燃料で最適な燃焼をすることがメリット。

そんなFIですが、実はキャブに比べてアイドリングが大の苦手なんです。

なるべく噛み砕いて説明しますが下手なので文章が多くなります・・・

フューエルインジェクションが何か分からない人の為に説明

フューエルインジェクション

FIというのは「フューエルインジェクション(電子制御燃料噴射装置)」というガソリンを霧状にしてエンジンに送る装置で上の写真の緑の輪っかが付いてる棒状の物がそう。
一昔前まではキャブレターというものが使われていました。

噴射口

さて、何故FIがアイドリングが苦手なのかいうと結論から言うとブローバイガスが原因なんです。

整備に詳しい人や現在もそれと格闘してる人は知ってると思います。

ブローバイガスというのは簡単に言うと「未燃焼ガス」の事で、(車もそうですが)エンジンというのはピストンが上下してガソリンを燃やしてその爆発力で走りますよね。

しかしその爆発も完璧ではなく爆発力し損なった未燃焼のガスが発生します。

そのガスが何処に向かうかというとピストンの上下運動でヘッドや下にあるクランクケースへ押し流される訳です。

でもそのままだとガスで加圧されエンジンが壊れちゃうのでガス抜きの穴を作ってソコから逃しています。

ただし、その逃したガスはガソリンやオイルや煤などが混じったとても有害な物で1973年に大気放出を禁止する規制が行われる事となります。

事の発端は1970年に運動場で体育をしていた学生の多数が目に対する刺激・のどの痛みなどを訴えた事。 厳密に言うと排気ガスが紫外線を受けることで有害な物質(光化学スモッグ)に変化。

特にホンダはこの事件を知った時に「これは恥ずべき事だ」と思い、子供たちの未来を守るためにもと研究を進めCVCCエンジンという70年代を代表するエンジンを作ったわけですね。

光化学スモッグの日

それ以来7月18日は「光化学スモッグの日」と定められました。こんな所でまで・・・

さてまたまた話が逸れましたが、「じゃあブローバイガスは今どうしてるの?」というともう一度燃やすために吸気側に戻しています。

流れを簡単に書いてみました。本当はもっと複雑です。
(イラストに対する批判はご遠慮ください)

排気の流れ

未燃焼なんだからもう一度燃やしてしまえという簡単な話ですが実はこれが問題なんです。

クランクケースから専用の通路を通って戻ってきたガスはそのままエアクリーナー手前のスロットルまで戻ってきます。先にも言いましたが、完全なガスではなくオイル等の不純物が混ざったものです。

それが戻ってくるということは吸気の通路やアクセルに連動して開閉するスロットルバルブやその隙間を汚してしまう事になります。

そうするとどうなるかと言うと、空気の流入量が変わってしまうんですね。

キャブの場合

エンジン君「ガソリンと空気吸うよ」

キャブ君「この穴から好きなだけ吸って良いよ」
となる。

キャブ車の流れ

キャブは燃料の量が結構ファジーで負圧だった為にそれほど顕著に現れる事はなかった。(写真は2stですがまあ4stも似たような感じかと)

それに対しFIの場合

エンジン君「ガソリンと空気ちょうだい」

スロットル君「(アクセル開度に応じて)このくらい開けるからこの隙間から吸ってね」

F I 君「(アクセル開度に応じて)じゃあ燃料はこの位だな」

となる。

フューエルインジェクションシステム

しかしブローバイガスによりスロットルバルブの隙間に狂いが生じると

エンジン君「ガソリンと空気ちょうだい」

スロットル君「この隙間から吸っていいよ」

ブローバイガス君「なんか風が当たる」

F I 君「(アクセル開度に応じて)じゃあ燃料はこの位だな」

エンジン君「ちょっと空気足りないよ!燃料濃いよ!息苦しいよ!」

F I 君「いや俺ちゃんと噴射してるし!」

ということになる・・・分かりにくいですね、すいません。

正確過ぎるが故に起こる問題ですが、この問題が起こるのはアイドリング。
スロットルバルブはアイドリング中も完全に閉まっているわけではなく(完全に閉まったらエンジン止まる)アイドリングするための空気分だけホンの少し開いています。
しかしその隙間や通路に粘着し塞いでしまう為に空気が入りにくくなり、エンジンが息苦しくてアイドリングが安定しないんですね。

FI車でアイドリングが安定しないのは十中八九これが原因。専門用語で「ハンチング」と言います。(稀にアクセルワイヤーの伸びが原因だったりしますけど)

よくGSRやHAYABUSAで出る話ですが、大体2000年代に出たFI車はメーカー問わずほぼ全て当てはまります。

ただし、この問題はアイドリングが安定しないだけで、スロットルバルブがしっかり開く走行ではほぼ支障がないのでエンジンが掛からなくなる程でも無い限り放っておいても大丈夫です。

というか根本的に解決は無理です。

スロットルバルブ洗浄

インジェクションクリーナーによる洗浄である程度は改善するのでやってる人も多いですが、非常に厄介なのが肝心の裏側が洗えないということ。

上から洗っても裏側の汚れは落とせない。本当に綺麗に洗うなら外さないと行けないという面倒臭さ。

スロットルバルブ表面

しかも昨今のバイクはデュアルスロットルバルブといってスロットルバルブが二枚組だったりするので尚のこと難しい。

※表面にはコーティングやパッキンがあるのでくれぐれもゴシゴシ洗わないように

「FI車ダメじゃん」

と思うところですが、もちろんメーカーもそのまま未解決で終わらせるワケはなく、2010年前後からのFI車はこの問題を解決しています。

だから今どきのバイクに乗ってる人や購入を検討している人は安心してください。

どうやって解決したのか?

それはISC(アイドリング・スピード・コントロール)の搭載。

仕組みはこう

ISCの仕組み

スロットルバルブとFIがアクセル開度に応じた動作をしエンジンが燃焼、排気ガスをクリーンにする触媒の前にO2センサーがあって数値を計測。
そこでブローバイガスにより酸素が正常燃焼時より少ないとECUが判断すると自動でISCが数値に応じて開き空気の流入量を調整するという仕組み。(アイドリング中のみ)

でもこれでも根本的な解決になってませんよね。

そう、最近のバイクでもアイドリングが下がらないだけでブローバイガスは溜まる一方。今だ未解決な問題なんです。

ちなみにこのブローバイガス、オイルを定期的に交換をしないといけない大きな理由の一つでもあるんですよ。オイルは酸化と熱が最大の敵なんですが、ブローバイガスというのは物凄い酸性なんです。

これでもブローバイガスの処理技術が向上したからオイル交換サイクルが5000kmや10000kmに伸びたんですけどね。

スロットル

あと、この記事を読んでスロットルバルブを洗おうと思って知らない人が居ると困るので書きますが

最近のバイクのスロットルバルブはブローバイガスや煤を付着しくくするコーティングや気密性を高める特殊なシールが付いてたりします。

だから洗う時はあまりゴシゴシ洗わないように気をつけましょう。

※最後にちょっと注意

本音を言うとコレが書きたかった。

2010年前後からブローバイガスが流れるホースに「ワンウェイバルブ」つまり逆流させないようにするバルブを噛ませる商品が各社から出てます。
車用のPCVバルブを流用するのも流行っていますね。

ワンウェイバルブ

色々と付けない理由が見当たらない謳い文句が言われますが、個人的には付けないほうがいいと思います。

その理由の一つとして、しつこいですがブローバイガスというのはオイルやガソリンが混じった粘着性のあるもの(エマルジョン)でマヨネーズの様な乳化をします。
そんなものが逆流防止バルブ(減圧バルブ)といった細い通路を塞ぐなんて非常に容易い事。特に昔のブローバイガスを多く吹く様なバイクなら尚の事。

本来ならブローバイガスを逃がす為のホースが詰まってブローバイガスを閉じ込める事になってしまったらエンジンの気圧が上がりオイルトラブルやシール抜けを起こし最悪廃車コースです。

