ヤマハといえば青か黄黒か白赤か ~ヤマハカラーとストロボの歴史~

ヤマハカラー

最近はそうでもないですがヤマハといえばストロボと思っている方もそれなりに多いかと思います。

細かいことを言うと、主に黄色や赤に使われる繋がっているものをスピードブロックやチェーンブロック、青に使われる繋がっていないのをストロボと分ける場合もありますが基本的に元ネタは同じ。

スピードブロックとストロボ

じゃあヤマハのストロボカラーと言ったら何色かと問うと

「黄色に黒スピードブロックに決まってるだろ」

という人が多いかと思いますが、中には

青白

「ストロボといえば青に白でしょ」

と思っている人や

赤白

「いやいや白赤ストロボでしょ」

と思っている人もそれなりに多いかと。

そもそも

「ヤマハカラーって何色なんだ」

って話ですが歴史的にいうとヤマハカラーは白赤になります。

ヤマハRD56

これはヤマハが世界GP250で初めてタイトルを獲得した1964年のRD56。

ちょうどこの頃からデザインも始まっているんですが、見て分かるように白地に赤一文字。

日の丸が由来

ちなみにこれの由来は日の丸です。

そして数年を経て赤ラインの上下を紺色で囲うようになりました。

世界グランプリ50周年

ヤマハがWGP(世界レース)参戦50周年を記念して出した限定モデルが赤白だったのもコレで納得ですね。

しかし一方でストロボの歴史はというと実はこの赤白ではありません。

ヤマハのWGP初期

確かに白赤も1978年あたりからストロボですが、このストロボの始まりはアメリカにあります。

ヤマハは1960年頃にアメリカ進出したものの、当時はまだ小さかった事もあり親会社だったヤマハ楽器の現地法人

『ヤマハ”インターナショナル”コーポレーション』

を拠点とし、レースで目立つ為に

『黄色ボディに黒ライン』

というカラーリングを1972年頃から採用しました。

インターカラー

黄/黒がインターカラーと呼ばれる由来はここにあるわけです・・・が、実はストロボは当初の予定にはありませんでした。

では何故ストロボになったのかというとレースチームのコンサル兼グラフィックデザイナーを務めていたモーリーサンダースという人が

「ただのラインじゃ面白くないな」

という事でアメリカの国民的レースだった1972年のデイトナ200のマシンに白いラインを入れてストロボ(米名:スピードブロック)にしたわけです。

1972年のデイトナ200

これがストロボの始まり。ちなみに横に写っているのは若かりしケニー・ロバーツ。

更にアメリカ国内のモトクロスやダートのファクトリーマシンにも同じストロボラインを入れるように。

そしてデイトナ200の五連覇など大活躍した事から

1973年のデイトナ200

『ヤマハ=スピードブロック(ストロボ)』

という認識が全米で定着したわけです。

そして勢いそのままにUSヤマハから1974年にWGP250、更に1978年からはトップレースWGP500へと舞台を世界に移行。

キング・ケニー

ケニー・ロバーツが一年目にも関わらずワールドチャンピオンに輝くという大活躍でスピードブロックが世界中に知れ渡ったわけです。

これによりUSヤマハの象徴だったストロボはヤマハ発動機の象徴となり、伝統だった白/赤にも1978年ごろから反映される様になった。

ヤマハカラー

つまり伝統色は赤/白、一方でストロボは黄/黒が起源というわけ。

まあこの経緯はレースを知るものには有名ですね。

でもヤマハと言えばもうひとつ色がありますよね。

R6ブルー

「青は何処から来たの」

って話・・・なんですがこれがハッキリしない。

ただヤマハの歴史とカラーリングを徹底的に調べた結果、ある結論が出たのでそれを書いていきます。

ヤマハは90年代半ばまでレーサーも市販車も伝統の白/赤推しでした。

では何故ブルーがこれほどしっくり来るのかと言えばMotoGPとロッシの影響が大きいかと思います。

コスワースヤマハ

ヤマハは2003年からゴロワーズとスポンサー契約を結び、青ベースのスポンサーカラーになりました。

そして翌年にロッシを迎え入れMotoGPチャンピオンに。写真では見えませんがタンクにストロボが入っています。

その後も2007年からはFIATとのスポンサーで再び青になってロレンソ共々大活躍。

フィアットヤマハ

青いマシンで活躍する期間が長かったら、すんなり受け入れられたという話。

今もモビスターの青がベースですしね。

つまりケニー・ロバーツ時代を知る世代の人が

「ヤマハといえばインターカラーだ」

と思っている事と同じ様に

「ヤマハといえばヤマハブルーだ」

と思ってる人が多いのはロッシ時代を知る世代の人なんだろうなと・・・そう考えるとやっぱりレースの宣伝効果って凄いですよね。

ただし、これは日本で受け入れられた事の話。

そもそも”青×ストロボ”の初出は国内に限って言うと1984年に出たRZ250RのYSP限定モデルが最初。

フィアットヤマハ

青ストロボというより伝統色の青バージョンというかシアンバージョン的な感じで、これをヤマハブルーの始まりと呼ぶには少し抵抗がありますよね。

ただこの色には元ネタがあります。

これはソノートヤマハというフランスのヤマハ代理店(現フランスヤマハ)の色なんです。

ソノートヤマハTZ250

1984年のWGP250で優勝したんですが、同郷のよしみかゴロワーズがスポンサーだったため青色でした。

シアンブルーなRZはこのソノートヤマハ(ゴロワーズカラー)をイメージした色なんです。

「ヤマハブルーと関係ないじゃん」

と思いがちなんですがそうでもなく、ヤマハブルーの起源も恐らくソノートヤマハにあります。

ソノートヤマハ

「ソノートヤマハもWGPに参戦していたからか」

と当時を知る人は思うかもしれませんがWGPが要因ではありません・・・要因はパリダカにあります。

1979ダカール

ヤマハは1979年の第一回優勝、第二回は1位から4位まで独占という偉業を達成しました。

そして国際レースに昇格された1981年からもソノートヤマハとして参戦していたんですが、その際のカラーリングが青ボディに黒ストロボだった。

ソノートヤマハXT500

これはその時のファクトリーマシンXT500Ténéréです。

