
「赤とんぼ」
ヤマハの第一作目として有名なYAMAHA125ことYA-1。
Y=YAMAHA
A=125
1=第一号
という事でYA-1という名前なんですが実はこれヤマハ発動機になる前、俗にいう楽器のヤマハ時代に造られたバイクという事はあまり知られてないかと思いますので
「何故ヤマハがバイクを造り始めたのか」
という歴史を簡単に交えつつ長々と・・・。
ヤマハの創始者は他ならぬ山葉寅楠(やまは とらくす)という方。この方がアメリカから輸入されていた高級オルガンの修理をした際に

「自分たちで造ればもっと安く造れる」
と考えて始めたのがキッカケ。
そして見事に日本人として初めてオルガンの製造に成功し1889年に設立されたのが
『山葉風琴製造所(やまはふうきん)』
という会社。ちなみに風琴というのはオルガンという意味。
出資の関係で解散となったものの1891年に河合喜三郎という理解者(援助者)を得たことで
『山葉楽器製造所』
となり1897年に
『日本楽器製造株式会社』
に改組。これが現在のヤマハの始まりになります。

これは当時のロゴ。
ここからオルガンだけでなくピアノなどの製造も始め事業は順調に伸びていったのですが、その卓越した木工技術に目をつけた国から戦闘機のプロペラの製造を要請され、製造と開発をしていました。

終戦を迎えると再びピアノを始めとした楽器の製造を1947年から開始し、楽器屋の道を歩み始めたヤマハだったのですが1950年に転機が訪れました。
賠償指定として取り上げられていた佐久工場の工作機械が
「平和産業のためなら使っていいよ」
というお許しが出たんです。
そこで四代目ヤマハ社長だった川上源一は工作機械を活かすには何が良いか色々と考えた末に

「バイク用のエンジンを造ろう」
となった。
これがヤマハとバイクの始まりなんですが、どうして川上がバイクを選んだのかと言うと・・・バイク好きだったから
「自分たちの造ったバイクで走りたい」
という至極単純な理由だったりします。
そうして工作機器が返還された翌年の1951年から浜北工場にてバイク事業が極秘裏にスタート。
まずは重役を強豪ひしめくヨーロッパへ長期派遣し多くのメーカーの製品や工場を視察。
そうして参考にすべき車両だと上がったのがドイツのアウトウニオン(アウディの前身)が造っていたDKW RT125というバイク。

見ても分かる通りYA-1と通ずる所がありますよね。
「赤トンボはコピーバイクだったのか」
と思うかも知れませんがそれは少し早計。
このDKW RT125は戦前から名機として有名だったのですが、連合国による戦後賠償の一環として権利放棄されたモデルなんです。
いわば著作権フリーな名車で
・BSA
・BMW
・ハーレー
・アグスタ
・メイハツ
などもRT125を参考に造ったモデルが存在します。

この様に戦後は名車を参考にしたバイクを売る事が国内外問わず当たり前でした。
しかしそんな中でヤマハだけは一線を画していた。だからこそ一時期は200社近くいたバイクメーカー戦国時代を生き抜くことが出来たんです。
端的にいうと

「名車RT125より凄いバイクだったから」
の一言に尽きると思います。
まず外見から説明していきます。
当時バイクは黒塗装が絶対と言える時代でした。これは当時はまだ仕事道具または移動手段というツール面が強かったから。だから丈夫に見える黒が人気でどのメーカーも黒一色だった。

しかしヤマハはあろう事かマルーンとアイボリーというド派手なツートンで販売。
シートとハンドルグリップもグレーと本当に当時としては有り得ない配色だった。
他にもフェンダーのナンバープレートなど余計なアクセサリーを取り、フットレストやシフトペダルの形状も変更、そしてタンクの曲率を独自のものに変えるなど様々な意匠が散りばめられていた。

何故こんな奇抜な事をしたのかというと、川上社長が松下電器の社長と海外視察に行った際
「これからの時代はデザイン性が大事だ」
と考えたから。
そこで頼ったのがデザイン会社という当時としては異例な会社だったGK(Group of Koike)デザイン。

