dbシリーズやybシリーズなどマルティーニの手腕によりbimotaは支持層を広げ順調に事業を拡大していきました。
しかしそんなマルティーニも1989年にジレラへとヘッドハンティング。小さい会社の宿命ですね。
その後を継ぎチーフエンジニアとなったのは、マルティーニの元で学生時代から指南を受けていたマルコーニという若干29歳の若手エンジニア。
そんな彼がチーフエンジニアになり造ったバイクがこれ。
「TESI(テージ) Since 1990」
何となく知っている人も多いでしょう。
ちなみにTESIとはイタリア語で”論文”という意味で、マルコーニが大学時代から研究し卒論にもなったのが名前の由来。
恐らくbimotaに関するリクエストの多くはこのTESIシリーズだろうと思うので少し説明します。
TESIは前も後もスイングアーム式という一風変わった形をしているバイク。
前も後もスイングアームでどうやって曲がってるのか・・・と思いますよね。
これはハブセンターステアと呼ばれる構造で、ハンドルの左右入力をリンクを介して前後の動きに変換しハブに伝えているわけです。
よく分からんって人は肘を90度曲げて前にならえのポーズのまま背骨を中心に体を左右に回してみてください。
手が前後に動くと思います。その手の先にホイール(ハブ)が付いているんです。
1Dの場合は右側にあるので、身体(ハンドル)を右に回せば右腕が前に出るのでホイールも右側を押されて右を向く、反対に左に回せば引っ込むので右側が引かれて左を向くといった感じ。
そうやって舵角を付けているわけです。ちょっと乱暴な例えですけどね。
bimotaといえばこのTESIシリーズと思っている人が多いように、1983年のモーターショーでのTESI(CONCEPT)登場は世界に衝撃を与えました。
あまりにも意欲的で斬新な佇まいから
「次世代のバイクだ」
と称賛されました・・・が、コレが悪い方に働いてしまったんです。
このTESIというのは学生だったマルコーニがマルティーニから指導を受けながら造った”実験的なモデル”であり、市販化はまだまだ先の話だった。
しかし世論は
「これこそ次世代のbimotaだ」
と信じて疑わず、結果として既存車種の買い控えが起こってしまったんです。
もうこうなった以上はTESIを一日でも早く造るしか無いわけで、約6年の月日を掛けて造られたのがドゥカティ851のエンジンを積んだTESI 1D(Ducati)というわけ。
待ちに待ったTESI 1Dだったんですが、実際どうなのかというと処女作なだけあり色々と問題がありました。
左右に動く部分が実質的にアクスルシャフトなので低速域ではどうしても少しフラつく。
更にはハブセンターステアリング特有の特性。
似た構造(ボールナット式)の『GTS1000|系譜の外側』でも話したので割愛しますが、ノーズダイブ(ブレーキングによる前のめり)が殆どありません。
そのためサスが沈んで初めてブレーキが効くテレスコピックと違い、はじめから強力に効くメリットがあるわけですが、その反面バイクからのインフォメーションが非常に希薄なんです。
要するにバイクの反応が分かりにくい。構造上ハンドルの切れ角が稼げず、僅か17°とMotoGPマシン並の狭さだった事も不評を買いました。
少し話が脱線しますが、ハブセンターステアリング式の構想自体は1910年頃から構想。
しかし本格的に開発され始めたのはTESIではなく、1978年のMotoELFというホンダとELFがタッグを組んだフランスのチーム。
世界レースに約10年間も挑戦し続けたんですが、結局それらの問題を解決し既存のテレスコピックを凌駕することは出来ず。
フロントはダメだったけどリアは使えるということで、プロアームが生まれた歴史があります。
細かい事を言うと、その一年前である1977年にイギリスのミードとトムキンソンという二人のビルダーもハブセンターステアリングの耐久レーサーを造っています。
Z1ベースで”ネッシー”という愛称でした。
カワサキってハブセンターステアリングに一番縁が無さそうなメーカーなのにね。
ちなみにスズキもNUDAというハリボテではなくちゃんと走るコンセプトバイクを1987年に出しています。
ただやはり乗れたもんじゃなかったというのが正直な所だった様です。
話をTESIに戻すと・・・bimotaはそんな無茶を実現させたわけなんですが、無茶は値段にも影響してしまいラインナップでもトップとなる448万円に。