ストロボがUSだけでなく伝統色の赤白でも採用されるようになった数年後で青系ストロボはこれが最初。

XT600テネレ

こっちは1983年に発売された市販バージョンのXT600テネレ。ばっちりストロボが入っている。

ここまではシアンチックなんですが、それが大きく変わったのが1985年のファクトリーマシンXT600Ténéré。

0U26

パリダカ人気の高まりからゴロワーズがスポンサーとなり鮮やかな青に。ココからはずっとファクトリーマシンはこの色。

そして1989年に誕生したスーパーテネレもそれに倣って濃い青・・・しかもストロボ付き。

0U26

明らかに欧州向けが一足先にブルー推しになっているんです。

そしてそして何よりパリダカが要因と言い切れるのは、鮮やかな青に身を包んだファクトリーマシンSuper Ténéréがパリダカで

『三連覇&四連覇(91~93,95~98)』

という前人未到の偉業を達成したから。

ヤマハブルーのパリダカ

「ヤマハが地球を支配した」

と欧州で大きく話題となりました。

日本ではそうでもないんですが、ダカールラリーというのは欧州(特にフランスやイタリア)では国民的人気のレース。

だからこの偉業によって

「ヤマハと言えばブルー」

というのが欧州で定着した。

ヤマハブルーのYZ

90年代半ばになってヤマハがモトクロッサーなどオフロード車を紫から青に変えた事。

そして現代的な青ストロボを一番最初に採用したオンロードモデルが欧州向けのYZF600Rサンダーキャット(1994年)である事などから鑑みても間違いないかと。

サンダーキャット

「ヤマハブルーの起源はパリダカにあった」

という豆知識というか考察でした。

纏めると

白赤:日本ヤマハの伝統色

黄黒:北米ヤマハの伝統色

青白:欧州ヤマハの伝統色

それぞれちゃんと歴史があるんですね。

グローバルでもブレないホンダの海外広告

ホンダ

ホンダは業界1位なだけあってか、海外でも国内とさほど変わらず真面目な啓発系の広告が多いですね。

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WANNA FLY?
(飛びたい?)

WANNA FLY?

ホンダのホームページ広告。

直球なキャッチですが上手い言い表しですね。

THE INCREDIBLE GIANT CHRISTMAS STOCKING
(大きくて丈夫な靴下を用意しよう)

クリスマス商戦ホンダ

クリスマス商戦のチラシ。

サンタさんからミニバイクをプレゼントされても大丈夫なように大きな靴下を用意しておこうという遊び心あふれる広告。

RESPECT YOUR MOTORBIKE’S IDENTITY
(その独自性には敬意を払います)

違法改造防止4
違法改造防止
違法改造防止3
違法改造防止2
違法改造防止5

バイク用じゃない部品を付けるということは全く別のものを付けているという事ですよ。

という要するに違法改造防止を呼びかけてるホンダ部品のカレンダー広告。

IF IT’S NOT GENUINE HONDA,
YOU NEVER KNOW WHAT YOU’LL GET.
(どうなっても知らないぞ)

純正部品を使いましょう1
純正部品を使いましょう2
純正部品を使いましょう3
純正部品を使いましょう4
純正部品を使いましょう5

これも上記と同じ意味合いの啓発広告。

ガレージ文化が根強いアメリカらしいですね。

A New Japanese Power
(新しい日本車の力)

CBR500Rの広告

CBR500R(CS500F)の広告です。

ハンドルが日本刀の様になっていて面白いですね。

HONDA HELMET
(ホンダのヘルメットを被りましょう)

ホンダヘルメット

ホンダヘルメットの広告。

日本古来から続く伝統技術によって作られたホンダのヘルメットを被り命を守りましょう…..?

Our motorcycles are 95% recyclable
(私達のバイクは95%が再利用される)

ホンダのリサイクル率

環境対策の広告。

ライダーが鉄筋に乗る事で高いリサイクル率をアピールしています。

HIGH PERFORMANCE BRAKE SYSTEM
(ホンダのハイパフォーマンスブレーキシステム)

ハイパフォーマンスブレーキ
ハイパフォーマンスブレーキ2

コンビブレーキの広告です。

ブレーキの性能の良さを表してます。

SEVEN YEARS CHAMPION
(七年連続優勝)

TENKATECBR600RR

CBR600RRの広告です。

速すぎる600RRのせいで優勝台から一位が無くなり、分かりきった結果のせいで観客も居なくなったと言いたいのでしょう。

THE QUEEN IS BACK
(帰ってきた女王)

ホーネット広告

ホーネット600の広告。

働き蜂達が帰ってきた女王に群がっています。

PCX.WUAITO MAS LONSE MELHOR
(減らないメーター)

PCXとメデューサ
PCXとドラキュラ
PCXと狼男

PCXの広告です。

これはちょっとわかりにくいんですが、メーターがゼロになると居座る怪物(メデューサ・ドラキュラ・狼男)を退治できるアイテムが手に入るけど、PCXは燃費が良すぎるために一向に減らず退治できない。

という事を表しています。

SO FAST THAT NOBODY SAW IT
(あまりの速さ故、本当の姿を見たものはいないという)

CBR1000RR
CBR1000RR2
CBR1000RR3

CBR1000RRの広告です。

その速さはもはや神話級という事でしょう。

Extension de Garantie
(延長保証)

ホンダの延長保証

延長保証の広告。

車種のチョイスが完璧ですね。

貴族バイクGOLDWINGの意外な過去

芸術のヤマハ

ゴールドウイングは1975年に発売され、今となっては唯一無二の水平対向エンジンのグランドツアーとして2015年に40周年を迎えた偉大なバイクですね。

「貴族が乗るキング・オブ・バイク」のコンセプト通り常駐する市販車としては最高価格を誇り、ホンダの頂点にずっといる。(詳しくはGOLDWINGの系譜をどうぞ)

さて本題。

タイトルにもなっているようにそんな貴族バイクであるゴールドウイングの”意外な過去”とは何なのか?

