原付一種(50cc)が30km/h制限になっている理由

30km

「原付の最高速が30km/hなんて間違っている」

という止むことのない問題というか問い合わせ。

少し検索してネットニュースなどを読み漁ったところ、アンケート結果でも約80%の人間が

『30km/h規制は不要』

と答えられていました。

・時代に即していない

・理不尽でかわいそう

・逆に危ない

・白バイの餌

などなど非難轟々ですが

「じゃあなんでそうなっているのか」

という根拠というか運転免許及び取締を担っている警察庁の言い分を聞くと納得する人も居ると思うので書いていきたいと思いますが、最初にザックリ要約した答えを言うと

警察庁の見解

「これが妥当だから」

というのが答えなんです・・・何が妥当なんだと怒り心頭かも知れませんがお付き合いを。

そもそも原付免許(50ccまでの運転免許)がいつ誕生したのかというと1952年で

『第一種(50ccまで)許可』

という現在の原付一種に通ずる許可証が最初。30km/h規制もこの時に定められました。

そこから更に1955年に試験が必要な今の

『第一種原動機付自転車免許』

へと変更。これが原付免許の始まりになります。

余談ですが原動機付二輪ではなく”原動機付自転車”という名前になってるのは、この免許が誕生した頃の50cc原付はカブF号のように自転車にエンジンとゴムベルトを後付して乗るバイクモーターがメジャーだったから。

バイクモーター

ちなみにこの自転車スタイルが滅んだのは1958年にスーパーカブが登場した事が要因。

話を戻すと、一方で51cc以上の免許区分はなかなか目まぐるしい変化を繰り返しており現在では

・大型自動二輪(排気量無制限)

・普通自動二輪(400ccまで)

・小型自動二輪(125ccまで)

と細かく区切られています。

これほどまでに細分化した理由はもちろん事故が増えたから。

運転免許の経緯

しかしその中で原付一種だけはどれだけ環境や性能が変わろうと1955年からずっと

「1日で簡単に取れて簡単に乗れる」

という立ち位置だった。

70年代後半のゼロハンブーム(50ccで100km/h弱も出るバイクが急増)で若者の事故が増えようと、80年代のファミバイブームで主婦の事故が増えようと、まるで聖域かのように運転免許制度が大きく見直される事はなかった。

50ccブーム

この理由は警察庁も原付一種がそれだけ多くの人の足として重宝されている(お財布的にも時間的にも)最も優しい公道を走れる機械装置だという事を理解しているから。原付一種を厳しくすると困る人、交通弱者が多く出ることを分かっているから厳格化しないんです。

皆さん道路交通法というと違反や罰金というイメージが真っ先に来ると思うんですが

『安全と円滑』

といって要するに捗るようにする役割もあるんですね。

【道路交通法 第一条】
この法律は道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図り、及び道路の交通に起因する障害の防止に資することを目的とする。

しかし円滑と同時に交通事故を防ぐ”安全”も重要だから

「30km/hまでしか出しちゃ駄目だぞ」

という特例に近いルールを設けているというわけです・・・が

50ccライダー

「せめて40km/hまで許してやれよ」

と思われている方も多いかと。

20km/hと30km/hはそうでもないですが30km/hと40km/hは雲泥の差がありますよね。痛いほど気持ちは分かるんですがこれにもちゃんと根拠があるんです。

