「快走する”メカニズム”」
1959年にホンダが発売したベンリィスーパースポーツCB92。略してベンスパという愛称を持っています。
いきなりこんな古いバイクを出されてもピンと来ない人が多いと思うので最初に説明しておくとこのモデルは
「一番最初にCBと名付けられたバイク」
になります・・・そう、FOURはもちろんCB-FやCBRなど今も続くホンダ車の代表的な名前”CB”の始まりとなるのがこのモデル。
ということで
「このモデルが何のために造られたのか」
という歴史的な話を割愛しつつ長々と。
ホンダは1949年にペダルのない正真正銘のオートバイを初めて開発しました。それがドリームD型(98cc)と呼ばれる2サイクル単気筒のバイクです。
更に1951年には2サイクルが主流だった中で信頼性のある4サイクルなうえにいち早くOHVとミッション一体型クランクを取り入れたハイテクマシンE型(146cc)を投入。
E型は堅牢で性能も良かった事からホンダ初のロングセラー車となり派生モデルも多く登場しました。ちなみに開発者は後に二代目ホンダ社長となる河島さんです。
そんなE型の成功で高性能オートバイメーカーの仲間入りを果たしたホンダだったんですが1954年に鼻をへし折られる出来事が起こります。
ブラジルのサンパウロで行われる国際オートレースにメグロと共に出場することになったんですが、ホンダは自慢のE型をベースにしたR125というマシンで出場したもののコテンパンにやられてしまったんです。
完走こそすれどモンディアル・ドゥカティ・NSUなど欧州メーカーの前にはOHV125ccで6馬力足らずだったR125は明らかに性能負けしていた。
この欧州メーカーとの性能差は同年に欧州視察の一環でマン島TTを見物した本田宗一郎も痛感。
それにより有名なマン島TTレース(世界最高峰レース)出場宣言をするんですが、まずは量販車を何とかしないといけないとしてホンダは翌1955年にドリームSA(246cc)とドリームSB(344cc)とよばれるモデルを新たに開発しました。
最大の特徴は性能を上げるため珍しかったOHVをやめ更に珍しかったOHCにした事。
これにより大幅なパワーアップに成功。※当時はサイドバルブが基本
このモデルが誕生した背景には上記の海外勢との性能差が一番にあるんですが、同時に国内事情も大きく関係しています。
ドリームSA/SBが発売された年というのは国内初の大規模レースが開催される年でもあったんです。
『全日本オートバイ耐久ロードレース』
群馬県と長野県にかかっている浅間高原の道路をコースに見立てたレースで
『アサマレース』
とか
『浅間高原火山レース』
という呼ばれ方もしている日本小型自動車工業会主催のレース。
参加条件は国内メーカーによる国産車であることで、クラス分けは125cc、250cc、350cc、500ccと世界レースに準拠。
狙いは国内産業の発展という正にマン島TTと同じで、技術競争はもちろん最高の宣伝にもなる事からホンダも出場しました。
※レース全体を書くと収拾がつかなくなるので125クラスに絞って書きます
1955年の記念すべき第一回にホンダは自社製125を象徴する名前でもあったベンリィ号を改造したファクトリーマシンで挑戦することを決めました。
補足しておくと当時のホンダ車は125がベンリィ、250がドリームという感じです。
この頃には既にE型の成功やドリームSA/SBで有名メーカーだったので
「ホンダかトーハツが勝つだろう」
と誰もが予想していた・・・ところがそうはならなかった。
結局125クラスで勝利を収めたのはホンダでもトーハツでもなくヤマハ。そう、赤とんぼで有名なYA-1です。3万人を超える観衆が居る中で1~3位独占という快挙を成し遂げ一躍して時のメーカーに。
対して世界レース参戦を4年後に控えていたホンダは足元をすくわれる結果となってしまった。
ホンダはこの敗戦に加え2stメーカーが二気筒化による性能向上を始め(特にスズキが)驚異になりだした事もあり、世界レースのために開発していた技術を国内モデルにも注ぐ事にし手始めに開発されたのがドリームC70(247cc)というバイク。
本田宗一郎監修の神社仏閣デザインである事が有名なモデルですが、同時に2気筒OHC247ccのエンジンを積んだハイスペックモデルでもありました。
このモデルをベースに2年後の1957年に開催された第二回全日本オートバイ耐久ロードレース250クラスを戦ったわけですが、同時に125クラスでもこのエンジンを半分にした
『ベンリィ C80Z』
というファクトリーマシンを開発しリベンジに燃えた・・・が、またもや勝てなかった。
過度なチューニングによってオーバーヒートを起こしてしまいリタイヤ。再びヤマハに負けるという屈辱的な結果に終わります。
まさかの二連敗を喫してしまい三度目の正直となるはずだった翌1958年開催予定の第三回全日本オートバイ耐久ロードレースは不運なことに開催で折り合いがつかず翌年に延期。
ただし代わりに開催される事となったのが
『全日本モーターサイクルクラブマンレース』
というアマチュアレース。
もともと行われていた全日本オートバイ耐久ロードレースは
「メーカー競争による技術向上」
が狙いだったのでメーカー(ファクトリー)の参加しか許されていなかった。今風にいうと全日本版MotoGPみたいな感じ。
そこで新たにクラブ会員(メーカーに従事していない人)だけが量販車で競い合う
『みんなの耐久ロードレース』
を開催しようとバイク愛好家たちが中心となり発起。今風に言うとスーパーバイクレースを新たに開設したわけです。
そんな記念すべき第一回クラブマンレースにはもちろんホンダ車で挑む人たちもいた。125クラスで目立ったのは同年に発売され人気だった二気筒SOHC125のベンリィC90をベースにしたマシン。