走行毎に整備するクローズド車両や競技車両なら話は別ですが、普段使いする場合はメリットよりデメリットが大きいので愛車を大事にしたいなら辞めておきましょう。

※追記

最近痛ましいことにあろうことかコレを反対に付けてしまった人がいて、オイルをコースに撒いてしまい後続車の方が亡くなる事故がありました。

付ける時はちゃんと本当に気をつけて付けましょう。

バイクの三ない運動の歴史と今後

3ない運動

バイクの三ない運動

「免許を取らせない」「買わせない」「運転させない」

これは規制というよりは自主規制・自主運動なのですが載せたかったので書かせてもらいます。

かなり主観が入っていますご了承ください。

本当はこの記事はこんなサイトを読んでくれる根っからのバイク乗りより、子を持つ保護者や学校関係者に読んで欲しいのですが・・・まあ目に付けば幸いかな。

ただバイク乗りの人も、そうでない人も今回コレだけは覚えておいてください。

「3ない運動は間違い」

です。

まず最初に三ない運動が生まれた原因ですが、それは1980年前後のバイクブームによる事故や暴走族増加の助長でした。

これによりバイクが社会から否定される存在となり、1982年の全国高等学校PTA連合会にて全国で三ない運動を推進することが決まりました。

ちなみに”3ない運動”は日本だけと思われている方が多いかと思いますが、実は日本より先にドイツで1970年代後半に同じような3ない運動が起こっています。

ドイツの場合、当時アウトバーンをバイクで走って出勤というのがデキる男のステータスとなっていたんですが、スピードの出しすぎによる死亡事故が多発したことが発端でした。

K100ABS

数年後にBMWが世界で初めてABSを装着したオートバイを発売し、以降もABS装着に精力的だったのはこういった背景があったからなんですね。

ドイツの話はどうでもいいですね、話が反れましたスイマセン。

恐らく皆さん

「3ない運動なんて過去の話」

と思っていることでしょう。

3ない運動は1991年の東京地裁で

「3ない運動は違憲」

という判例が出され、PTA主体の3ない運動は崩壊しました。

じゃあ無くなったのか?と言えば全くと言っていいほど無くなっていません。

例えば今、高校で原動機付き自転車(以下 原付)の免許を取得することが許されるかと言えば校則で禁止している所が圧倒的に多いでしょう。

3ない運動

なぜかといえば

「バイクは危ないから」

ですね。

そう考える高校やPTAはバイクを全面的に禁止にし

「うちは高校生のバイク事故がゼロ!」

という事実を誇りのように思っていることでしょう。

そんなの当たり前な話ですけどね。だってバイクに乗ってないんだから事故を起こしようがない。

これが3ない運動の間違いです

もちろん公共交通機関で通える学生は公共交通機関で通うのが普通というか当然でしょう。

しかし一方で田舎に住む子ども等の交通弱者は学校側が全面的に禁じているために親が毎日送迎したり、交通の便が良い高い私立に入れなくてはいけないといった3ない運動によって生まれた問題に直面している人たちもいます。

学校の都合で交通弱者である子供の進路が狭まるなんて悲しい話です。

田舎の高校生

更に問題なのはPTAや高校が”高校生はバイクに乗るな”というのは言い換えれば

「危ないから三年間はバイクに乗るな!」

と言ってるようなもの。

それはつまり監督責任がなくなる卒業後に危ない目に遭えと言ってるようなものです。

こんな無責任な教育は無いです。国は認めてるのに。

かの本田宗一郎も生前、3ない運動についてこう言っていました。

「教育の名の下に高校生からバイクを取り上げるのではなく、バイクに乗る際のルールや危険性を十分に教えるのが学校教育ではないのか」

と。正論過ぎて何も言えません。

バイクは確かに危険性を持った乗り物です。しかしだからこそしっかり教育をするべき。

自転車や車でもそうですが、一番危ないのは自覚のない危険な運転です。

なぜあご紐はしっかり締めないといけないのか?

なぜ左足を付かないといけないのか?

なぜクルマの斜め後ろを走っては行けないのか?

そういった教育もせずに右も左もまだ分からない若者が事故を起こし、それを見て

「ほら見ろやっぱりバイクは危ないじゃないか!」

なんて言うのは無責任極まりない話です。

実際にバイク通学を認めている学校ではバイク通学を認める代わりに、学校と二輪車普及安全協会や警察が協力をしミッチリ授業の一環として交通ルールについて高校生に叩き込むといった素晴らしい教育をしている所もあります。

高校生安全教習

これが高校生への正しいバイク教育ではないかと思うわけです。交通ルールも勉強です。

もちろん通学のみの使用で学校名が書かれたヘルメットやシールを貼ることが前提。

3ない運動が無くなってからこういった原付通学OKの高校は増えてきましたが、それでも原付の死傷者数は年を追うごとに減っており、2014年は1万台あたり0.4人にまで減りました。10年前の半分以下です。ちなみに自動車は1万台あたり0.5人とバイクより多いです。

つまり我々大人が正しい考えや取り組みをし、それが全国に広がることでバイク人口も自ずと増えて業界が活性化し・・・

ってのは冗談で、われわれ大人が子どもにしてあげられる最善の手は

親子でバイク

子どもからバイクを取り上げる事ではなく、バイクとの上手な付き合い方を教える事ではないでしょうか?

ロータリーといえばスズキのRE-5…実はホンダもヤマハもカワサキも作ってた

ホンダA型

ロータリーエンジンのバイクといえばスズキのRE-5が有名だと思います。スズキのネタ話になるとB-KINGに次いで出てくるほど有名になりましたね。喜ばしい事かは分かりませんが。

ではホンダやヤマハやカワサキもロータリーのバイクを作っていたという事は皆さんご存知でしょうか。いや正確に言うと作って売ろうとしていたと言ったほうがいいのかな。

その前にちょっとロータリーの歴史について少しだけおさらいです。

ロータリーエンジンの生みの親はフェリクス・ヴァンケルというお方。

フェリクス・ヴァンケル

「レシプロエンジンのようにわざわざ往復運動と回転運動を複合するのではなく、回転運動だけにしたほうが効率は良いはず。」

というまあ至極当然な考えを徹底的に研究しNSUと共同で開発したのが今でもお馴染みのペリコロイド曲線とおむすび形状のロータリーエンジンです。だから名前を取ってヴァンケルエンジンとも言われてたりします。

ヴァンケル

当時は夢のエンジンだと言われました。レシプロに換わる新しい内燃機関だと。

そしてそんなNSUと高額なライセンス料を払って契約をした日本企業達は東洋工業(現マツダ)とスズキ。そしてトヨタ、日産、ヤンマー・・・更にヤマハ発動機と川崎重工業。

そう、ヤマハもカワサキもロータリーのライセンス契約を結んでいたんです。

では世界で初めてロータリーエンジンを積んだバイクは何かというと1973年にドイツメーカーのハーキュレスから出たW2000というバイク。

HERCULES W2000
-Since 1972-

W2000

同じドイツメーカーであるSACHS(ザックス)社製のシングルローターを積んだバイクです。スズキのRE-5が出たのは二年後の1974年。僅か二年の差でした・・・惜しい。

ただこのW2000はごく少量の生産でお世辞にも実用に耐えうるエンジンではなく明らかに

”世界初のREバイク”

という話題性を取りに行ったものでした。

引っ張ってないでタイトルのホンダやヤマハやカワサキのREバイクを早く出せよと言われそうなのでいい加減紹介します。

ヤマハのREバイクはW2000が出た1972年と同年に東京モーターショーにて発表されました。

RZ201 CONCEPT -Since 1972-

ヤマハRZ201

同じくライセンス契約をしたヤンマーと共同開発した水冷2ローターの660ccで、ガソリンとオイルを混合する2stのようなシステムを採用している。

お次はカワサキ

X99 PROTOTYPE -Since 1974-

X99

開発自体は1973年頃からスタートしていた様ですが1994年に開発ストップが掛かりそのままお蔵入りとなった模様です。

水冷2ローターで896cc。見た目は正にロータリーZ。

んで最後はホンダ

A16/24 -Since 1975-

ヤマハRZ201

CB125の車体にロータリーエンジンを積んでいる試作機。

他所のマネはしない精神でNSUとはライセンス契約を結ばず独自で作り上げたロータリーエンジン。お蔵入りとなったのはやはり難しかったからでしょうね。

ちなみに開発されていたのはCBX400FのPLだった渡辺さんです。

【どうしてスズキ以外市販化しなかったのか】

ホンダはまだしもヤマハやカワサキはほぼ完成の域にまで達しており出してもおかしくない状態。

では何故出さなかったのかいうと、答えは1960年代にNSU自身から出されていた世界初のロータリー車(正確に言うと二車種目のRo80)にあります。

ロータリー切手

偉大だとして切手にまでなったんですが、これがエンジントラブルが多くクレームの嵐となってしまい、1970年代には既に”夢のエンジン”というイメージは崩れ落ちていたんです。

