「この美しい車を・あなたに」
発売当初はヤマハスポーツ250Sという名前でしたが数ヶ月でYDS-1に社名が変更になった為、YDSで名前を統一してご紹介。ちなみに愛称は「エスワン」です。
先代に当たるYD-1のページで紹介した通り、ヤマハは浅間高原レース125制覇の勢いそのままに、1957年に250ccクラスとして2st二気筒250ccのYD-1を販売。同時にYD-1をベースにしたYDレーサーのタイプAとBにてレースへ参戦しました。
AとBはボアストローク比が違うだけ(A:54mm×54mm|B:56mm×50mm)で、これはレースでは一車種3台までというルールへの対応するため。
ちなみに浅間高原レースという大層な名前ですが、当時のコース路面は今で言うダートコースで最低限の整備だったため、暴れるバイクを如何にコントロールするかが鍵だった時代。つまり軽くてワイドなハンドルが定説なんですが、なんとヤマハは重くなるカウルと低く絞ったハンドルという空力重視のスポーツスタイルで勝負に挑み・・・見事に勝利しました。
2st二気筒250ccのパワフルなエンジンは分かるものの、一見無謀とも終えるこのような車体で勝てた理由は、これらの装備はレーサーっぽい見た目で存在感をアピールすると共に、走行中に前の車両から飛んでくる泥から視界を守る泥除けを狙ってのものだったから。
そしてそんな250ccレースを制したYDレーサーのレプリカとして登場したのがYD-1のスポーツ版であるYDS-1というわけです。
YDレーサーと同じくデュアルキャブレター化でクラストップの20馬力を叩き出し、ミッションも国産量販車初となる5速ミッションを搭載。車重もYD1から2kgの軽量が施され最高時速は公称140km/h。
そんなハイスペックスポーツのYDS-1ですが、更に凄かったのは
「レースKITを用意して一般向けに売った」
という事にあります。
ヤマハが成功を収めた浅間高原レースですが、消費者からの注目度は非常に高かったものの、運営やコース整地などレースに関わる費用のほぼ全てを参戦メーカーが負担する形だったため、メーカーもその負担に耐えきれなくなり、話し合いの末にYDレーサーが勝った1957年を最後に隔年開催へと変更されました。
つまり翌1958年は中止となったのですが、当時の月刊モーターサイクリスト取締役社長だった酒井文人氏が音頭を取り、憧れの浅間高原レースを走ってみたいと思っているアマチュアを全国から集めアマチュアレースを開催。
これが日本初の第1回クラブマンレースになるんですが、アマチュアということもありメーカーも車種も改造範囲もバラバラな異種格闘技のような形となりました。しかし、身近なモデルによるレースという事でメーカー対決とは別の形で人気を呼び、なんとこっちまで翌1959年以降も毎年開催する事となり、またその注目度からメーカーも見過ごせないレースとなりました。
そう、つまりヤマハがYDレーサーのレプリカYDS-1を1959年に発売した理由は、このクラブマンレースでも勝ちたいという考えがあったから。
もちろんそう考えるのはどのメーカーも同じこと。しかし同時に技術力を持ったメーカーほど非常に難しい問題に直面するレースでもあった。
「自社のバイクを勝たせたい」
「自社のレース技術を明かしたくない」
というジレンマが発生したんですね。だから1959年の第二回クラブマンレースを勝ちたかったメーカーは、名目上は市販車としつつも自社の息のかかった人たちだけに供給し勝ちにいく”隠れワークス作戦”に出るところがチラホラあった。
一方でヤマハはこれとは正反対の手段を取った。それが上で紹介したYDS-1とレースKITの一般販売です。自社が持つレース技術の提供、手の内を明かす事でアマチュアの人にYDS-1を選んでもらい、なおかつ勝ってもらうボトムアップのような道を選んだ。
結果として残念ながらレースで優勝は逃したのですが、作戦としては大成功を収めました。
今でこそレースベース車両などが当たり前に買えますが、この頃はレースを想定したモデルというのは存在こそすれ一般人は触る事すら許されなかった時代だったので
「腕に自身はあるがレースに参加できるマシンを持っていない」
という全国で燻っていたライダー達にとってYDS-1の販売は、夢をかなえる手段として人気を呼び、また、レースでヤマハ勢を応援する人、そして優勝を逃したにも関わらずヤマハを称える人が爆発的に増えたんです。
これが何故かといえば自分でも頑張れば買えるバイクで、自分と同じアマチュアライダーが戦ったからですね。