「30km/hが事故の命運を分けるボーダーライン」

という根拠です。

原付は遅すぎて逆に危ないという意見がよく言われていますが、恐らくそういう方が想像されている危険性というのはこういう形じゃないかと思います。

原付の危険性

追い越しによる巻き込みや追突ですね。確かにこれも死角に隠れがちになるから危ないのは事実。

特にクルマ乗りの方がこれを危惧されていると思います。何故ならクルマで最も多い事故は追突だから。

でもクルマとバイクの相互事故で危ないのはこれじゃない。事故の原因ページでも書いたんですが、バイクで最も多くまた最も危険な事故はクルマとの正面衝突なんです。

原付の危険性

どうして正面衝突が危険なのかといえば、速度がそのまま衝撃として自分に跳ね返ってくるから。

どうして正面衝突ばかり起きるのかといえば、クルマがバイクを見落としてしまうから。

それを考慮したうえで見てほしいのが下記の速度別危険認知度(事故直前に出していた速度)の統計。

危険認知速度の割合

30km/hを超えると死亡事故率が跳ね上がっているのが分かると思います。

まして原付は筆記受かっただけで放り出される上に、剥き出しで軽く小さいのでスピードを出すと非常に危険。

ちなみにこれは単独事故でも同様の結果が出ています。

単独事故での死者数

30km/hを超えると事故全体の割合が少ない単独事故ですら亡くなってしまう人が出てくる。

そのため医療の世界でも30km/h以上での事故による怪我を

『高エネルギー外傷』

といって軽傷に見えても注意が必要だとしています。

更にダメ押しとなるのが歩行者が死傷してしまう事故と速度の関係。

原付の危険性

これまた30km/hを境に跳ね上がっているのが分かるかと。

原付一種の速度上限が30km/hとされている根拠はこれら。こういった事を予防するために30km/hになっている。

最後に纏めると原付一種を”安全と円滑”その両方を尊重する必要がある道路交通法に沿わせる、妥当性を持たせる為に出した結論が即日発行と30km/hの速度規制。

「原付一種が30km/hに制限されているのは取得が容易で簡単に乗れるからであり、取得が容易で簡単に乗れるのは30km/hまでしか速度を出すことを許されないから」

というわけです。

相変わらずシャレてるヤマハの海外広告

ヤマハ発動機

洒落てるヤマハの海外広告です。

※Adblock系が誤作動を起こし画像が表示されない問題が起こるようです。申し訳ありませんがこのページでは切るか別のブラウザでの閲覧をよろしくお願いします。

R1 998cc 150ps

YZF-R1 4XV

YZF-R1初代モデルの広告です。

ヘルメットがバイク用ではなく航空機用の物でいかに凄いマシンかをアピールしていますね。

(いつ如何なる時もバイクを愛する事を誓います)

バイクと結婚

よくバイクを女性に見立てて寝たりするネタ写真があったりしますがヤマハは公式でやってたんですね。

何が凄いってこの広告1973年(RD350)だということ。先取りしすぎですね。

THE YAMAHA Monoshock.
(これで勝てる)

モノショック

革新的で空飛ぶサスペンションと言われたモノショックで大活躍したYZM250の市販モデルYZシリーズの広告です。

モノショックをバールのような武器に見立てた少し過激な広告。

THE WAIT IS OVER
(春が来た)

ついに春がきた

FZ8の広告です。

長かった冬眠(オフシーズン)から目を覚ます時が来た。

Enjoy to Forest
(森を楽しめ)

Enjoy to forest

WR250Rの広告です。

森の住人たちから羨望の眼差しで見つめられています。

Abbandona la retta via.
(懺悔)

懺悔R6

YZF-R6の広告です。

レーシング装備をしたライダーが何やら罪を告白し懺悔しています。一体どんな罪を犯したのでしょうね?

Beyond any barrier
(どんな障壁も越えていく)

YZF-R1 ads

YZF-R1の広告です。

ベイパーコーン(プラントル・グロワートの特異点)を起こすほど速いという事を表してます。

Twin Headlights YZF-R1.
(明るい二眼で夜道も安心!)

R1とリス
R1とカエル
R1と猫

これもYZF-R1の広告。

暗い夜道も明るい二眼で安心・・・?