この結果NSUは経営が傾きVW傘下となり更にはアウトウニオン(後のアウディ)に吸収される事となりました。

何が問題だったのかというと、マツダのRXシリーズをご存知な方ならピンと来ると思いますがシールにあります。

ロータリーエンジンはおむすびの先端にアペックスシールというレシプロでいう所のピストンリングの役目を持つシールがあります。

アペックスシール

赤い印を付けている部分に取り付けられています。

問題はこれがレシプロの様に一定ではなく多方からしかも変動する負荷が掛かってしまうことで振動や破損を起こしてしまうんです。そうなると綺麗に圧縮ができなくなり、損傷によりエンジン中を削ってエンジンブローを起こしてしまうという欠陥が。

ロータリーの歴史はアペックスシールとの戦いが全てと言っても過言ではないです。

チャターマーク

これはアペックスシールの異常共振によって起こるチャターマーク、通称「悪魔の爪痕」と呼ばれる異常摩耗です。

ガリガリとハウジングを削ってしまう恐ろしい問題でロータリーがレシプロの様に普及しなかった原因はここにあります。

話が反れている気がしますが構わず進めると、現在マツダが50年かけて研究した結果ザックリ言うと

・シールに周波数を整えるための穴を開ける

・材質をアルミニウムを染み込ませた高強度カーボンシールにする

という事で何とか耐久性の問題をクリアしています・・・が、それでも今のところロータリー最終となるRX-8(13B)ですら10万キロがやっとなレベルです。

更に言うなればレシプロに対し環境にナーバスな点があることが否定できません。

(チョイノリNG、暖機必須など)

ただこれは2000年代になってやっと解決した問題なので話を1970年代に戻すとホンダもヤマハもカワサキもNSUの失敗を見て、市販できないと判断しお蔵入りとなったわけですね。

スズキRE5カタログ

それに対してスズキだけは諦めずに作り上げて市販化しちゃったっていう。

RE-5
(RE5)
Since 1974

スズキRE-5

だからまあネタにされるのも仕方ないんですけど、スズキの場合は自社で設計開発から生産販売まで一貫してやったわけであり、数える程度しか作らなかった他社と違って本当の意味で市販(大量量産)したのは後にも先にもこのRE-5だけだから凄いんですけどね。

RE-5ロータリーエンジン

ライセンス契約してNSUから届いたロータリーエンジンは10分も保たなかったレベルだったそうで・・・そこから市販できるレベルのエンジンを開発したんだから凄いの一言。

ところで

“ロータリーエンジンを積んでいるバイク”

ということだけが先行して話題になるRE-5ですが、このバイクにまつわる話はそれだけじゃありません。

デロリアン

例えばRE-5をデザインした人は代表作の一つにバック・トゥ・ザ・フューチャーでお馴染みデロリアンDMC12が挙げられるイタリアの巨匠ジウジアーロです。

四輪で言えばトヨタの初代アリストやスバルのアルシオーネSVXなどもこの人ですが、そんな巨匠が手がけた最初のバイクがRE-5。

後々はモトグッツィのバイク(350イモラ、500モンツァ、そして850ルマン)を手掛ける事になります。

RE5

そしてもう一つ。

RE-5は排気量が497ccとロータリーとしては非常に小排気量になっています。

ロータリーの排気量がレシプロ換算する場合1.5倍になる。497*1.5は745・・・そう、RE-5は当時上限750ccとなっていた国内でも売るためにわざわざ497ccという小排気量にしたんです。(当時は逆輸入車などというものが無いに等しい時代)

「国内ユーザーの事を考えて作ったスズキは偉い」

RE-5カタログ

となるはずだったのに、何の因果か750cc以下だという主張がお国に通らず型式不認可を食らい結局国内では販売できず・・・これじゃ何のための497ccだったのか。

そんなネタに事欠かないバイクなわけです。

国産ハーレー『陸王』とは

陸王号

名前くらいは聞いたことがある人も多いと思われる和製ハーレーとして有名な『陸王』

一体なにがどうなってハーレーなのか、そしてどうして終わったのかという歴史を簡単に振り返ってみたいと思います。

日本では1910年代(大正)の頃からハーレーダビッドソンが既に僅かながら高性能車として輸入販売される状況にありました。

しかし当時は家が買えるほどの値段だったので一般人とは無縁な代物で、軍や大きな企業向けに改造された三輪車だけ。

ハーレーダビッドソン三輪車

そこから時代が少し進み1930年代に入るとインディアンやBSAなどハーレー以外の輸入車や三輪車も珍しくなくなり競合が始まっていたんですが、そんな時代の中で

『日本自動車株式会社』

というハーレーの輸入販売権を所有していた会社が大日本帝国陸軍への売り込みに成功。

更に陸軍から印象も良かった事でハーレー本社は日本の製薬会社だった三共(現:第一三共)と手を組んで

三共ハーレー

『三共株式会社・日本ハーレーダビッドソン販売所』

を1931年に設立。

陸軍に対し積極的なアプローチと課せられた基準をクリアすることで正式採用を勝ち取ると共に、その実績を武器に全国展開し

『購入後も面倒を見るアフターサービス』

という当時としては画期的だった付加価値サービスで富裕層への販売も開拓していきました。

九七式側車付自動二輪車

しかしそんな中が陸軍が三共に対して

「ハーレーの国産化」

を打診します。

これは

・国内産業保護政策

・世界大恐慌によるドル円格差の拡大

・米国との関係悪化

などの理由から

「ハーレーの供給が途絶えてしまうのでは」

という危機感を陸軍が持ったから。

幸いなことに当時ハーレーは(サイドバルブからナックルヘッドへの)世代交代を計画していた事に加え、自身も世界恐慌で業績が悪化していたこともあり

『輸出しない事』

を条件としたライセンス契約と共に前(サイドバルブ)世代の製造設備を三共に丸ごと売り払う事に。

こうして1935年にライセンスのみならず設備まで買い取る事で国産化の目処が立ち、その際に設立されたのが

『三共内燃機株式会社』

というバイク製造メーカーであり、その会社が造った国産型ハーレーが

陸王

『陸王』

というわけ。翌1936年には社名も三共内燃機から陸王内燃機に変更されました。

ちなみに陸王という名前の由来は一説では1927年に作曲された慶應義塾大学の応援歌『若き血』からといわれています。

慶応と陸王

肝心のラインナップはサイドバルブVツインの排気量違い

『VF系:1200cc』

『R系:750cc』

の2種類だったんですが、戦争の関係で97式側車付など陸軍向けがメインでした。

陸王カタログ写真

ではなぜ陸王は無くなってしまったのかという話ですが、これは戦争が終わると同時に逆風が吹いたからです。

日本は敗戦により

・軍事需要の消滅

・富裕層の激減

・ハーレーダビッドソンの輸入再開

という状況になった上に

『メグロやキャブトン(みずほ)など高性能バイクメーカーの躍進』

がありました。

ハッキリ言ってしまうと陸王の性能はお世辞にも優れているとは言い難いものだった。

本家ハーレーですらトライアンフやBSAといった欧州車に性能面で負けている事に危機感を持ち、ナックルヘッドやモデルK(スポーツスターの前身)を計画していた時代。

陸王エンジン

そんな驚異を持った欧州車のコピーを造るメーカーがゴロゴロ居た日本で、改良を重ね続けたとはいえハーレーから買い取って戦前から酷使しているボロボロになった設備による信頼性も性能も低い旧世代のサイドバルブエンジンだけだった陸王が勝てるわけがない。