バイクに限らずあらゆる物においてデザインのデの文字も無かった時代でGKデザインも創設されて間もない会社でした。
にも関わらずヤマハはデザインに大きなウェイトを置いたから凄い。
ただしYA-1が凄いのは外見ではなく中身も凄かった。
まず第一にミッションを当時としては異例の四速ミッション化。
更に画期的だったのが『プライマリーキック』とよばれる仕組みを造ったこと。

それまでキックスタートの仕組みはこうなっていました。
チェーンを回すアウトプットを経由してクランク(エンジン)を回す形。しかしこれだとニュートラルにギアを入れないとキックできない。
何故ならこの方法は押しがけと同じでギアが入ったままキックすると後輪も回ってしまうから。
そこでヤマハが考えYA-1に採用したのがプライマリーキックシステム。

早い話がミッションを介して回すのではなくキック用のプライマリーギアを設けてエンジン(クランク)を直接回す形。
こうすることで万が一のエンストした時いちいちギアをニュートラルに入れずともクラッチを切ればキックで掛けられるようになった。
今では当たり前とも言えるこのキックシステムを生み出しのは他ならぬこのYA-1なんですよ。

ただしYA-1の一番凄いところはこれまた別にある。
「レースで下馬評を覆すデビュー・トゥ・ウィンを飾った」
という事が凄いんです・・・有名ですね。
1955年2月に発売されたYA-1は
「楽器屋のバイクだからドレミファって鳴くのか」
と最初は大いに馬鹿にされました。

デザインまで拘った事で一作目ながら他所よりも1割ほど高い車体価格(138,000円)だったのも反感を買うには十分な要素でした。
※大卒の初任給が1万円程の時代
発売して間もない頃のカタログをよく読んでみるとその状況が分かります。
「次にお求めの際は・・・」
という何とも弱気なキャッチコピーが書かれているんです。

これはYA-1を完成させ大々的に発表&発売したはいいものの、バイクにデザインなんて求められていない時代だったことで割高感が強く市場の反応が冷ややかなものだったから。
加えて見てほしいのが販売所の一覧。
バイク屋も得体の知れないメーカーの得体の知れないバイクを取り扱おうとする所は無かったんです。だからYA-1は発売当初バイク屋ではなく日本楽器や山野楽器といった楽器屋でしか売る事が出来なかった。

そんな正しく評価されない状況を何とかするためにヤマハが考えたのが日本最古の伝統レースである第三回富士登山レースへの出場。
レース開催の2ヶ月前という有り得ない土壇場での参戦表明。
時間も経験も伝手も全く無い中でもう既に二強状態だったホンダとスズキに勝つなんて誰もが無謀だと思いました。
しかしヤマハにはもう後がなかった。

そのためヤマハは何処よりも富士登山レースに注力。
絶対優勝という命を受けたライダーとメカニックは山に籠もって毎日タイムを上げるに試行錯誤に明け暮れる日々。
ちなみに
『ヤマハ発動機』
という会社が設立されたのもこの時で1955年7月1日・・・なんとレースの僅か10日前の発足なんです。山籠りしていた関係者が知ったのはレース3日前だったそう。

何処よりもレースで勝つ事に執着し、社運を掛けて挑んだかいあってヤマハ/YA-1は見事に125cc部門で優勝。
下馬評を覆す事となりヤマハ発動機そしてYA-1の名が全国に轟きました。

更に畳み掛けるように同年もう一つの国内レースだった浅間高原レースにも出場し今度は表彰台を独占。
「ヤマハ発動機のバイクが一番優れている」
という事をまざまざと見せつける結果となり、それまでの世論が嘘のようにYA-1を求める人達が殺到。
これがYA-1の一番凄いところ。
『処女作ながら圧倒的な速さだった』
という事が凄かったんです。