Bloody Oil
(オイルは血液)

オイルは血液

ヤマルーブの広告です。

日本でもよく言われる表現ですが万国共通みたいですね。

ALGUNOS HACEN DE LA CALLE UNA SELVA
(道路がジャングルにならないように)

サイ
キリン
ゴリラ

運転講習の広告です。

電話をしながら走るサイ、化粧しながら走るキリン、喧嘩を打ってるゴリラ。

道路が無法地帯にならないよう講習を受けて運転マナーを守りましょうという訴え。

Tunnel
(トンネル)

GSX-R1000の広告

XT660Xの広告。

一見するとただのトンネルに見えますが、壁や天井をよく見てると・・・。

Make the road a concert hall
(私たちは道路をコンサートホールに変える)

エキゾーストサウンド
エキゾーストサウンド2

ヤマハ レーシングの広告。

エキゾーストパイプを楽器に見立てています。ヤマハだから出来る表現ですね。

みんなが知らないKATANA

ヨシムラとモリワキ

スズキを語る上で欠かせないバイクであるカタナですが、カタナというと誰もがGSX1100/750/400/250Sを思い浮かべると思います。

しかし”KATANA”というペットネームが付いていたスズキのバイクはなにもGSX-Sシリーズだけではありません。

そこでメジャーなKATANAから超マイナーなKATANAまで掘り下げて紹介していきたいと思います。GSX-Sや1135Rなどはもうみんな知ってるだろうから省略します。

※GSX250SはコブラではなくGSX250S KATANAを意味しています

GS650/550G KATANA -Since 1981-

GS650G

まず最初に紹介するのはGS650Gと海外向けGS550Gです。

こう見えてGSX750S KATANAより先に出たKATANA第一号で唯一シャフトドライブ駆動のKATANAで、後のXN850というターボモデルのベースになったバイクでもあります。

これに合わせて紹介したいのがGS650の弟分的として登場したGSX400EとGSR250の系譜でもちょっと紹介してるGSX250Eです。

GSX400/250E KATANA -Since 1982-

250EKATANA

もともとGSX400/250EはKATANAではなく普通にキャストホイールのネイキッドとして売っていました。

しかしあまりにもデザインがオジサンバイク過ぎるとして低迷していた人気をなんとかするためテコ入れとして見た目をGS650に近づけKATANA化。

つまり後からKATANAになったバイク・・・だからコレはKATANAじゃないとか色々と賛否両論ありました。何より可哀想なのが当時はGSX400S(’92)も250S(’91)もまだ無かったから中免でKATANAに乗ろうと思ったらコレしか無かったんです。それがGSX1100S/GSX750Sのステータス性や憧れを惹き立てることに一役買った面もあると思います。

次に紹介するのは国内最小のKATANAになる原二KATANA。

GS125E KATANA -Since 1982-

GS125E

こっちはもはやGSXでもない。

これらを見れば分かる通り、非常にややこしいことに当時KATANAにも2つの系統があったわけなんですが、更にややこしいことに当時はあだ名を付けることが流行っていて、KATANAシリーズも例に漏れず

「刀」「脇差」「小刀」「ナイフ」「包丁」「彫刻刀」「カッターナイフ」

と排気量と実際の刀の大きさを当てはめて色んな呼ばれ方をしていました。

問題だったのはそれを地域によってはGSX-Sシリーズに当てはめて言う人もいれば、GSやGSX-Eに当てはめて言う人も居たということ。もうどっちがどっちだか状態です。