まして高級路線には再び輸入されるようになった本家ハーレーがいる。

・安くて速い後発メーカー

・高くて速い本家ハーレー

この板挟みにより陸王はその存在がボヤケてしまったわけです。

ただ陸王を少し擁護しておくとサイドバルブエンジンに拘ったのは国産化の際に陸軍から

「海外資源を使わずに造れ」

という無理難題を命じられたことが大きく影響してるのでちょっと不幸だった面もあります。

この事で陸王内燃機は1949年に業務を停止しますが、翌1950年に昭和飛行機が権利を買い取り陸王モーターサイクルとして復活。

陸王モーターサイクル

BSAやトライアンフの流れを組んで人気だった中排気量の後発メーカーに対抗し、BMW/R25を模範したとされるOHV単気筒350ccのヨーロピアン溢れるスポーツバイク

『陸王グローリー号』

を発売しました。

陸王350グローリー

恐らく陸王のイメージと大きくかけ離れているとは思いますが、ロータリーチェンジ式や国産初のスイングアーム式など最新の性能を兼ね備えたモデルで当時は人気を呼びました。

これを足がかりに9年後の1959年には更に下のクラスとなる250cc版を開発し発売したのですが・・・もうその頃には皆が知るあのメーカーが頭角を現していた。

「ホンダ、ヤマハ、スズキ」

ですね。

ホンダヤマハスズキ

スーパーカブで王者に上り詰めていたホンダ、スポーツとデザインに秀でていたヤマハ、最初からコスパが異常だったスズキ。

自分達を追いやったメグロやキャブトンすらも追いやるほどの技術と勢いを持ったメーカーの前にはさすがの陸王も対抗することが出来ず。

結果1959年に生産がストップし1960年に倒産。こうして陸王の系譜は終わりを迎える事になりました。

※文献:国産オートバイの光芒

【余談】

九三式側車付自動二輪車

恐らく陸王を実際に見たことがある人はほぼ居ないと思います。

これは部品が既に無いことから置物化しているという事が第一にありますがそれ以外にも幾つか理由があります。

まず一つとして陸王は晩年モデルを除きほぼ

右手:アクセル

左手:ハンドシフトと進角調整&オイルポンプ(手動式)

右足:フットブレーキ

左足:フットクラッチ

という忙しない運転方式で本当に休む暇がなく危険な事と、そこまでしても現代の車やバイクの流れに付いていくことが難しい走行性能だから。

そしてもう一つは1941年に制定された『金属類回収例』

金属類回収例

戦時中、物資の不足を補うために行われた金属類の強制回収。

陸王も例外ではなく全国にあった車両が片っ端から国に回収されてしまった歴史があります。

そして最後はコレクターの存在。

九七式側車付自動二輪車

陸王は歴史からも分かる通り大日本帝国陸軍のバイクというイメージが強いため極一部の少し怖い人達に絶大な人気があり、元々の所有者が亡くなると同時に何処からか嗅ぎつけて因縁を付けられ半ば強引に持っていかれて闇に消えるという事が結構あったんだとか。

まあレア車あるあるですね。

「4stが正解なハズはない」という思いが2stを生んだ

クロスプレーンクランクシャフト

1.吸気
2.圧縮
3.燃焼
4.排気

の4行程で回るのが現代の主流となっている4サイクルまたは4ストロークエンジン。

それに対して

2ストロークの行程

1.吸気&排気
2.燃焼&排気

の2行程で回るのが2サイクルまたは2ストロークエンジン。ただ2stの方は排気ガス規制の関係でもうほぼ存在していませんね。

その事から

「2stは旧時代のエンジン」

というイメージを持たれている人も多いかと思いますが、歴史的に見るとそんなに離れていないどころか解釈次第では4stよりも後に確立した技術だったりします。

ということで今回は19世紀末から20世紀初頭に起こった内燃機関誕生の話であり、2stが如何に紆余曲折あったかという歴史とお話と推察を非常にザックリながら書いていきます。

内燃機関

現代における4stエンジン始まりはフランスのボー・ド・ロシャという人が1862年に発表した論文にあります。

内容を簡単に説明するとこう

・ピストンを使って可能な限り混合気を吸う

・その混合気を可能な限り圧縮する

・上死点で点火して膨張させる

・最後に可能な限り排気する

まさに4stエンジンそのものですね。

ただ残念ながら19世紀半ばの当時これを実現するのは難しく、書いた本人すら実現させようとはしなかった机上の空論に近いものでした。

しかしその14年後となる1876年にある男が本当にそれを実現させます。

ニコラウス・オットー

ドイツのニコラウス・アウグスト・オットーが『静かなエンジン』という名前の4stエンジンを世界で初めて発明。

オットーサイクルとして今も名前が残っているので聞いたことがある方も多いと思います。

では一方で

「2stエンジンの発明家は誰か」

と聞かれると思い浮かばない人が多いかと。メジャーではありませんよね。

2stの始まりが何処にあるのかというとオットーが4stエンジンを完成させる16年前であり、4stの論文が発表される2年前にあたる1860年。

ルノワール機関

フランスのジョゼフ・ルノワールという人が発明したのが始まり。つまり実現が早かったのは4stではなく2stなんですね。

ただ上の絵だけでは一体何がどうなって2stなのか分からないと思うので雑ながらイラストで表すとこうなっています。

ルノワール機関の中身

この状態からコンロッドとは別に設けられたシャフトの滑り弁が左右に動くことで(穴が貫通し)ガスが入るわけですが、注目してほしいのはガスが入る方向とピストンの動く方向。

ルノワール機関の点火

ガスをピストンの先に入れて圧縮という我々が知ってる動きではなくピストンの裏側、今でいうとクランクケースの方に入れて点火する方式。

ルノワール機関の燃焼

つまりピストンを後ろから押す形になっている。

そして上死点まで到達したら今度は戻るんですが、その際に今度はまたその裏側からガスを入れる。

ルノワール機関の排気

そして燃焼したほうは排気側の滑り弁が通ずるので排気ガスはそこから押し出し、またガスを入れるという形。

この繰り返しだから2stと言えるわけです・・・分かりづらいですねスイマセン。

しかしこのルノワール機関は非常に効率が悪いものでした。何故なら見て分かる通り一切圧縮をしない構造だったから。

これはルノワールが

「圧縮は百害あって一利なし」

という今では信じられない考えをしていたからなんですが、これについては少し酌量の余地があります。

ルノワール機関の排気

というのも当時は高圧蒸気機関(ボイラー)が全盛だったのですが高圧に起因する爆発事故が多発していたんです。当たり前のように何百人もの人が犠牲になっていた。

かの有名な蒸気機関の父ジェームズ・ワットも生前その事を懸念して蒸気機関の高圧化には反対の立場でした。

高圧化に反対だったワット

それでもワットの特許が切れると同時に高圧化が進みワットの警告通り事故が急増してしまったんですが、しかしながら効率を上げるには圧縮が必要不可欠なのもまた事実。

それはこのガスエンジン(当時はガス)でも同様で、圧縮しない2stともいえるルノワール機関に対し

「何とかもっと燃焼効率を上げられないか」

として考えられた末に完成したのが”圧縮して燃焼”という手法をとったオットー機関(4st)なんです。

つまり本当に大雑把に言うと

「2stの燃焼効率をもっと良くするために圧縮を用いる形で発明されたのが4st」

という話。

ただ実はオットーも圧縮が良いことは分かっておらず結構あやふやな理論だったよう。

オットーエンジン

まあそれは置いておくとしてもルノワール機関の燃焼効率が4%足らずだったのに対しオットー機関は14%とその差は歴然で

『オットー機関(4st)が内燃機関』

という常識が生まれるまでに至りました・・・が、ところがです。ここからが面白い所。

オットーが1876年に発明したオットー機関(4st)が話題となり内燃機関の代表格になったにも関わらず、発明家たちは更に2stへ注力するようになりました。

結果としてオットー機関(4st)の誕生から5年後となる1881年に2stの礎ともなる発明をイギリスのデュガルド・クラークが成し遂げます。

クラークサイクル

『クラーク機関(2号機)』

図がややこしいですがブレイクスルー要素は至ってシンプル。

新しい混合気で排気ガスを追い出すという2stにとって欠かせない手法

『掃気』

を発明したんです。

クラークエンジン2

分かりやすく表すとこんな感じで燃焼室とは別に混合気を送る掃気/圧縮ポンプを設け、燃焼室の下死点付近に排気の為の穴を開けておく。

そして燃焼によってピストンが押し下げられると、その力で送る部屋のピストンが上がるのでその力で燃焼室に混合気を送る。

クラークエンジン2

送られてきた混合気は燃焼室内に発生している排気ガスを押し下げる様に上から入るので、必然的に排ガスを排気口へと導き燃焼室は再び混合気で満たされるという仕組み。まさに2stにおける掃気ですね。