しかし出場する人のベンリィをよく見てみるとフレームが量販車の鋼板プレスではなく、見たことが無い特注のパイプフレーム(恐らくバックボーンフレーム)に変更されていたりした。
「特注フレームってそれファクトリーマシンでは」
という話ですが、案の定そういうクレームというか正論が巻き起こり他の参加者たちが怒ってボイコットを宣言したためレギュレーション違反扱いとなり敢えなく失格。
ただ少し擁護しておくとこの様に一般人を装ってファクトリーマシンで参戦という手段を取ったメーカーは他にもいたため急遽
『クラブマン模擬レース』
という実質全日本オートバイ耐久ロードレース枠が設けられ、そちらで走ることになりました。非公式なので記録は無いものの実質ファクトリー対決なので凄く盛り上がった模様。
ここまでホンダとは思えないほど良いとこ無しな状況が続いたわけですが、その汚名返上となるのが世界レースに参戦した初年度でもある1959年の第三回全日本レースと第二回クラブマンレース。
この年は全日本とクラブマンが併催という形になったんですが、負けが込んでいたホンダはもう本当に後が無かったのかファクトリー対決となる全日本125クラスにとんでもないマシンを投入します。
なんと世界レースで入賞を果たしたばかりファクトリーマシンRC142を投入したんです。
しかもちゃんとコースに合わせたアサマチューンを施してライダーも同じという本気度120%状態。
そしてもう一つの量販車によるレースであるクラブマンレースも失格となった前回の反省を活かし
『クラブマンレースのための量販車』
として世界レースにも持っていた別のレーサーを販売することで合法化。そのマシンこそがこのページの主役でもあるこれ。
『Benly Super Sports CB92』
ベンリィC90にセルモーターを付けた後継C92をベースにクラブマンレース用として開発したマシンだからベンリィスーパースポーツCB92。略してベンスパ。
豆知識の方で
「CBのBはCLUBMANのB」
という話を書いたのですが、その意味もこれでわかると思います。
※正確に言うと最初にクラブマンレース用として発表したのはCB90だったものの実際に販売&出走したのはCB92
CB92はファクトリーマシンRC146ですら18馬力程度だった中で、15馬力という負けない馬力を量販車ながら兼ね備えていたまさにモンスターマシンでした。
さらに
・マグネシウム大径ドラムブレーキ(初期型のみ)
・アルミタンク&フェンダー(初期型のみ)
といった贅沢な軽量化にも余念がないうえに
・ハイコンプピストン
・専用バルブスプリング
・メガホンマフラー
・専用シングルシート
などなどレースのための部品もあった。
通称『Y部品』と呼ばれる今でいう所のレースキットで、ホンダはそれらの部品や組み付けられた車体を”特定の参加者のみ”に配りました・・・そうなんです。
このCB92は直々の参加(ワークス参戦)が禁じられていたクラブマンというレースで必勝するため、ホンダの息がかかっているクラブやショップにのみ卸し、代わりに戦ってもらうという手段を取ったんです。
『CB92レーサー(社内コードCYB92)=CB92+Y部品(レースKIT)』
その結果このCB92は遂に、念願のクラブマンレース125クラス優勝を果たしました。
でもCB92が凄かったのはここから。これがCBブランドが繋がる。
クラブマンレースで優勝したライダー及びマシンはそのままメーカー(ワークス)だけの全日本へ出走が許されるルールになっていたため、クラブマンレース125で優勝した若干19歳の北野選手が乗るCB92も全日本にそのまま出走。
そしたら全日本の方でもライバルはおろか世界レース用のファクトリーマシンRC142をも抑えて勝っちゃったんです。
喉から手が出るほど欲しかった全日本125のタイトルをCB92で取ってしまった。まさかのWタイトルを達成。
この結果に日本中のバイクファンが驚きました。
そりゃそうですよね量販車がファクトリーマシンに勝ったんだから。今で言えばMotoGPレースに飛び入り参加したCBR1000RRがRC213Vに勝つようなもの。
この結果、クラブマンレースに出走させるための名目量販車でレース終了後に回収して終わるはずだったCB92の購入を希望する人たちが殺到。
そこでホンダも細部を変更しつつも本当にCB92を量販車として販売することに。
更にそのCB人気に押されるように翌年には250版もCR71からCB72へと変更され、それも同じく非常に高性能で人気を博したことからクラブマンレース用でしかなかったはずの名前であるCBはいつしか
「CB=ホンダの凄い量販車を示す名前」
という認識まさにCBブランドとなり、CB750FOURやCB750FそしてCBR1000RR-Rと60年以上経った今も続いている・・・というお話でした。
【参考資料】
オートバイの光芒|百年のマン島|世界MC図鑑|日本の自動車アーカイブ|その他
【関連ページ】
最も危険で最も崇高なレース マン島TT|諸説あるホンダ”CB”の語源|CB1300の系譜
主要諸元
全長/幅/高 | 1875/595/930mm |
シート高 | – |
車軸距離 | 1260mm |
車体重量 | 110kg(乾) |
燃料消費率 | 60km/L ※定地走行燃費 |
燃料容量 | 10.5L |
エンジン | 空冷4サイクルOHC2気筒 |
総排気量 | 124cc |
最高出力 | 15ps/10500rpm |
最高トルク | 1.06kg-m/9000rpm |
変速機 | 前進4速リターン |
タイヤサイズ | 前2.50-18 後2.75-18 |
バッテリー | |
プラグ ※2つの場合は手前が、3つの場合は中央が標準熱価 |
– |
推奨オイル | – |
オイル容量 ※ゲージ確認を忘れずに |
全容量1.2L |
スプロケ | – |
チェーン | – |
車体価格 | 155,000円 |