恐らく多くの人はGSX-Sの方で

GSX1100S:刀

GSX750S:脇差

GSX400S:小刀

GSX250S:ナイフ

とかだと思うんですが、これ読んで

「いや違う!刀は・・・脇差は・・・」

と言われても地域差はどうしようもないので勘弁してください。

そんなこんなで国内がSとEでややこしくなってる一方で海外ではSとFでややこしい事になっていました。

GSX1100/750/600F KATANA -Since 1988-

600KATANA

GSX-Fシリーズを北米でKATANAとして売り始めたわけです。

KATANA1100、KATANA750、KATANA600と三兄弟。日本では250をアクロスとして売っていましたね。

スズキとしては北米では

「KATANA=オールラウンダーのフルカウルスポーツ」

として売りたかったんでしょう。ホンダでいうところのFコンセプトですね。

さて上の方で国内における最小排気量のKATANAはGS125Eでしたが、海外を含めると話が変わってきます。

AY50 KATANA -Since 1997-

GS125E

KATANAの名を冠した原付スクーター。

これはスペインなどに向けて作られた2st原付なんだけどエンジンはイタリアのメーカーであるモト・モリーニという会社が作ったもの。

足回りを見れば分かる通りスポーツ原付という立ち位置でSHOWA製の倒立サスでディスクブレーキっていう国内向けであった同じ12インチのZZより良い足回りをしてる。

ただ向こうのWikipediaに書いてあったんだけど、このバイクが出た時に

「KATANAの名を汚した愚かな行為」

と凄く批判されたそうです。もし国内でもZZなんかがKATANAという名前で出てたら同じように批判されたでしょうね。KATANAである要素も必要性もないから当然な話です。

そしてそして締めに紹介するマイナーなKATANAはこれ

GSX1000S KATANA -Since 1982-

GSX1000S KATANA

一見すると何処からどう見てもGSX1100S KATANAですが、実はこれボアを縮小して998.6ccまで排気量を落としたGSX1000S KATANAです。

キャブレーター等も変更されているんですが基本的には1100と一緒。このモデルはAMA(アメリカの市販車レース)を始めとしたレースに出るために作られたホモロゲのようなKATANA。

今でいえばGSX-R1000と同じ立場のバイク。知らない人が多いだろうなと思って意気揚々と書いてたらWikipediaに書いてあるのを発見してショックを受けましたが。

1000Sと1100S

年間1000台限定で計3年発売され3000台近い台数が出たみたいだけど、アニバーサリーモデルやファイナルエディションや1135Rのようにシリアルや限定グッズといった付加価値を付けなかったから話題にはなってないですね。更に言うなればGSX-S1000という新型かつ人気のバイクが出たので存在が消え行くのも時間の問題かと。

Wikipediaに書いていない事として、何故3年だけの発売だったのかというとレースのレギュレーションが1000ccから750ccに変更されたから。だからスズキもGSX1000Sを止めてGSX-R750を作りレースに挑むようになった。

スズキのフラッグシップがGSX-SからGSX-Rへと世代交代する事となったバイクでもあるわけですね。

勝手に平成バイク・オブ・ザ・イヤー

平成バイクオブ・ザ・イヤー

平成の世があと数ヶ月で終わりを迎えるということで平成元年(1989年)から平成30年(2018年)までその年を代表するにふさわしいバイクを誠に勝手ながら独断と偏見で選定させてもらいました。

平成元年(1989)

『ZEPHYR|KAWASAKI』

レーサーに近い事こそが正義だった時代に一石を投じた肩肘はらずに乗れるバイク。

このモデルが大ヒットしたことで時代は一気にネイキッドブームへと移行した。

>>ZEPHYR(ZR400C)の系譜

平成二年(1990)

『ZZR1100|KAWASAKI』

世界最高性能のビッグバイクとして登場したメガスポーツの元祖的なモデル。

夢物語といわれていた時速300km/hが現実味を増し最速競争への注目度が一気に上昇した。

>>ZZR1100(ZX1100C)の系譜

平成三年(1991)

『ZXR400/R|KAWASAKI』

カワサキのレーサーレプリカ時代を代表するモデル。

レーサーレプリカは造らないという会社の方針に反旗する形で造りたいように造っただけあり正にナンバーが付いたレーサーだった。

>>ZXR400/R(ZX400L/M)の系譜

平成四年(1992)

『CBR900RR|HONDA』

リッターオーバーが求められる時代にスペックよりもファンスポーツする事を大事にしたテストライダーが責任者となり開発されたモデル。

その狙いは見事に的中し世界中でファイヤーブレードという排気量を隠すためのペットネームがブランド化した。

>>CBR900RR(SC28)の系譜

平成五年(1993)