圧縮しないルノワール機関を除くとこれが2stエンジンの始まりとも言え、このクラーク式は燃焼効率も16%と非常に高くイギリスを中心にオットー機関に負けずとも劣らないほど製造されました。

ちなみにオットーと違ってクラークは研究者の側面も持っており圧縮が大事なことを把握していたよう。

これで2stも4st並に対抗できるようになったかに思えたのですが・・・このクラーク機関の2年後、オットー機関(4st)を更に進化させた恐ろしい世紀の大発明が登場します。

ゴットリープ・ダイムラーのエンジン

『世界初の4stガソリンエンジン』

恐らくこのページでもっとも知名度があるオットーの協力者だったゴットリープ・ダイムラーが脱サラして独立した翌年の1883年に発明したものでガスに代わる燃料として液体燃料ガソリンを使った燃焼効率15%の内燃機関です。

ゴットリープ・ダイムラー

なぜこれほどまでにダイムラーが歴史に名を残す事になったのかというと自動車の父である事もそうなんですが、このページの主旨から言うと見慣れた形をしていることからも分かる通り

「使い道が無かったガソリンで動く超小型で高性能なエンジンだったから」

というのが要因。

世界初のガソリンエンジン

今では信じられない話ですが当時ガソリンは(危険性も考慮して)当たり前の様に捨てられていたそう。

だからこそガソリンを燃料に従来の四倍(800rpm)も回る高性能かつコンパクトなエンジンは最初こそ半信半疑だったものの動くことがわかると拍手喝采だったわけです。

対してクラーク機関やそれをベースにした2stエンジンは非常に複雑で鈍重で騒音も大きく、掃気/圧縮ポンプも必要だったため小型化も難しく再び劣勢になってしまいます。

クラークエンジン

またクラーク機関は掃気という手法を編み出したものの吹き抜け(混合気がそのまま排気されてしまう)問題が大きく残っていました。

しかしそれでも2stを諦めず発明に明け暮れる人達は絶えなかった。

そのかいあってダイムラーの驚異的な4stガソリンエンジン誕生から8年後の1891年に負けずとも劣らない2stエンジンが発明されます。

ジョセフ・デイ

『デイ・エンジン』

イギリスのジョセフ・デイが発明したこの2stエンジンはいま紹介したクラーク機関の最大のネガだった送るための掃気ポンプの役割をピストン圧縮による圧力変動に持たせ、またピストンを弁代わりにして吹き抜けを防ぐというもの。

デイ・エンジン

最大の特徴は駆動部がピストン、コンロッド、クランクだけという近代2stにも通ずる

「圧倒的なシンプルさである」

という事。

ちょっとした工作機があれば誰でも作れるほどのシンプルさだったため、小型を中心にガソリン化など様々な形に加速度的な発展を遂げる事になりました。

その中でも恩恵を受けたのが他ならぬバイク。

1902年にイギリスのアルフレッド・スコットという人が4stのバルブ構造を嫌いデイ・エンジンを礎としたオリジナルマシンを製作しレースに出場するやいなや大活躍。1911年には最高峰レースのマン島TTでファステストラップを叩き出すほど。

スコットモーターサイクル

あまりの速さから4stに対して7割の排気量という2001年まで続く事となる2st最高峰レースWGP500(2st500cc/4st500cc)に通ずるレギュレーションがこの時に設けたものの、それでも翌1912年と1913年にはトップのセニアクラスを二連覇という圧倒的な速さを記録。

これにより2stが再評価され、それまで4stに舵を切っていた様々なメーカーが2stの開発をするようになり、また容易で安価という事から新たな2stメーカーが世界中で誕生しました。

RT125とYA-1

ちなみに戦後200を超えるバイクメーカーが日本で生まれたのもこれが理由。2stなら比較的容易に造れた(2stなら欧州のバイクを模範しやすかった)からです。

これが非常にザックリな2st誕生の歴史なんですが、最後に主題のオチというか見解を少し。

オットーが4stという新しい形の内燃機関を発明し、ダイムラーが液体燃料(ガソリン)を用いてさらなる進化を示したにも関わらず

「どうして発明家や研究者は4stではなく2stに注力したのか」

というと、実はこれ素人である我々と同じ考えを発明家や研究者も持っていたから・・・それは

2ストと4ストの行程

「2回転で1度しか燃焼しない4stが正解なハズはない」

という考え。

4stだと燃焼は全行程の1/4しかない。しかし2stならこれが1/2になる。

どっちが効率が良さそうかと考えたら普通は2stですよね。だからみんな2stの研究や発明を止めなかった。

これについてはオットーやダイムラーによって4stに関する特許が抑えられていたという背景もあるんですが、4stではなく2stに注力した理由はそれだけじゃないかと。

というのも2stに関する偉大な発明をしたルノワール、クラーク、デイのお三方にはある共通点があります。

ルノワールとクラークとデイ

それはみなイギリス人だという事。

それに対して4stを生み出したオットーやダイムラーはドイツ人・・・対抗意識が芽生えないわけは無い。これはドイツ側が2st誕生後も4stに偏重していた側面から見てもそう言えるかと。

ただそれよりも大きかったであろう要素が18~19世紀のイギリス史で絶対に外すことが出来ない要素。

産業革命

『産業革命』

です。

この産業革命の原動力が何かと言えば途中でも少し紹介した蒸気機関。イギリスはこの蒸気機関を基軸に工業大国になりました。

内部の熱で動かす内燃機関の一種であるレシプロエンジンと、熱を送ることで動かす外燃機関の一種である蒸気機関に一体何の関係があるのかと思うかもしれませんが、実はこの二つは切っても切り離せない関係にあります。

何故なら

SL

「内燃機関は蒸気機関の応用が始まりだから」

です。

ピストン、コンロッド、クランク、弁、内燃機関に当たり前に付いてるこれらは全て蒸気機関によって生み出された産物なんです。

そして重要なのは蒸気機関は反対の見方、レシプロエンジン側から見ると2stに近い構造をしているという事・・・つまり蒸気機関が国の基幹産業だったイギリス人にとっては

「2stなのが原動機の常識だった」

というわけ。

それが如実に現れているのが最初の2stとして紹介したルノワール機関。

蒸気機関とルノワール機関

蒸気機関の延長線上にある非常に酷似した構造なのが分かるかと思います。

こういう背景があったからこそ蒸気機関の概念から大きく外れた4stという存在は受け入れがたいものがあった。

今回は割愛しましたがオットー機関(4st)をベースとしながら発明したピストンを二個設けることで実質2st化した同じくイギリスのアトキンソンもそう。

アトキンソンサイクル

「2回転で1度しか燃焼しない4stが正解なハズはない」

そう考えるイギリスの発明家が多かったからこそ4stが誕生し世界がそれを正解だと認めた後も2stの研究や発明が止まらず、幾度もの紆余曲折の末に4stに負けずとも劣らない

「1回転に1度ちゃんと燃焼する2stという内燃機関」

が誕生した・・・という話でした。

文献:内燃機関の歴史(富塚 清)

開発当初は違う名前だったホンダ車たち

ホンダデザイン

ホンダはデザインスケッチなどコンセプトの原案を広報や雑誌などで広く公開されているので目にする機会が多いのですが、まだファミリーネームが固まっていない(特に80~90年代)モデルでは