ゴールドウイング白バイ

警察仕様の白バイ黒バイがあったこと?

いえいえそんなことでは有りません。

GL1000

時代は遡って1977年、つまり初代モデルGL1000で出で少し経った頃の話。

実はこの頃、ホンダはゴールドウイングの水平対向エンジンを流用したモデルを作って発売していたんです。

分かりますか?水平対向エンジンを積んだホンダのバイク・・・ちなみにワルキューレではないですよ。あれはずっと後の話。

恐らく誰も思いつかないと思います。
だってそんなバイクは有りませんから。(試すようなことしてすいません)

ゴールドウイングのエンジンを使って作ったモデルの正体はコレ。

アクティ

ホンダ・アクティ(1977年~)

なんと軽自動車、というか軽トラだった。貴族のバイクのエンジンが軽トラに・・・。

ちなみにGL1000の水平対向四気筒エンジンをそのまま使っているわけじゃなくて簡単な話、真っ二つに切った並列二気筒の物。

EHエンジン

真っ二つに切ったエンジンと言えばNC700シリーズが
「フィットのエンジンを真っ二つに切ったエンジン」
と言われてますが、あれはフィットのエンジン(ボア×ストローク)を参考にしたという話でフィットのエンジンを使ってるわけではないです。

ゴールドウイングの場合はシャフトドライブで構造も車のエンジンだったから流用しやすかったんでしょうね。(もしかしたら最初から共有化前提だったのかも)
だからアクティとGL1000(GL1100)でタイベルを始めとした共通部品が結構あったりします。

ということで
”ゴールドウイングのエンジンは軽トラにも積まれていた”
という意外な過去でした。

だからってゴールドウイングのオーナーに
「これ軽トラにも使われてるエンジンですよね!」
とか冗談でも言ってはダメですよ。

流石に今のアクティとゴールドウイングは全く違いますから。

オマケですが

トゥデイ

80年代に入るとこのエンジン(EH型)は初代トゥデイにも載せられました。

today・・・

today

今トゥデイと言えば原付のこっちですよね。

ホンダにとっての最高級モデルのゴールドウイングと最廉価モデルのトゥデイ。

名前だけとはいえ対極に位置する二車の意外な接点ですね。

モラルハザードなカワサキの海外広告

kawasaki

カワサキの海外広告です。下品といいますか不道徳な物が多いです・・・

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MORE THAN HORSEPOWER
(馬力を超えろ)

馬力を超えろ

Z1000の広告。

Z1000をバッファローで表しているのが面白いですね。

Foi até dificil
(日本では困難)

ninja

Ninjaの広告。

日本は狭いから本領を発揮するのが難しい。だからこそアナタ達(ブラジル)に乗って欲しい。

WE KNOW SPEED!
(我々は知っている!)

WE KNOW SPEED

世界一速い新幹線を作ったのは私たち。そして世界一速いバイク500SSマッハ3を作ったのも私たち。

GOES FAST,STOPS FASTER!
(加速も速いが止まるのも速い)

GOES FAST
STOP FASTER

ZZR1400の広告。

制動力の高さをアピールしていますね。

0-100 in 2.5s
(0-100 2.5秒)

ZZR1400
2.5秒

ZX-14Rの広告。

その速さは獲物を捉える生物の速さと同等。

KAWASTRA
(カーワ・スートラ)

カーワスートラ

古代インドの性愛論書(カーマ・シャーストラ)をもじった広告。

カーマストラについてはWikipediaをどうそ。

The Ninja ZX-6R

ZX-6Rの広告

ZX-6Rの広告。

怪我しようがコレだけは止められない。

ORBIS
(オービス)

オービス

ZX-10Rの広告。

オービスが機能していないフェイクの物だということを嘲笑う広告。

もしくはオービスすら機能しない速度で駆け抜けたか。

誠徴 大膽女友。
(求む 勇敢な彼女)

ZX-10Rの広告

これもZX-10Rの広告。

ZX-10Rでタンデムする根性のある女性を募集しています。

THE NEW ZZR1200

ZZR1200の広告

ZZR1200の広告。

あまりの速さ(Gに)に服が置いて行かれてます。

it flies.
(飛べる)

ZX-12Rの広告

ZX-12Rの広告。

シンプルかつストレート。

any question?
(え?なに?)

ZX-9R
ZRX1200S
ZX12R

天地が引っくり返っている状態で爆走。キャッチが良い味を出してますね。

SPEEDY
(迅速)

ZX-12Rの広告

これもZX-12Rの広告・・・。

ARE YOU READY?
(準備は出来てるか?)