『MONSTER900|DUCATI』

スーパーバイク一辺倒だったDUCATIが初めて造った奇抜なスタイリングが特徴のネイキッド。

今でこそ珍しくも何ともなく見えるのはこのバイクが世界中で認められたから。

>>MONSTERの系譜

平成六年(1994)

『916|DUCATI』

スーパーバイクシリーズの三代目となるモデル。

鬼才マッシモ・タンブリーニの代表作として有名で今でも世界一美しいバイクとして名前があげられる。

>>916seriesの系譜

平成七年(1995)

『MAJESTY|YAMAHA』

大容量トランクシートを兼ね備えつつエアロフォルムと高剛性フレームで走りも十分。

バイク界のサルーンという狙いが見事に的中しビッグスクーターというジャンルを確立した。

>>MAJESTY(4HC)の系譜

平成八年(1996)

『DragStar400|YAMAHA』

エンジンからデザインまで完璧に近いスタイリングで登場した400クルーザー。

人気だった先代ビラーゴの後継という重圧を物ともせず400の決定版となった。

>>XVS400DragStar(4TR)の系譜

平成九年(1997)

『VTR|HONDA』

お馴染みVTRシリーズの始まりとなるモデル。

Vツインを活かした取り回しを始めとした素行の良さから多くの人に用途を問わず愛された。

>>VTR(BA-MC33)の系譜

平成十年(1998)

『YZF-R1|YAMAHA』

現代スーパースポーツのパイオニア的なモデル。

性能はもちろんのことデザインでも業界に与えた衝撃は大きく今も続いている。

>>YZF-R1(4XV)の系譜

平成十一年(1999)

『GSX1300R HAYABUSA|SUZUKI』

最高時速312km/hというギネス記録が大きく話題になったモデル。

社内でも意見が二分化したという唯一無二のデザインも相まって大型バイクの代名詞となり異例のロングセラーとなった。

>>GSX1300R(X/Y/K1~)の系譜

平成十二年(2000)

『ZX-12R|KAWASAKI』

KAWASAKIが威信をかけ四年以上の歳月を掛けて造ったフラッグシップニンジャ。

モノバックボーンフレームなどカワサキらしい独自構造はこの代から続いていく事になる。

>>ZX-12R(ZX1200A/B)の系譜

平成十三年(2001)

『TMAX|YAMAHA』

ビッグスクーター系のトップエンドとして登場したモデル。

ビッグスクーターというよりビッグスクーターの皮を被ったロードスポーツと呼べるほどのスポーツ性で欧州を中心に人気が爆発。

>>TMAX(5GJ)の系譜

平成十四年(2002)

『XB9R/S|BUELL』

ハーレーのお下がりではなく共同開発したサンダーストームエンジンを積んだスーパースポーツ。

ビューエルを代表する人気モデルで日本国内でも多くの人に知られ受け入れられた。

>>XB9R/Sの系譜

平成十五年(2003)

『CBR600RR|HONDA』

RC211Vルックで登場したホンダのミドルスーパースポーツ。

斬新なセンターアップマフラーが多くの人の目を引きつけ一大ブームを巻き起こした。

>>CBR600RR(PC37前期)の系譜

平成十六年(2004)

『VALKYRIE RUNE|HONDA』

ただのデザインコンペモデルをアメリカホンダの副社長が実現させろと言い出した事が発端。

そんな無理難題をホンダの技術者がコストを度外視してなんとか形にしたアメリカで伝説化してるクルーザー。

>>VALKYRIE RUNE(SC53)の系譜

平成十七年(2005)

『ADDRESS V125|SUZUKI』

ありそうでなかった原付一種サイズの通勤快速125。

2stに負けない性能が目標だっただけありその名に恥じぬ性能とコストパフォーマンスで多くの人の通勤を支えた。

>>AddressV125(CF46A)の系譜

平成十八年(2006)

『DAYTONA675|TRIUMPH』

ツインでもクワトロでもないトリプルという新しいタイプのSSとして登場。

ツインとクアトロの良い所取りした特性に加えハンドリングの素晴らしさなどが世界中で絶賛された。

>>DAYTONA675前期の系譜

平成十九年(2007)