「最初はこんな名前だったんだ」

と思うことが多々あります。

そこでそういった『初期段階では違う名前だったバイク』を集めてみたので紹介していこうと思います。

『TT400』

GB400

GB400のコンセプトスケッチ。

既に250がGBとして出ていたので習う形になったものの原案ではTT400だった。

ちなみにTTとはマン島TTレースの事。

『GLS250』

フュージョン

ビッグスクーターとしてお馴染みフュージョンのコンセプトスケッチ。

ゆったり系バイクという事でGLファミリーに分類しようとする意図があったものと思われます。

『CBR400R』

CBR400R

CBR400Fの後継にあたるCBR400R AERO/NC23の案の一つ。

VFR400Rとの棲み分けの為に最終的にツアラー路線になったものの、AEROというネームは設けられずレーサー色を捨てていないスタイル。

『COSA ROSSA』

スパーダ

実際に販売された時の名前はVT250SPADA

COSA ROSSAはイタリア語で『赤いやつ(女性)』という意味でよく見ると片持になってる。ちなみにSPADAは剣。

『Diablo』

ワルキューレ

ホンダの水平対向クルーザーでお馴染みワルキューレのコンセプトスケッチ。

最初はディアブロという悪魔を意味するネームでした。それが戦女神になるとは何だか物語を感じる。

『Bandit』

ブロスコンセプト

スズキでお馴染みのBanditですが実はホンダはその約7年前にBROSでその名前を検討していた。

しかもこの名前が出るのはBROSのだけではありません。

スティード

なんとスティードも最初はBanditと名付けられていたんですね。ちなみにスティードはバンディットと同い年デビュー。

もしもホンダがBanditを先に出していたらスズキのBanditはどんな名前になっていたのか。

『NXV』

アフリカツイン

アフリカツインの別名(海外名)はXRVですが案の段階ではNXVだった。

由来はもちろん砂漠の女王ことNXRからでしょう。

『BZ』

cb-1

レプリカの次を担うバイクとして開発されたCB-1のボツネーム。

拘ったにも関わらず売れなかったものの、これがキッカケで次のバイクが生まれます。

『PHANTOM』
『DIABLO』
『CB998』

CB1000SF

BIG-1でお馴染みCB1000SFの原案。

初期(デザイナー)の段階ではPHANTOMで、自主制作チーム内ではDIABLOとよばれ、最終案ではCB998と呼ばれていたようです。

『NS50F』
『NS50R』

NS-1

エヌワンの愛称でお馴染みNS-1の案。

当初はNS50Fから車名を変えずに行く案やスイングアームに補強を加えレーサー寄りにしたRにする案があったよう。ただNS50Rは既にNS50Fのレースベースで使われていました。

『RVF750』

RC30

RC30という型式名で有名なVFR750Rのコンセプトスケッチ。

RVFレプリカなんだからRVF750という話かと思いますが、やはり最初はマフラーは右に出す予定だったよう。

『VFR750R』

RC45

RC30の後継となるRVF/RC45のコンセプトスケッチ。

面白いことにRC30がRVFと付けようとしたのとは反対にこちらはVFR-Rという名前で始まっていた。

『CB250』

ホーネット

若者に人気だったホーネットのコンセプトスケッチ。

先代ジェイドの反省なのか最初は普通にCB250と入れる予定だった様で・・・よく見るとマフラーが右ではなく左から出ている。

『CBR1100 ULTIMATE』

CBR1100XX

CBR1100XXスーパーブラックバードのコンセプトスケッチ。

少し見づらいですがアッパーサイドに白抜きでULTIMATEと入っています。飛行機大好きなエンジニアがブラバみたいだと言わなかったらこの名前になっていたかもしれない。

『VR1000』
『THUNDER996』
『VT900R』

ファイヤーストーム

ファイヤーストーム(北米名スーパーホーク)でお馴染みVTR1000F

VRは米国案、THUNDERは欧州案、そしてVT900Rは日本案の名前。最終的にVTR996に纏まりVTR1000Fになったよう。

『SUPER BIKE 999 SPEC-1』

SP1

別名RVTの名前を持つVTRのホモロゲバージョンとなるVTR1000SP1

最初はシートカウルにSUPERBIKE999というサブネームが付いておりデカールもRacingではなく『SPEC-1』とホモロゲ感溢れるものだった。

もしも999と名乗っていたら二年後に出るducati 999はどうしていただろう。

『VFR-X』

VFR-X

VFR1200Fのイメージコンセプト。

いまでこそXといえばクロスオーバーですが元来Xは究極という意味があり実際ヘッドライトもXを強く意識したものだった。

パンツとか言われていますがXが由来なんです。

『750(900)FOUR』

CB FOUR

CB1100が誕生するキッカケとなったコンセプトスケッチ。

ここからコンセプトモデルCB-FOURとなり最終的にCB1100となりました。FOURと付けられなかったのは大人の事情か。

「当時のまま復刻してくれ」という願いが聞き届けられない理由

1978年のラインナップ

「〇〇を見た目そのままで復刻してくれ」

という止むことの無い要望。

そういう場合に上げられる車種は歴史に名を刻んでいる名車がほとんどで

・プレミア価格で買えない

・部品供給が途絶えてる

などの理由が背景にあり、特に近年は旧車の価格がさらに暴騰。業者オークションでも

VFR750R(未使用車)→680万円

FZR750R→380万円

Z1000MK2→350万円

CB400FOUR→200万円

NSR250R/MC28→280万円

などでもはや投機のような値段になっている。

しかし残念ながらその声が聞き届けられる事は歴史を見ると分かる通りほぼ無い。新車の方もレトロブームが到来した事で往年の名車を意識したモデルが色々と出ています・・・が、インスピレーションこそ感じるものの明らかに元ネタのモデルとは形が違いますよね。

ヘリテージモデル

「クルマと違って歩行者頭部保護規制とか無いんだから騒音規制と排ガス規制クリアだけソックリしたモデルを出せば大ヒット間違いなしだろうに」

と疑問に思っている方も多いと思うのでザックリ簡単に解説して行きたいと思います。

理由1.そもそも生産出来ない

昔のモデルを復活させる時に最も問題となるのがこれ。

『金型』

という大量生産の要とも言える設備(工具)の問題になります。

金型

大雑把に言うとこれでバシバシ作った部品を組み立てて完成させているのが製品なんですが、そういう製品を生業としている製造業において金型というのは門外不出な企業秘密の塊。

だから開発費から導入費までトータルで見ると億単位のコストが掛かったりする。これは1〜2個造るわけではなく万単位で迅速かつ安定して生産(ショット)出来る高い信頼性も必須だから。一つでも金型に問題が発生したら生産ライン全体が止まっちゃいますからね。

しかもそんな思いをしてまで導入しても金型というのは

・使うほど摩耗する

・同じ形しか作れない

という問題があるので一定の数を生産しストックしたら破棄し、次のモデルに向けた新しい金型へ新陳代謝のように移り変わっていく。

金型の摩耗

だからメーカーも旧車の金型は既に持っていないんです。

部品供給打ち切りや、その事を嘆く人が出る理由もこれ。補修部品っていうのは基本的に生産後にストックした在庫限りみたいなものなんですね。

ちなみにこれは金型が企業秘密の塊であるがゆえに

『固定資産税の対象』

という事も強く影響しており、これがあるからメーカー(及びその下請け)は経営の観点から迅速に生産して迅速に金型を廃棄するようになってる。

ヤマハパーツセンター

部品を全部ストックしていたら倉庫がとんでもない規模になってしまう問題もあります。

加えて問題となるのがジェネレーションギャップ。

これは量産効果(規模の経済と範囲の経済)に関する問題で、製造業というのは

・稼働率の高さ

・製造数の多さ

ザックリ分けてこの2つの要素次第で全く同じものでもコストが1/10にも10倍にもなる宿命がある。

範囲の経済

だから特にクルマが象徴的ですがメーカーはその開発費および製造費を少しでも抑えるために色んなモデルで色んな部品を共有してる。そうすれば単純に安く出来るだけではなく、予算に余裕が出来るので更にお金を掛ける事が出来ますからね。

じゃあもしそんな中で何世代も前の形をした金型や部品を用意して復刻させたらどうなるか。

廃れた技術

「いや今さらこんな足回り他にどう使えと・・・」

となってしまい結果的に専用部品の塊つまり超ハイコストモデルになってしまうから厳しい。これらが生産の都合上出来ない理由。

ハザードランプの有無

これユーザーが後から付けようと思ったら1万円前後するんですが、これをメーカーが最初から付けようと思ったら僅か20円/台ほどで付けられる。

たったそれだけのコストにも関わらず何故付けないのかというと、この20円というのはあくまでも買う側の目線だから。売る側のメーカーからすると20円じゃないんです。

『生産台数×20円』

で原価企画や利益目標を大いに圧迫するから簡単には足せないという話。 –>

 