ZX-12Rの広告

これまたZX-12Rの広告。

警察がZX-12Rの一斉摘発に動き出したようです。

THE NEW Z750

Z750の広告

Z750の広告。

説明不要かと・・・なんとも痛烈です。

デザインのヤマハ、実は外注だった

芸術のヤマハ

優等生のホンダ、芸術のYAMAHA、変態のスズキ、漢のカワサキ・・・メーカーをユーモラスを含んで上手く例えたよく見る言葉です。

ヤマハは「デザインのヤマハ」「芸術のヤマハ」とよく言われますね。その理由は周知の通り卓越した車体デザインから。

YZF-R1やVMAXと言ったスペックとデザインが高いレベルで融和しているバイクもあれば、SR400やセローといった色褪せぬ伝統的なデザインのバイクもあります。

最近ではY125もえぎが話題になりましたね。

もえぎ

でも実はこれらヤマハのバイクはヤマハがデザインしてるわけではないんです。

デザインしているのは日本を代表すると言っても過言ではないデザイン会社である「GKデザイン」の一翼である「GKダイナミクス」というグループ会社です。

ちなみにGKというのは元々東京芸術大学の小池教授とその門下生が作った組織Group of Koikeから。

GKダイナミクス

「なんだヤマハって外注デザインだったのか」

と思うのはちょっと早計です。ヤマハとGKの繋がりはとても長く切っても切れない関係なんです。

このヤマハとGKデザインの関係が始まったのはYA-1、つまりヤマハ第一号のオートバイから。

ヤマハ125

1955年当時はまだ”デザイン”という仕事が十分に確立されていない時代。そんな中でもヤマハはデザインに対する意識は非常に高かったそうです。
その結果がGKデザインという当時としては珍しいデザイン会社への外注という手段を取ることになり、結果としてYA-1という素晴らしいデザインのバイクが生まれました。

そんな創業時の出来事以降、ヤマハのバイクデザインには全てGKが絡んでいます。(一部のスクーターはエルムデザインというヤマハの関連会社がデザイン)

これは国内四社どころか製品を作る企業全体で見ても特異な事。
「自社にデザイン会社を持ち、たまに有名なデザイナーに依頼。」
というのが一般的ですからね。

ヤマハ発動機本社ビル

つまりヤマハとGKの付き合いは半世紀以上になるのですが、とても不思議な事に両社の間に資本的な関係はありません。これだけ長いこと一緒に歩んできて両社とも日本を代表するほどの企業にまでのし上がったにも関わらず完全に別の会社。

だから外注といえば外注なんだけど、その中にはヤマハ側の人間も絡んで二人三脚で作っているので「外注」という言葉で簡単に片付けられる関係では出来ないんですね。

原付一種(50cc)が30km/h制限になっている理由

30km

「原付の最高速が30km/hなんて間違っている」

という止むことのない問題というか問い合わせ。

少し検索してネットニュースなどを読み漁ったところ、アンケート結果でも約80%の人間が

『30km/h規制は不要』

と答えられていました。

・時代に即していない

・理不尽でかわいそう

・逆に危ない

・白バイの餌

などなど非難轟々ですが

「じゃあなんでそうなっているのか」

という根拠というか運転免許及び取締を担っている警察庁の言い分を聞くと納得する人も居ると思うので書いていきたいと思いますが、最初にザックリ要約した答えを言うと

警察庁の見解

「これが妥当だから」

というのが答えなんです・・・何が妥当なんだと怒り心頭かも知れませんがお付き合いを。

そもそも原付免許(50ccまでの運転免許)がいつ誕生したのかというと1952年で

『第一種(50ccまで)許可』

という現在の原付一種に通ずる許可証が最初。30km/h規制もこの時に定められました。

そこから更に1955年に試験が必要な今の

『第一種原動機付自転車免許』

へと変更。これが原付免許の始まりになります。

余談ですが原動機付二輪ではなく”原動機付自転車”という名前になってるのは、この免許が誕生した頃の50cc原付はカブF号のように自転車にエンジンとゴムベルトを後付して乗るバイクモーターがメジャーだったから。

バイクモーター

ちなみにこの自転車スタイルが滅んだのは1958年にスーパーカブが登場した事が要因。

話を戻すと、一方で51cc以上の免許区分はなかなか目まぐるしい変化を繰り返しており現在では

・大型自動二輪(排気量無制限)

・普通自動二輪(400ccまで)

・小型自動二輪(125ccまで)

と細かく区切られています。

これほどまでに細分化した理由はもちろん事故が増えたから。

運転免許の経緯

しかしその中で原付一種だけはどれだけ環境や性能が変わろうと1955年からずっと

「1日で簡単に取れて簡単に乗れる」

という立ち位置だった。

70年代後半のゼロハンブーム(50ccで100km/h弱も出るバイクが急増)で若者の事故が増えようと、80年代のファミバイブームで主婦の事故が増えようと、まるで聖域かのように運転免許制度が大きく見直される事はなかった。

50ccブーム

この理由は警察庁も原付一種がそれだけ多くの人の足として重宝されている(お財布的にも時間的にも)最も優しい公道を走れる機械装置だという事を理解しているから。原付一種を厳しくすると困る人、交通弱者が多く出ることを分かっているから厳格化しないんです。

皆さん道路交通法というと違反や罰金というイメージが真っ先に来ると思うんですが

『安全と円滑』

といって要するに捗るようにする役割もあるんですね。

【道路交通法 第一条】
この法律は道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図り、及び道路の交通に起因する障害の防止に資することを目的とする。

しかし円滑と同時に交通事故を防ぐ”安全”も重要だから

「30km/hまでしか出しちゃ駄目だぞ」

という特例に近いルールを設けているというわけです・・・が

50ccライダー

「せめて40km/hまで許してやれよ」

と思われている方も多いかと。

20km/hと30km/hはそうでもないですが30km/hと40km/hは雲泥の差がありますよね。痛いほど気持ちは分かるんですがこれにもちゃんと根拠があるんです。