『WR250R/X|YAMAHA』

オンロードスポーツ顔負けのスペックを引き下げて登場したWR250Fレプリカのオフ&モタ。

YZF-R1のエンジンをシングル化した様な形で性能から値段からシート高まで何もかもが孤高だった。

>>WR250R/X(3D7)の系譜

平成二十年(2008)

『Ninja250R|KAWASAKI』

排ガス規制でラインナップが寂しくなっていく中で登場した久しぶりのカウル付き250スポーツ。

レーサールックと50万円を切るコストパフォーマンスから想定を上回る人気となり250においてフルカウルの市民権を取り戻すと共にブームを巻き起こす。

>>Ninja250R(EX250K)の系譜

平成二十一年(2009)

『S1000RR|BMW』

ロードレースとは無縁だったBMWが初めて造ったスーパースポーツ。

処女作ながらクラストップの性能を誇り既に下火傾向だったSS市場とは思えない程の人気モデルとなった。

>>S1000RR(0507)の系譜

平成二十二年(2010)

『VFR1200F|HONDA』

MotoGPマシンRC211Vの思想を取り入れたグランドツアラー。

76°V型狭角28°位相360度クランクという呪文のようなV4ビートエンジンを積んでいる。

>>VFR1200F(SC63)の系譜

平成二十三年(2011)

『GSX-R750|SUZUKI』

1985年に登場し世界を驚愕させた元祖大型スポーツの11代目となるモデル。

もはやレースとは無縁の存在にも関わらずあり続けたSUZUKIの文化遺産。

>>GSX-R750(L1~)の系譜

平成二十四年(2012)

『NC700S/X/INTEGRA|HONDA』

グローバルプラットホーム化と数々の工夫により60万円を切る破格で登場。

FITを参考にした低燃費性と高回転を潔く捨てた特性で新しい大型バイクとの付き合い方を提案した。

>>NC700S/X/INTEGRA(RC61/63/62)の系譜

平成二十五年(2013)

『R1200GS|BMW』

累計生産台数10万台を超えてもなお人気が衰えないBMWの看板車種。

エンジンの空水冷化に加えフレームレス構造など大幅な維新となり向かうところ敵なしに。

>>R1200GSの系譜

平成二十六年(2014)

『MT-07|YAMAHA』

TRX850以来となる270度クランクツインのツインミドルスポーツ。

普通の人が常用域で最高に楽しむことに焦点を当てたコンセプトで海外でも非常に高い評価を獲得した。

>>MT-07/A(1WS/1XB/BU2)の系譜

平成二十七年(2015)

『H2/R|KAWASAKI』

何の制約も無しにバイクを造ったらどうなるか。

その結果誕生したのは川崎重工業の技術を惜しみなく投入したスーパーチャージャーNinjaだった。

>>H2/Rの系譜

平成二十八年(2016)

『RC213V-S|HONDA』

MotoGPマシンRC213Vの公道仕様というコンセプトで開発。

2190万円という桁違いの車体価格が世間を騒がせた。

>>RC213V-S(SC75)の系譜

平成二十九年(2017)

『Z900RS|KAWASAKI』

伝説の名車Zを彷彿とさせる佇まいで登場したネオトレロ。

発表と同時に完売してしまうほどの人気と販売台数となりZ神話が今もなお不滅である事を見せつけた。

>>Z900RS(ZR900C)の系譜

平成三十年(2018)