理由2.嬉しくない売れ方をする

嬉しくない売れ方

もし仮に生産上(コスト)の問題をクリアしたとしても売れ方にも問題を抱えてる。

これは

「〇〇で〇〇なモデルが欲しい」

という要望にも通ずるものがあって、言い方が悪いんですがそういった”比較的誰でも思いつく製品”っていうのは実はそれほど売れないのが分かってる。

その理由は

『意外性』

という要素が無いから。ヒット製品になるにはこれが必須なんです。

顕在需要と潜在需要

「自分でも欲しいものが分かっていない潜在需要を如何に掘り起こせるか」

がヒットに直結する。

大ヒットし今では名車と言われているモデルもほぼ例外なくこの意外性があった。

もちろんそれでも誰もが知る名車なら一定の需要があるでしょう。モノよりコトが重視されるようになった現代なら年間販売台数一位を記録するかもしれない・・・でも仮にそうなってもメーカーは手放しでは喜べない。

というのも顕在需要向けの(意外性が無い)製品というのは明確に欲しいと定まってる人への製品なので

『飛びつくか、全く興味を示さないかの二択』

という極端な売れ方をするから。

こういう売れ方はメーカーとしてはあまり嬉しくない。最初はドカンと注文が入るけど、その駆け込みが終わったら稼働率も製造数もガクッと落ちるからです。

生産の問題でも話した通り設備っていうのは用意するのも維持するのもお金が掛かるのでメーカーは開発段階から無駄が出ないように

『製造年数と総製造数』

をある程度予測して絶妙な生産キャパシティを決めるのが一般的。

そうした時に欲していた人達が殺到して初年度はドカンと売れるものの、二年目以降は閑古鳥が鳴く売れ方になってしまう顕在需要向けの要素が強い製品というのはどうしても設備に大きな無駄が生まれてしまう。

売れ行き

無駄を生まないように

「当時の3倍の価格で完全予約制で納車は3年後です」

なんて売り方にしてハイ分かりましたと素直に待つ人は居ないですよね。そんなのが罷り通るのはフェラーリやランボルギーニといったスーパーカーくらい。だから取り扱いが非常に難しい。

ちなみに

『一ヶ月で一年分を受注』

『納車半年待ち状態』

などの現象や人気殺到なのになかなか増産しなかったりするのもこの余剰設備問題によるもの。さっさと増産(増設)してくれって納車待ちの人は思うけど、メーカーとしては後で負債になる事が分かりきってるから簡単には出来ない。

だいぶザックリですがこういう問題があるから現実問題として復刻車を造ることが出来ないという話・・・ですがオマケでもう一つ。

余談.モノづくりとしてのプライド

インダストリアルデザイン

一番推したい事というか理解して欲しい事。

当たり前のように売っており、また当たり前のように町中を走ったりしている市販車を開発している人達っていうのは

「車体の軽量化を頑張ったら俺が軽量化したわ」

なんてジョークになってないジョークを飛ばすほど文字通り開発が三度の飯より好きな人達が当たり前の世界。

趣向性が強いバイクは特にその傾向があって開発中のモデルを

「世界一可愛いと思ってる嫁」

「天塩にかけて育ててる娘」

「毎日夢に出てくる悪魔」

などと例えるほど溺愛し、心血を注ぐように開発している。

KATANA CAD

そうやって理想と現実の間で藻掻きながらも名車と称してもらえるようなモデルを造ろうとしているのに、当時の名車をソックリそのまま造れっていうのは

「良いものを造る努力はしなくていい」

と言ってるようなもの。

これはモノづくりの否定であり侮辱でもある。その往年の名車だって良いものを造ろうと尽力したからこそ誕生できたんですから。

ちなみにこれは最近のネオレトロが似てるんだけど明らかに元ネタとは違う形になっている事にも通じていて

「何故もっと似せなかったのか」

って考えてる人も多いと思うんですが、上で話した生産の問題や需要の問題も勿論ある。

でも一番はこれらのモデルっていうのは元ネタである往年の名車を実際に乗っていたエンジニアや憧れて入社したようなエンジニアが

『往年の名車へのリスペクトと、ハリボテじゃない良い物を造りたいというプライド』

この両方を掛け合わせた形だから似てるんだけど明らかに違うんですね。

最後の最後に。

どうしても昔のモデルが欲しい、復刻して欲しいモデルがある人がいるならこうアドバイスします。

気持ちは痛いほど分かるが復刻の可能性はゼロだから腹を括って中古を買うべし。

エンジンは2stと4stだけじゃない ~5stと6stエンジン~

4stエンジンイラスト

エンジンと言えば2stか4st・・・というか排ガス問題で2stがほぼ死滅したため4stになった現代。

もう4stが常識であるかの様な世の中ですが、そんな状況に異を唱える者たちによって5stや6stが生み出されている事をご存知でしょうか。

おさらいを兼ねてサックリと2stと4stの話を。

2stはクランクが360°回転することですべての行程を終わらせる内燃機関ですね。

下がってくるピストンによってクランク室の圧力が上がり掃気ポートを伝って燃焼室に吹き込まれ、排ガスが押し出される。

2ストローク

再びピストンが上がり始めると掃気ポートと吸気ポートが塞がれ圧縮/燃焼する。

その燃焼で再びピストンが下がり始めて・・・以下繰り返し。相変わらず下手な絵ですいません。

2stが排ガス規制を通すことが難しいのは潤滑オイルを一緒に燃やしてしまう事もありますが、未燃焼ガスが一緒に排気されてしまう問題もあります。

チャンバー

チャンバーっていう膨らんだエキパイを見たことがあると思いますが、あれは排ガスの圧力波を引っくり返して一緒に出てきてしまった未燃焼ガスを押し戻して蓋をする役割があります。