「30km/hが事故の命運を分けるボーダーライン」

という根拠です。

原付は遅すぎて逆に危ないという意見がよく言われていますが、恐らくそういう方が想像されている危険性というのはこういう形じゃないかと思います。

原付の危険性

追い越しによる巻き込みや追突ですね。確かにこれも死角に隠れがちになるから危ないのは事実。

特にクルマ乗りの方がこれを危惧されていると思います。何故ならクルマで最も多い事故は追突だから。

でもクルマとバイクの相互事故で危ないのはこれじゃない。事故の原因ページでも書いたんですが、バイクで最も多くまた最も危険な事故はクルマとの正面衝突なんです。

原付の危険性

どうして正面衝突が危険なのかといえば、速度がそのまま衝撃として自分に跳ね返ってくるから。

どうして正面衝突ばかり起きるのかといえば、クルマがバイクを見落としてしまうから。

それを考慮したうえで見てほしいのが下記の速度別危険認知度(事故直前に出していた速度)の統計。

危険認知速度の割合

30km/hを超えると死亡事故率が跳ね上がっているのが分かると思います。

まして原付は筆記受かっただけで放り出される上に、剥き出しで軽く小さいのでスピードを出すと非常に危険。

ちなみにこれは単独事故でも同様の結果が出ています。

単独事故での死者数

30km/hを超えると事故全体の割合が少ない単独事故ですら亡くなってしまう人が出てくる。

そのため医療の世界でも30km/h以上での事故による怪我を

『高エネルギー外傷』

といって軽傷に見えても注意が必要だとしています。

更にダメ押しとなるのが歩行者が死傷してしまう事故と速度の関係。

原付の危険性

これまた30km/hを境に跳ね上がっているのが分かるかと。

原付一種の速度上限が30km/hとされている根拠はこれら。こういった事を予防するために30km/hになっている。

最後に纏めると原付一種を”安全と円滑”その両方を尊重する必要がある道路交通法に沿わせる、妥当性を持たせる為に出した結論が即日発行と30km/hの速度規制。

「原付一種が30km/hに制限されているのは取得が容易で簡単に乗れるからであり、取得が容易で簡単に乗れるのは30km/hまでしか速度を出すことを許されないから」

というわけです。

相変わらずシャレてるヤマハの海外広告

ヤマハ発動機

洒落てるヤマハの海外広告です。

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R1 998cc 150ps

YZF-R1 4XV

YZF-R1初代モデルの広告です。

ヘルメットがバイク用ではなく航空機用の物でいかに凄いマシンかをアピールしていますね。

(いつ如何なる時もバイクを愛する事を誓います)

バイクと結婚

よくバイクを女性に見立てて寝たりするネタ写真があったりしますがヤマハは公式でやってたんですね。

何が凄いってこの広告1973年(RD350)だということ。先取りしすぎですね。

THE YAMAHA Monoshock.
(これで勝てる)

モノショック

革新的で空飛ぶサスペンションと言われたモノショックで大活躍したYZM250の市販モデルYZシリーズの広告です。

モノショックをバールのような武器に見立てた少し過激な広告。

THE WAIT IS OVER
(春が来た)

ついに春がきた

FZ8の広告です。

長かった冬眠(オフシーズン)から目を覚ます時が来た。

Enjoy to Forest
(森を楽しめ)

Enjoy to forest

WR250Rの広告です。

森の住人たちから羨望の眼差しで見つめられています。

Abbandona la retta via.
(懺悔)

懺悔R6

YZF-R6の広告です。

レーシング装備をしたライダーが何やら罪を告白し懺悔しています。一体どんな罪を犯したのでしょうね?

Beyond any barrier
(どんな障壁も越えていく)

YZF-R1 ads

YZF-R1の広告です。

ベイパーコーン(プラントル・グロワートの特異点)を起こすほど速いという事を表してます。

Twin Headlights YZF-R1.
(明るい二眼で夜道も安心!)

R1とリス
R1とカエル
R1と猫

これもYZF-R1の広告。

暗い夜道も明るい二眼で安心・・・?

Bloody Oil
(オイルは血液)

オイルは血液

ヤマルーブの広告です。

日本でもよく言われる表現ですが万国共通みたいですね。

ALGUNOS HACEN DE LA CALLE UNA SELVA
(道路がジャングルにならないように)

サイ
キリン
ゴリラ

運転講習の広告です。

電話をしながら走るサイ、化粧しながら走るキリン、喧嘩を打ってるゴリラ。

道路が無法地帯にならないよう講習を受けて運転マナーを守りましょうという訴え。

Tunnel
(トンネル)

GSX-R1000の広告

XT660Xの広告。

一見するとただのトンネルに見えますが、壁や天井をよく見てると・・・。

Make the road a concert hall
(私たちは道路をコンサートホールに変える)

エキゾーストサウンド
エキゾーストサウンド2

ヤマハ レーシングの広告。

エキゾーストパイプを楽器に見立てています。ヤマハだから出来る表現ですね。

みんなが知らないKATANA

ヨシムラとモリワキ

スズキを語る上で欠かせないバイクであるカタナですが、カタナというと誰もがGSX1100/750/400/250Sを思い浮かべると思います。

しかし”KATANA”というペットネームが付いていたスズキのバイクはなにもGSX-Sシリーズだけではありません。

そこでメジャーなKATANAから超マイナーなKATANAまで掘り下げて紹介していきたいと思います。GSX-Sや1135Rなどはもうみんな知ってるだろうから省略します。

※GSX250SはコブラではなくGSX250S KATANAを意味しています

GS650/550G KATANA -Since 1981-

GS650G

まず最初に紹介するのはGS650Gと海外向けGS550Gです。

こう見えてGSX750S KATANAより先に出たKATANA第一号で唯一シャフトドライブ駆動のKATANAで、後のXN850というターボモデルのベースになったバイクでもあります。