『Ninja400|KAWASAKI』

減少傾向の強い400クラスに久しぶりに登場した新世代スーパースポーツ。

250ベースのライトウェイト路線でストリートはもちろんサーキットまでカバーする性能でクラスに新風を巻き起こした。

>>Ninja400(EX400G)の系譜

平成特別賞

『SR400|YAMAHA』

排ガス規制や騒音規制さらには400需要の低下など数々の苦難を乗り越えてきたモデル。

初代モデルが登場したのは昭和53年で平成の世を形を変えずに渡りぬく事となった。

>>SR400の系譜

トヨタ2000GTという救世車

トヨタ2000GT

トヨタの名車として、またボンドカーとしても有名な2000GT。トヨタとヤマハと共同開発で、一説ではほぼヤマハが設計したと言われていますね。

当時フラッグシップと呼べるスポーツカーを持っておらず、ブランド力が低下していたトヨタを救った救世主ならぬ救世車です。

2000GT透視図

これが出たのは1967年の事なのですが、実はこの頃のヤマハのバイク部門は2st一辺倒で4stはやっていませんでした。

しかし主要市場だったアメリカを中心に

「2stは音が軽い、ビッグバイクといえば4stだ」

という認識が広まり始め2stでは戦えない状況になっていった。

GL750

そこでヤマハも開発途中だった2st四気筒のGL750というバイクの開発を一旦止め、4stビッグバイクの開発を再優先事項に。結局これはお蔵入りとなりました。

しかしながら小排気量の2stしか作ってこなかった中で

「4stのビッグバイクを急いで作れ」

というのは無茶な話。

そんな無茶を押し付けられたプロジェクトリーダーの井坂さんが、どうにかこうにかして作ったのがヤマハ初の4stであり初のビッグバイクでもある並列二気筒653ccのXS1-650です。

XS650

実はこれ2000GTのエンジンとバルブ系や挟み角が寸分の狂いもなく同じで、2000GTの直六エンジンから二気筒だけ切り取ったような形をしてる。

これは無理難題を解決するため同じ4stである2000GTを開発中だった同僚の安川さんと長谷川さんに教えを請いに行ったわけです。

もちろんそのままではなく信頼性のためSOHC化や、バイクの特性に合わせるために材質・形状やバルブリフト量などが変更されていますが、2000GTのエンジンが土台。

XS1カタログ写真

なんとか間に合わせたヤマハですが、コレがヤマハを救う事になります。

それはXS1が出た半年後の1970年末にアメリカでマスキー法(大気浄化法)という厳しい排ガス規制が敷かれる事が決まったから。

この規制(1972年施行)で2stは実質的にあと1年しか売れない状況になったわけです。上で紹介した2st四気筒のGL750がお蔵入りとなったのはこれが理由。

もしもヤマハが4stである2000GTの開発をしていなかったら、2000GTで4stの技術を学んでいなかったら、4stの開発は遅れ

「アメリカで売れるバイクが無い」

という絶対にあってはならない事態に陥っていた可能性が非常に高かった。

トヨタとヤマハの2000GT

つまり2000GTに救われたのはトヨタだけじゃなく、ヤマハもそうだったという事。

「原付は危ない」という先入観

スズキlets

参照: 日本二輪普及安全協会日本自動車工業会警察庁国土交通省

「原付は危ない」

バイク乗りですらこう考えている人は多いと思います。子供や家族といった大事な人が原付に乗ろうと考えてたら止める人が多いでしょう。

理由を聞けば

「車に巻き込まれるから」
「身体が剥き出しだから」
「転倒する危険性があるから」
「30km/hしか出せないから(原付一種)」
「車より加速が良くてスピードが出るから(原付二種)」

だいたいこういう答えが返ってくると思います。

トリシティ

昨今話題になった”自動車免許への小型二輪免許付帯”も反対の声が多く聞かれました。

正確に言うと

“自動車免許所有者の小型二輪免許取得の容易化”

です。

訂正したんですがYahoo様のトップニュースによって広まった誤解をこんな小さなサイトで訂正できるわけもなく・・・いやまあ今回はそんな話じゃない。緩和に付いての話は「バイクが売れなくなった理由と免許制度緩和の動き」でも読んでください。