ただそれでも未燃焼ガスをキッチリ戻すことは出来ないから規制を通すのが難しいという話。

要するに一石二鳥な行程なんだけど仕事が少しオザナリになってしまう感じ。

次は4stの話。

4stは何となく知ってる人も多いと思います。

4ストローク

混合気を吸って、圧縮して、燃焼して、排気。

720°つまりクランクが二回転で一つの行程が完了。

一つ一つの行程がキッチリ分かれており安定しているのが特徴です。

これを踏まえて紹介するのが5ストロークエンジン。

行程が奇数の時点で普通じゃない感じが伝わると思いますが、5ストロークのエンジンは3気筒または3の倍数の気筒数である必要があります。

5ストロークエンジン

これでワンセット。

まず一番なり三番なりが4stと同じ様に

「吸気・圧縮・膨張・排気」

をします。

しかしその排気ポートはエキゾーストではなく隣(真ん中)のシリンダーの吸気に繋がっている。

5ストロークヘッド

上から見るとこんな感じです。

そしてその排気エネルギーで真ん中のピストンを押し下げクランクを回す。

これを両サイドですると

5ストロークエンジンの流れ

で綺麗に整う。

『吸気・圧縮・膨張・排気(吸気)・排気』

900°つまりクランク二回転半ですべての行程が完了するから5ストローク。

5ストロークエンジン

これはただ捨てているだけの排気損失をターボなどのデバイスを持ちいらずとも利用できるようにした形。

ただしこれはバルブレイアウトに大きな制約があり直列にも出来ない。そしてクランクは360度に固定されるし、中央シリンダーのフリクションロスも大きい。

要するに費用対効果が無いので実用化されていないというのが現実です。

お次は6ストローク。

1080°つまりクランク三回転で行程が完了する6ストロークは実は結構メジャーです。

基本的に4ストローク目の排気までは4stと同じで、残りの2ストロークは何をしているのかと、単に空気を吸ってそのまま吐くパターンが一つ。

6ストロークのパターン1

これの狙いは4ストローク目に当たる排気で排出しきれなかった残留排ガスを燃焼室から綺麗に排出し燃焼室の温度を下げるため。

ピーキーな高圧縮エンジンでノッキングを回避するために持ちいられる方法です。

これとは別に空気ではなく排気ガスを循環させ、もう一度吸い込んでそのまま吐くパターンもあります。

6ストロークのパターン2

「なんでわざわざ排ガスをもう一回吸うのか」

って思いますよね。

このパターンが使われるのは燃費競技などの極端な場合。

もてぎエコチャレンジ

燃費競技では常にエンジンを動かしているわけではなく、加速が必要なときにだけエンジンを動かすようになっている。

エコチャレンジラン

そうした時に問題となるのがエンジンのオーバークール。

エンジンが冷えすぎているとガソリンの気化/混合が上手く行かず燃費が悪くなってしまう。だから熱い排ガスを入れて保温しているというわけ。

ホンダエコチャレンジ最高記録

これは毎年行われているホンダエコチャレンジで、最高記録は2011年の3644.869km/Lだそう。

ちなみにエンジンはスーパーカブC50です。

まあ説明するまでもないけど、これらが実用化されないのは

「オンかオフか」

の二択という極端な走行で初めて真価を発揮するエンジンだから。

次に紹介するのは面白いけど、実現は難しいであろうパターン。

先に紹介した2パターンと同様に排気までは従来どおり。そして5ストローク目で何をするかと言うと・・・なんと水を入れる。

6ストロークのパターン3

燃焼で熱くなった燃焼室に注水することで水蒸気を発生させ、その力でピストンを押し下げクランクを回すというもの。

しかも水による気化潜熱はガソリンの比ではないので冷却性も大幅に向上・・・なんですが、水を吹くので腐食の問題があり実用域には達していません。

ウォーターインジェクション

しかし最近BOSCHが腐食を起こさないウォーターインジェクション技術を確立したようで・・・もしかしたら有り得るかも。

既にBMWのM4 GTSとかいう車が近いことをやってますしね。(エアクリーナーの先で少し水を吹く)

ちなみに簡略化してるので鋭い人は気づくと思うのですが、いま紹介してきた6ストロークエンジンはカムやバルブが別に用意されていたり、カム山が二つあってハート型の様になっていたりとエンジンヘッドも特徴的だったりします。

で・・・ここまでは何となく4stの延長線上にある感じですよね。

という事で最後に紹介するのは非常にユニークな『バジュラズ6』とよばれる6ストロークエンジン。

1ストローク目

もうこれだけで普通じゃない感じが伝わると思うのですが、まず1ストローク目は普通に空気を吸います。

2ストローク目でその空気を左上にある燃焼室の外枠に運ぶ。それと同時に燃焼室では燃焼を開始。

2ストローク目

3ストローク目でその燃焼を利用するため左から二番目のバルブが開く。

3ストローク目

ここで注目して欲しいのは最初に燃焼室の外枠に運ばれた空気。これが燃焼による熱で温められているのがポイント。

燃焼が終わり発生した排ガスを4ストローク目で排出。

4ストローク目

そして5ストローク目になってやっと出番なのが最初に吸われた空気。

外枠で温められ膨張した空気を放つ様にバルブを開くわけです。

5ストローク目

締めの6ストローク目で膨張し冷却された空気を燃焼室に運ぶ。

6ストローク目

で、1ストローク目に戻る。

これがバジュラズシックスと呼ばれる6ストロークの仕組み。

なかなか面白いんですが・・・圧倒的に出力が稼げない。

まあこれはこのバジュラズ6だけでなく全般に言える話。

燃費はいいし排ガスも少ないんだけど、ポンピングロスやフリクションロス、更にレスポンス悪化や部品点数増など、4stほど色んな意味で効率的じゃない事が5stや6stの致命的な課題。

エンジンストローク

でも4stもガソリンエネルギーの7割以上をロスしてるわけだからベターではあってもベストではないのが現状。

だから皆が、それこそエンジニアですら当然のように思っている4stという固定観念を吹き飛ばすストロークが現れる可能性はゼロじゃないという話。

右コーナーが苦手な理由

右コーナー

多くのバイク乗りは右コーナーが苦手だと言われています。タイヤを見たら左よりも右が余っている人が大半かと。

何故右コーナーが苦手なのかというと、これは様々な原因があり一概には言えない部分があります。

その為

「原因はコレだ」

と決めつける事は難しいのですが、恐らく多くの人が当てはまるであろう原因を挙げていこうと思います。

原因1:左側通行だから

右コーナーの半径

左側通行における右コーナーは左コーナーよりもRの半径が大きくなり、バイクが寝ている時間(距離)が長い。

更に走行車線がセンターラインよりも先で狭く見えてしまうので、クリッピングポイント(最もインによる場所)が分かり辛い事が多い。

顕著に現れる例がヘアピンカーブ。

ヘアピンカーブ

曲がるキッカケを掴みきれず刺さりそうになる緑ライン。それを恐れてセンターを割ってしまう赤ライン。

どちらも危ない走行ですが経験ある方も多いかと思います。ちなみに黄色が大体の正しいラインです。

なぜそうなってしまうのかと言うとインに向かうのが早すぎるから。

インに付くのが早すぎる

ただこれにも左側通行ならではの問題が関係しています。

それは左側通行における右カーブというのはアウト側が基本的にガードレールまたは壁や崖という事。

右回り

「膨らんでコースアウトしたくない」

という恐怖心が自ずとそうさせてしまうんです。

実際公道は水はけを良くするためにカマボコ状(中央が高い)の逆バンクが基本なので、アクセルを開けるとアウトに膨らみやすくなってる。その事が更に心理に働きかけている面もあります。

日本の交差点

まあそもそも左側通行という事で右左折をする頻度が全く違うという事もありますけどね。左側通行における右折は基本的に一時停止や徐行からですし。

原因2:操作系が右側に集中してるから

右バンク

クラッチレス等の一部のバイクを除き、曲がる時というのはギアチェンジも減速も済ませておくのが基本。

曲がっている最中はアクセルとリアブレーキ操作がメインになるわけですが、奇しくもこの二つはどちらも右側にある。

つまり右コーナーの場合、それらの操作を狭く窮屈になっている中で行う必要がある為にアクセルワークがラフになってしまう。

Uターン(最小の右回り)等での転倒(アクセルとリアブレーキ操作ミス)がいい例かと思われます。

原因3:利き足と軸足

利き足と軸足

足というのは交互に動かします・・・当たり前ですね。

ここで突然ですが皆さんバイクに乗る時どっちの足を上げて乗りますか。

バイクに跨る時

恐らく多くの人が右足を上げて乗るんじゃないかと思います。

右足が利き足の人が多いから当たり前と思われるかもしれませんが、足は手と違い動かさない方にも大きな役割があるんです。

それは

「体重を残して安定させる」

という軸としての役目。

要するに踏ん張る足という事ですが、この軸足というのは利き足では無い方、つまり左足が得意な人が多い。

イン側荷重

そしてバイクは曲がる時、イン側の足でバランスを取ります。

つまり右コーナーがぎこちなくなってしまうのは、軸足として使うことに慣れていない右足でバランスを取らないといけないからというわけ。

足をつく方

乗る時だけでなく停車する時、または停車中に着く足は左足ですが、利き足である右足を着くと意外と安定しないのが分かると思います。

※立ちゴケする可能性があるので気をつけて

大まかに分けてこの3つが右コーナーを難しく感じさせている理由と言われています。

右コーナーが苦手といっても人によって苦手さは千差万別で、無駄に力が入っている人、フォームが固くなっている人、ラインを読めていない人、目線が落ちている人などなど修正箇所も人それぞれ。

右コーナリング

トドのつまり右コーナーが苦手なのは多かれ少なかれ右コーナーに対して苦手意識を持っているから。

ただ、ここまで書いておいてアレですが、これを読んで更に苦手意識を持つのは非常にマズいです。苦手意識を持つとタダでさえ駄目なのに更に駄目になってしまうから。

だから

「右コーナーが苦手だ。」

と考えるのは絶対にやめましょう。

右コーナーが苦手

「まだ慣れてないだけ。」

こう考えるようにしましょう。実際そうなんですから。

“肩の力を抜く”

これが右コーナー克服の第一歩です・・・まあそれが難しいんですけどね。