これに合わせて紹介したいのがGS650の弟分的として登場したGSX400EとGSR250の系譜でもちょっと紹介してるGSX250Eです。

GSX400/250E KATANA -Since 1982-

250EKATANA

もともとGSX400/250EはKATANAではなく普通にキャストホイールのネイキッドとして売っていました。

しかしあまりにもデザインがオジサンバイク過ぎるとして低迷していた人気をなんとかするためテコ入れとして見た目をGS650に近づけKATANA化。

つまり後からKATANAになったバイク・・・だからコレはKATANAじゃないとか色々と賛否両論ありました。何より可哀想なのが当時はGSX400S(’92)も250S(’91)もまだ無かったから中免でKATANAに乗ろうと思ったらコレしか無かったんです。それがGSX1100S/GSX750Sのステータス性や憧れを惹き立てることに一役買った面もあると思います。

次に紹介するのは国内最小のKATANAになる原二KATANA。

GS125E KATANA -Since 1982-

GS125E

こっちはもはやGSXでもない。

これらを見れば分かる通り、非常にややこしいことに当時KATANAにも2つの系統があったわけなんですが、更にややこしいことに当時はあだ名を付けることが流行っていて、KATANAシリーズも例に漏れず

「刀」「脇差」「小刀」「ナイフ」「包丁」「彫刻刀」「カッターナイフ」

と排気量と実際の刀の大きさを当てはめて色んな呼ばれ方をしていました。

問題だったのはそれを地域によってはGSX-Sシリーズに当てはめて言う人もいれば、GSやGSX-Eに当てはめて言う人も居たということ。もうどっちがどっちだか状態です。

恐らく多くの人はGSX-Sの方で

GSX1100S:刀

GSX750S:脇差

GSX400S:小刀

GSX250S:ナイフ

とかだと思うんですが、これ読んで

「いや違う!刀は・・・脇差は・・・」

と言われても地域差はどうしようもないので勘弁してください。

そんなこんなで国内がSとEでややこしくなってる一方で海外ではSとFでややこしい事になっていました。

GSX1100/750/600F KATANA -Since 1988-

600KATANA

GSX-Fシリーズを北米でKATANAとして売り始めたわけです。

KATANA1100、KATANA750、KATANA600と三兄弟。日本では250をアクロスとして売っていましたね。

スズキとしては北米では

「KATANA=オールラウンダーのフルカウルスポーツ」

として売りたかったんでしょう。ホンダでいうところのFコンセプトですね。

さて上の方で国内における最小排気量のKATANAはGS125Eでしたが、海外を含めると話が変わってきます。

AY50 KATANA -Since 1997-

GS125E

KATANAの名を冠した原付スクーター。

これはスペインなどに向けて作られた2st原付なんだけどエンジンはイタリアのメーカーであるモト・モリーニという会社が作ったもの。

足回りを見れば分かる通りスポーツ原付という立ち位置でSHOWA製の倒立サスでディスクブレーキっていう国内向けであった同じ12インチのZZより良い足回りをしてる。

ただ向こうのWikipediaに書いてあったんだけど、このバイクが出た時に

「KATANAの名を汚した愚かな行為」

と凄く批判されたそうです。もし国内でもZZなんかがKATANAという名前で出てたら同じように批判されたでしょうね。KATANAである要素も必要性もないから当然な話です。

そしてそして締めに紹介するマイナーなKATANAはこれ

GSX1000S KATANA -Since 1982-

GSX1000S KATANA

一見すると何処からどう見てもGSX1100S KATANAですが、実はこれボアを縮小して998.6ccまで排気量を落としたGSX1000S KATANAです。

キャブレーター等も変更されているんですが基本的には1100と一緒。このモデルはAMA(アメリカの市販車レース)を始めとしたレースに出るために作られたホモロゲのようなKATANA。

今でいえばGSX-R1000と同じ立場のバイク。知らない人が多いだろうなと思って意気揚々と書いてたらWikipediaに書いてあるのを発見してショックを受けましたが。

1000Sと1100S

年間1000台限定で計3年発売され3000台近い台数が出たみたいだけど、アニバーサリーモデルやファイナルエディションや1135Rのようにシリアルや限定グッズといった付加価値を付けなかったから話題にはなってないですね。更に言うなればGSX-S1000という新型かつ人気のバイクが出たので存在が消え行くのも時間の問題かと。

Wikipediaに書いていない事として、何故3年だけの発売だったのかというとレースのレギュレーションが1000ccから750ccに変更されたから。だからスズキもGSX1000Sを止めてGSX-R750を作りレースに挑むようになった。

スズキのフラッグシップがGSX-SからGSX-Rへと世代交代する事となったバイクでもあるわけですね。

勝手に平成バイク・オブ・ザ・イヤー

平成バイクオブ・ザ・イヤー

平成の世があと数ヶ月で終わりを迎えるということで平成元年(1989年)から平成30年(2018年)までその年を代表するにふさわしいバイクを誠に勝手ながら独断と偏見で選定させてもらいました。

平成元年(1989)

『ZEPHYR|KAWASAKI』

レーサーに近い事こそが正義だった時代に一石を投じた肩肘はらずに乗れるバイク。

このモデルが大ヒットしたことで時代は一気にネイキッドブームへと移行した。

>>ZEPHYR(ZR400C)の系譜

平成二年(1990)

『ZZR1100|KAWASAKI』

世界最高性能のビッグバイクとして登場したメガスポーツの元祖的なモデル。

夢物語といわれていた時速300km/hが現実味を増し最速競争への注目度が一気に上昇した。

>>ZZR1100(ZX1100C)の系譜

平成三年(1991)