これらの事からTESI 1Dは4年近く売ったものの派生モデルを含めても300台未満で評判を含め人気とは言い難いもので、bimotaは傾いてしまいます。
ちなみにdb1同様に日本がお得意先だった事もあり、実はこのTESI 1Dも400モデルが造られた歴史があります。
ドゥカティ400SSのエンジンを搭載したTESI 1D 400Jというモデルで、386万円でした。
福田モーター商会(代理店)を挟んでいたとはいえ”1cc/1万円”はさすがビモータですね。
創業者であるモーリも当時を振り返った際
「TESIは急ぎすぎてしまった」
と言っている様に、意欲が空回りした結果に終わってしまったわけです。
ただし・・・一方でマルコーニはbimota史上最大となるヒット作を生みました。
『SB6 since1994』
太く、逞しく、ピボットまで真っ直ぐ伸びているアルミツインチューブフレームのバイク。エンジンはGSX-R1100の水冷。
約250万円前後と絵決して安くなったんですが、その斬新な姿が話題となり、また出来も良かったので累計で1744台と大ヒット。
このバイクがあったからなんとか倒れずに済みました。
そんなbimotaだったんですが、創業者であるモーリがbimotaから離れる事になりました。
これで遂にタンブリーニもモーリも居ない会社となったわけですが
「もっと多くの人にbimotaを」
というモーリの考えを尊重する姿勢を維持し、更に拡大路線を進める事に。
例えばドゥカティのMONSTERを機に人気となったネイキッドブームに合わせてアルミ楕円トラスフレームのDB3 Mantra。
独特なデザインはフランス人のサシャ・ラキクという方によるもの。
他にもレースを睨んで開発されたGSX-R750SPエンジン搭載のSB7、F650の(ロータックス製)シングルエンジンを使ったSUPER MONOなど相次いでニューモデルを発売。
どのモデルもおよそ500台前後ほど売れるヒットとなり順調に事業を拡大。
そんな中でbimotaは更にもう一歩踏み出します・・・それは
「エンジンも自分達で造れば業績がもっと良くなる」
というモーリがTESIとほぼ並行する形で約8年を掛けて進めていたプロジェクト。
それが1997年に形になります。
『500-V Due since1997』
開発はもちろんマルコーニですが、デザイナーは新たにタンブリーニが仕切っていたCRC(カジバリサーチセンター)から引っ張ってきたセルジオ・ロビアーノさん。
ベイビー916ことMitoをデザインされた方です。
500-V dueはTESIに負けずとも劣らない意欲的なマシンでした。
何が意欲的かと言えばもちろんbimotaオリジナルのエンジン。
2ストローク90°Vツインに当時としては非常に珍しいフューエルインジェクションシステムを採用。
これだけでも十分凄いんですが・・・なんとこれ直噴式。シリンダーに直接燃料を吹くあの直噴です。
直噴にした狙いは主に二つありました。
一つは2stが絶滅危惧種となってしまった大きな原因である未燃焼ガス対策です。
排気ポートが閉口した後に燃料を吹けば未燃焼ガスの流出を防げるというもの。
そしてもう一つは熱対策。
2stは一次圧縮(クランク)でガソリンが熱せられ気化してしまう。
それに対してピストンに向けて直接ガソリンを吹いて気化させれば燃焼室やピストンの温度を(気化熱で)下げられるというわけ。
最近話題の打ち水のアレです。
そうやって温度を下げる事が出来ればピストンとシリンダーのクリアランスを詰めることが出来るのでパワーの向上に繋がる。
この二つの考えからマルコーニは直噴2ストロークを選びました。
元々はTESIに積む予定だったんですが、流石に難しいと判断したのか途中でオーソドックスな車体に。
そしていざ発売されてみると・・・肝心のインジェクションがまともに動かずクレームの嵐。
下馬評を大きく下回る形となり、初年度生産だった185台全てリコールまたは返金する事態に。
数年でキャブレーター化などの改善が施されたエボルツィオーネとなりましたが時すでに遅し。
この一件によりbimotaは1998年に経営が悪化。人員整理でチーフエンジニアだったマルコーニもbimotaを去ることに。
その後ラベルタを立て直した実績もあるフランチェスコ・トニョンの管轄下で再開したものの、結局は上手く行かず2000年に倒産となりました。
系譜図