ヤマハはこのYA-1で確かな一歩を踏み出し、以降も慢心すること無くYC-1(250cc)など上にクラスにも出場し見事に勝利。
更にどのメーカーよりも早く海外レース(米カタリナGP)にも打って出るなどレースに挑み続けた事で今のポジションを獲得するに至りました。
終わりに・・・
ヤマハそしてYA-1が成功した理由を改めて振り返ると今もその精神は変わっていない事が分かります。
「ヤマハの歴史はレースにあり」
と言われるようにヤマハ今もずっとレースに挑み続けています。

ヤマハはバイクが基軸なので売上高で見ると皆が思っているほど大きな会社ではありません。
にもかかわらず勝ってもそれほど話題にならない。
でも負けると
「何をやってんだよヤマハ」
と言われる。
これが何故かと言えばヤマハはYA-1からずっとレースに挑み続けたから。

レースに勝った事で踏み出した一歩をレースで勝つ事でもう一歩踏み出す。
ヤマハはこれをYA-1の頃からずっと続けている。
そしてその事を皆も潜在的に分かっているから、ヤマハが居ないレースなんて有り得ないと考えているからそう言われる。
そしてもう一つ。

デザインのヤマハと言われるようになったのもYA-1で大事にされたデザイン性をずっと守って来たから。
例えばヤマハはレイヤードカウルという重ね合わせる様な凝った外装をやっています。

エンジニアとしては本当はこんな事はやりたくないのが本音。
YZF-R1/4C8のPLを務められた西田さんも
「覆ってしまえばどれほど楽か・・・。」
と仰っていました。
でもデザインの重要性を分かっているから、YA-1からずっと決して軽視しない。
その姿勢を貫き続けてきたからいつしか消費者から
「デザインのヤマハ」
と評価されるようになった。
最後にもう一つオマケ。
YA-1は今もヤマハコミュニケーションプラザの一等地に飾られているんですが、ここでも実にヤマハらしいエピソードがあります。

このYA-1は現役時から展示用として保管されていた物ではなくレストアされたもの。
当然ながら当時の部品なんて無いのでブッシュやラベル一つに至るまでワンオフでレストアされているんですが、ヤマハらしいというのはワンオフで揃えた事だけではなく装着されているタイヤにあります。
YA-1が標準装着していた当時のタイヤはもう存在しないし造れない・・・そこでヤマハがどうしたか

ブリヂストンに特別に用意してもらった無地タイヤに当時のパターンを手彫りで再現したんです。
この手間も惜しまないのが実にヤマハらしい。
ヤマハはバフ掛けされたアルミパーツやサンバースト塗装や真鍮音叉など、職人の手で一つ一つ造る部品を数多くのバイクに採用しています。

生産も市場縮小を逆手に取って国産は流れ作業で組まれるライン生産ではなく数人で全てを組む手組みに近いセル生産。
ここまで来ると工業製品というよりもはやクラフト、工芸品と言っていい。そんなバイクをヤマハは当たり前の様に造り・・・そして当たり前の様に売っている。
『レーシングスピリット』
『デザインセンス』
『クラフトマンシップ』
ヤマハが今も持ち続けているこの武器であり精神は全部この赤とんぼに繋がっている。

原点にして現在も現すYAMAHA125/YA-1。
正にヤマハの化身ですね。
主要諸元
全長/幅/高 | 1980/660/925mm |
シート高 | – |
車軸距離 | 1290mm |
車体重量 | 93kg(乾) |
燃料消費率 | – |
燃料容量 | 13L |
エンジン | 空冷2サイクル単気筒 |
総排気量 | 123cc |
最高出力 | 5.6ps/5500rpm |
最高トルク | 0.96kg-m/3300rpm |
変速機 | 常時噛合式4速リターン |
タイヤサイズ | 前後2.75-19 |
バッテリー | – |
プラグ ※2つの場合は手前が、3つの場合は中央が標準熱価 |
– |
推奨オイル | – |
オイル容量 ※ゲージ確認を忘れずに |
– |
スプロケ | – |
チェーン | – |
車体価格 | 138,000円(税別) |