『ZXR400/R|KAWASAKI』

カワサキのレーサーレプリカ時代を代表するモデル。

レーサーレプリカは造らないという会社の方針に反旗する形で造りたいように造っただけあり正にナンバーが付いたレーサーだった。

>>ZXR400/R(ZX400L/M)の系譜

平成四年(1992)

『CBR900RR|HONDA』

リッターオーバーが求められる時代にスペックよりもファンスポーツする事を大事にしたテストライダーが責任者となり開発されたモデル。

その狙いは見事に的中し世界中でファイヤーブレードという排気量を隠すためのペットネームがブランド化した。

>>CBR900RR(SC28)の系譜

平成五年(1993)

『MONSTER900|DUCATI』

スーパーバイク一辺倒だったDUCATIが初めて造った奇抜なスタイリングが特徴のネイキッド。

今でこそ珍しくも何ともなく見えるのはこのバイクが世界中で認められたから。

>>MONSTERの系譜

平成六年(1994)

『916|DUCATI』

スーパーバイクシリーズの三代目となるモデル。

鬼才マッシモ・タンブリーニの代表作として有名で今でも世界一美しいバイクとして名前があげられる。

>>916seriesの系譜

平成七年(1995)

『MAJESTY|YAMAHA』

大容量トランクシートを兼ね備えつつエアロフォルムと高剛性フレームで走りも十分。

バイク界のサルーンという狙いが見事に的中しビッグスクーターというジャンルを確立した。

>>MAJESTY(4HC)の系譜

平成八年(1996)

『DragStar400|YAMAHA』

エンジンからデザインまで完璧に近いスタイリングで登場した400クルーザー。

人気だった先代ビラーゴの後継という重圧を物ともせず400の決定版となった。

>>XVS400DragStar(4TR)の系譜

平成九年(1997)

『VTR|HONDA』

お馴染みVTRシリーズの始まりとなるモデル。

Vツインを活かした取り回しを始めとした素行の良さから多くの人に用途を問わず愛された。

>>VTR(BA-MC33)の系譜

平成十年(1998)

『YZF-R1|YAMAHA』

現代スーパースポーツのパイオニア的なモデル。

性能はもちろんのことデザインでも業界に与えた衝撃は大きく今も続いている。

>>YZF-R1(4XV)の系譜

平成十一年(1999)

『GSX1300R HAYABUSA|SUZUKI』

最高時速312km/hというギネス記録が大きく話題になったモデル。

社内でも意見が二分化したという唯一無二のデザインも相まって大型バイクの代名詞となり異例のロングセラーとなった。

>>GSX1300R(X/Y/K1~)の系譜

平成十二年(2000)

『ZX-12R|KAWASAKI』

KAWASAKIが威信をかけ四年以上の歳月を掛けて造ったフラッグシップニンジャ。

モノバックボーンフレームなどカワサキらしい独自構造はこの代から続いていく事になる。

>>ZX-12R(ZX1200A/B)の系譜

平成十三年(2001)

『TMAX|YAMAHA』

ビッグスクーター系のトップエンドとして登場したモデル。

ビッグスクーターというよりビッグスクーターの皮を被ったロードスポーツと呼べるほどのスポーツ性で欧州を中心に人気が爆発。

>>TMAX(5GJ)の系譜

平成十四年(2002)

『XB9R/S|BUELL』

ハーレーのお下がりではなく共同開発したサンダーストームエンジンを積んだスーパースポーツ。

ビューエルを代表する人気モデルで日本国内でも多くの人に知られ受け入れられた。

>>XB9R/Sの系譜

平成十五年(2003)

『CBR600RR|HONDA』

RC211Vルックで登場したホンダのミドルスーパースポーツ。

斬新なセンターアップマフラーが多くの人の目を引きつけ一大ブームを巻き起こした。

>>CBR600RR(PC37前期)の系譜

平成十六年(2004)

『VALKYRIE RUNE|HONDA』

ただのデザインコンペモデルをアメリカホンダの副社長が実現させろと言い出した事が発端。

そんな無理難題をホンダの技術者がコストを度外視してなんとか形にしたアメリカで伝説化してるクルーザー。

>>VALKYRIE RUNE(SC53)の系譜

平成十七年(2005)

『ADDRESS V125|SUZUKI』

ありそうでなかった原付一種サイズの通勤快速125。

2stに負けない性能が目標だっただけありその名に恥じぬ性能とコストパフォーマンスで多くの人の通勤を支えた。

>>AddressV125(CF46A)の系譜

平成十八年(2006)

『DAYTONA675|TRIUMPH』

ツインでもクワトロでもないトリプルという新しいタイプのSSとして登場。

ツインとクアトロの良い所取りした特性に加えハンドリングの素晴らしさなどが世界中で絶賛された。

>>DAYTONA675前期の系譜

平成十九年(2007)

『WR250R/X|YAMAHA』

オンロードスポーツ顔負けのスペックを引き下げて登場したWR250Fレプリカのオフ&モタ。

YZF-R1のエンジンをシングル化した様な形で性能から値段からシート高まで何もかもが孤高だった。

>>WR250R/X(3D7)の系譜

平成二十年(2008)

『Ninja250R|KAWASAKI』

排ガス規制でラインナップが寂しくなっていく中で登場した久しぶりのカウル付き250スポーツ。

レーサールックと50万円を切るコストパフォーマンスから想定を上回る人気となり250においてフルカウルの市民権を取り戻すと共にブームを巻き起こす。

>>Ninja250R(EX250K)の系譜

平成二十一年(2009)