試合に負けて勝負に勝った典型ともいえるこの流れ・・・そう、80年代に巻き起こる事となったレーサーレプリカ(SPレースブーム)と非常に酷似している。
このYDS-1は半身レーサーという要素から一大ブームを巻き起こす事になるレーサーレプリカマーケティングの第一人車とも言えるバイク。
”2stのヤマハ”と二つ名で呼ばれるようになりだしたのはこの頃からで、その理由は単純に速かっただけでなく、いま話したように
「アマチュアに夢を見せてくれる2stを造っていたから」
なんですね。
YDSのモデルチェンジ概要
YDS1(150後期) -Since1960-
ミッションをスプライン式からドッグ式へ変更する年次改良を行ったエスワン後期モデル。見分け方としてはフェンダーが伸びている事と、フェンダーステーがアクスルシャフト部分からの取り付けになっている事があります。
YDS2(152) -Since1962-
通称「エスツー」
22mmの大径キャブレターの採用で3馬力UPし23馬力になり、防水防塵に優れるツインリーディング式のドラムブレーキも採用。先代に引き続きレース用のKITも数多く販売されました。
YDS3(156) -Since1964-
通称「エスサン」
オートルーブ(オイル分離給油式)の採用に伴いデザインが一新された三代目モデル。馬力は更に上がって26馬力となり、後輪も併せて3.25-18に大型化。フェンダーを一本ステーで固定しているのが特徴。
上の写真は発売から半年後の12月に登場したアップハンドルと楕円上のヤマハロゴになった後期モデル。
DS5E(169) -Since1967-
通称「エスゴ」
車名からYが取れた四代目モデルで、アルミシリンダーのポート数を5に増やし29.5馬力に大幅パワーアップ。上の写真は翌1968年のタッカーロールシートと大型ウィンカーを採用したモデル。
厳密に言うとYDS5Eが正式名称で、Eというのはセル付きの意味。ちなみにナンバリングが4を飛ばして5になっているのは4が不吉な数字だったから。
DS6(246) -Since1969-
通称「エスロク」
容量11Lのスリムティアドロップタンクが特徴的なYDS系の国内最終モデル。メーターとヘッドライトを分離し、クランクケースカバーもバフがけする等、質感を大きく向上させました。
セルを取り払い、アップタイプマフラーを採用しスクランブラースタイルのCタイプもありました。
主要諸元
全長/幅/高 |
150:1980/615/950mm
152:1980/615/935mm
156:1975/780/1050mm
169:1990/770/1050mm
246:1990/835/1065mm
|
シート高 |
– |
車軸距離 |
150:1285mm
152:1290mm
156:1295mm
169:1290mm
246:1290 |
車体重量 |
150:138kg(乾)
152:156kg(乾)
156:159kg(乾)
169:143kg(乾)
246:150kg(乾) |
燃料消費率 |
150:80.0km/L
152・156:40.0km/L
※定地走行テスト値 |
燃料容量 |
150・152:15.5L
156:14.0L
169:15.0L
246:11.0L |
エンジン |
空冷2サイクル二気筒 |
総排気量 |
246cc |
最高出力 |
150:20.0ps/7500rpm
152:23.0ps/7500rpm
156:24.0ps/7500rpm
169:29.5ps/8000rpm
246:30.0pr/7500rpm |
最高トルク |
150:1.9kg-m/6000rpm
152:2.1kg-m/6000rpm
156:2.3kg-m/7500rpm
169:2.7kg-m/7500rpm
246:2.92kg-m/7000rpm |
変速機 |
常時噛合式5速前進 |
タイヤサイズ |
150:前3.00-18|後3.0-18
152:前2.75-18|後3.0-18
156・169・246:前3.00-18|後3.25-18 |
バッテリー |
150・152:6-6
156:6-7.5 |
プラグ ※2つの場合は手前が、3つの場合は中央が標準熱価 |
150・152:B6-7H
156:14mm B7HZ |
推奨オイル |
– |
オイル容量 ※ゲージ確認を忘れずに |
1.6L |
スプロケ |
– |
チェーン |
150:チエン3.36
152:チエン2.438
156:チエン2.563 |
車体価格 |
150:185,000円
152・156:187,000円
169:193,000円
246:187,000円 |
系譜図