『S1000RR|BMW』

ロードレースとは無縁だったBMWが初めて造ったスーパースポーツ。

処女作ながらクラストップの性能を誇り既に下火傾向だったSS市場とは思えない程の人気モデルとなった。

>>S1000RR(0507)の系譜

平成二十二年(2010)

『VFR1200F|HONDA』

MotoGPマシンRC211Vの思想を取り入れたグランドツアラー。

76°V型狭角28°位相360度クランクという呪文のようなV4ビートエンジンを積んでいる。

>>VFR1200F(SC63)の系譜

平成二十三年(2011)

『GSX-R750|SUZUKI』

1985年に登場し世界を驚愕させた元祖大型スポーツの11代目となるモデル。

もはやレースとは無縁の存在にも関わらずあり続けたSUZUKIの文化遺産。

>>GSX-R750(L1~)の系譜

平成二十四年(2012)

『NC700S/X/INTEGRA|HONDA』

グローバルプラットホーム化と数々の工夫により60万円を切る破格で登場。

FITを参考にした低燃費性と高回転を潔く捨てた特性で新しい大型バイクとの付き合い方を提案した。

>>NC700S/X/INTEGRA(RC61/63/62)の系譜

平成二十五年(2013)

『R1200GS|BMW』

累計生産台数10万台を超えてもなお人気が衰えないBMWの看板車種。

エンジンの空水冷化に加えフレームレス構造など大幅な維新となり向かうところ敵なしに。

>>R1200GSの系譜

平成二十六年(2014)

『MT-07|YAMAHA』

TRX850以来となる270度クランクツインのツインミドルスポーツ。

普通の人が常用域で最高に楽しむことに焦点を当てたコンセプトで海外でも非常に高い評価を獲得した。

>>MT-07/A(1WS/1XB/BU2)の系譜

平成二十七年(2015)

『H2/R|KAWASAKI』

何の制約も無しにバイクを造ったらどうなるか。

その結果誕生したのは川崎重工業の技術を惜しみなく投入したスーパーチャージャーNinjaだった。

>>H2/Rの系譜

平成二十八年(2016)

『RC213V-S|HONDA』

MotoGPマシンRC213Vの公道仕様というコンセプトで開発。

2190万円という桁違いの車体価格が世間を騒がせた。

>>RC213V-S(SC75)の系譜

平成二十九年(2017)

『Z900RS|KAWASAKI』

伝説の名車Zを彷彿とさせる佇まいで登場したネオトレロ。

発表と同時に完売してしまうほどの人気と販売台数となりZ神話が今もなお不滅である事を見せつけた。

>>Z900RS(ZR900C)の系譜

平成三十年(2018)

『Ninja400|KAWASAKI』

減少傾向の強い400クラスに久しぶりに登場した新世代スーパースポーツ。

250ベースのライトウェイト路線でストリートはもちろんサーキットまでカバーする性能でクラスに新風を巻き起こした。

>>Ninja400(EX400G)の系譜

平成特別賞

『SR400|YAMAHA』

排ガス規制や騒音規制さらには400需要の低下など数々の苦難を乗り越えてきたモデル。

初代モデルが登場したのは昭和53年で平成の世を形を変えずに渡りぬく事となった。

>>SR400の系譜

トヨタ2000GTという救世車

トヨタ2000GT

トヨタの名車として、またボンドカーとしても有名な2000GT。トヨタとヤマハと共同開発で、一説ではほぼヤマハが設計したと言われていますね。

当時フラッグシップと呼べるスポーツカーを持っておらず、ブランド力が低下していたトヨタを救った救世主ならぬ救世車です。

2000GT透視図

これが出たのは1967年の事なのですが、実はこの頃のヤマハのバイク部門は2st一辺倒で4stはやっていませんでした。

しかし主要市場だったアメリカを中心に

「2stは音が軽い、ビッグバイクといえば4stだ」

という認識が広まり始め2stでは戦えない状況になっていった。

GL750

そこでヤマハも開発途中だった2st四気筒のGL750というバイクの開発を一旦止め、4stビッグバイクの開発を再優先事項に。結局これはお蔵入りとなりました。

しかしながら小排気量の2stしか作ってこなかった中で

「4stのビッグバイクを急いで作れ」

というのは無茶な話。

そんな無茶を押し付けられたプロジェクトリーダーの井坂さんが、どうにかこうにかして作ったのがヤマハ初の4stであり初のビッグバイクでもある並列二気筒653ccのXS1-650です。

XS650

実はこれ2000GTのエンジンとバルブ系や挟み角が寸分の狂いもなく同じで、2000GTの直六エンジンから二気筒だけ切り取ったような形をしてる。

これは無理難題を解決するため同じ4stである2000GTを開発中だった同僚の安川さんと長谷川さんに教えを請いに行ったわけです。

もちろんそのままではなく信頼性のためSOHC化や、バイクの特性に合わせるために材質・形状やバルブリフト量などが変更されていますが、2000GTのエンジンが土台。

XS1カタログ写真

なんとか間に合わせたヤマハですが、コレがヤマハを救う事になります。

それはXS1が出た半年後の1970年末にアメリカでマスキー法(大気浄化法)という厳しい排ガス規制が敷かれる事が決まったから。

この規制(1972年施行)で2stは実質的にあと1年しか売れない状況になったわけです。上で紹介した2st四気筒のGL750がお蔵入りとなったのはこれが理由。

もしもヤマハが4stである2000GTの開発をしていなかったら、2000GTで4stの技術を学んでいなかったら、4stの開発は遅れ

「アメリカで売れるバイクが無い」

という絶対にあってはならない事態に陥っていた可能性が非常に高かった。

トヨタとヤマハの2000GT

つまり2000GTに救われたのはトヨタだけじゃなく、ヤマハもそうだったという事。