それよりも小型二輪免許付帯について反対派の意見を見てみると

「危ないから」

という意見がほぼ大半でした。

z125

果たして本当に原付は危ない乗り物なのか統計、数字で見てみましょう。

警視庁の「平成27 年中の交通事故死者数について(pdf)」によると

状態別 死者 重傷者 軽傷者 致死率
自動車 1,322人 10,786人 431,533人 0.30%
自動二輪 447人 5,121人 27,925人 1.33%
原付 230人 5,612人 31,598人 0.61%
自転車 572人 8,508人 88,725人 0.58%

となっていました。

※自動車は貨物車を含む
※自転車は自検協よりおおよその推移
※致死率=事故により無くなってしまう割合

自動車が一番多いのは一番多くの人に利用されているから当たり前ですね。

これでは比較にならないので平成27年度の保有台数で率を出してみましょう。

状態別 保有台数 死亡率 重傷率 軽傷率 事故率
自動車 75,169,950台 0.0017% 0.0143% 0.574% 0.59%
自動二輪 3,589,551台 0.0124% 0.1426% 0.777% 0.93%
原付 7,892,793台 0.0029% 0.0749% 0.400% 0.47%
自転車 約71,500,000台 0.0008% 0.0118% 0.124% 0.13%

・・・言い逃れが出来ないのでハッキリ言いますが自動二輪(126cc~)は確かに頭一つ抜けています。それでも死亡率は約0.01%つまり1万人に1人であり、事故率もそれほど高いとは言えません。

が、それよりも本題の原付に注目してみてください。原付で交通事故死してしまう確率は0.0029%で約3.5万人に1人の割合です。さすがに走る部屋である車には負けますが、そのぶん事故を起こす確率は自動車よりも低い0.47%となってる。

渋谷50

こうやって数字で見てみると思っていたよりも危険な乗り物ではない事がわかると思います。

更に加えて言っておきたいのが「バイク乗りのノーヘル率は38.5%(警視庁調べ)」で書いた通り、正しくヘルメットを被っていれば亡くならずに助かっていた割合が38.5%もありました。

二輪死亡事故の割合

つまり自動車に乗ったらシートベルトを締めるのが当たり前のように、バイクでもヘルメットをしっかり被りアゴ紐を締めるようにすれば原付の死亡率は自動車と全く同じ0.0017%にまで下がるわけです。

更にバイク用のウェアまでちゃんとつけてれば車よりも死亡率は下になる。いやだからといって無茶な運転はいけませんよ。

アゴ紐しっかり

もちろん原付の事故や死亡率が低いのは自動車を運転するドライバー達の配慮もあります。ただ、その目の前の人が自動車ではなく原付に乗っているおかげで渋滞が緩和されているわけなので持つ持たれつでもあるわけですが。

数字で見るとそれほどでもないのに何故コレほどまでに”原付は危ない”というイメージが定着してしまったのかと言えば間違いなく”三ない運動(バイクの三ない運動の歴史と今後)”によるものでしょう。

三ない運動

この間違った運動によりバイク(特に原付)は正しく理解されず危険な乗り物という烙印を今でも押されたままになっている。

イメージや風評で語られるという非常に悲しい現実。運動が無くなって20年以上は経とうとしているにも関わらず残っているこのイメージを払拭するのは簡単ではないでしょう。

原チャレ

でも、だからこそ同じようにバイクに乗る人から原付は危ないという先入観を捨て去って欲しいと思います。

如何にしてホンダは半値以下の模倣車に勝ったのか ~日本メーカーが強い理由~

ホンダの模倣車対策

「バイク事業は日本メーカーが強すぎる」

「バイク事業への新規参入は中国メーカーでも無理」

というような論調のニュースや声が定期的に言われているのは皆さんご存知かと。

世界最大の市場と言われるアジアなんかを見てもホンダを筆頭に日本メーカーの人気が凄い。

アジアのマーケットシェア

これについて日本のバイク乗りからすると

「やっぱ日本車が高性能で故障知らずだからでしょ」

と思いがちなんですが、実際はそう単純な話ではない。

では日本メーカーの人気要因が何なのかという話になるんですが、これはホンダが実際に行なった例が分かりやすいのでそれをザックリ書いていきます。

ちなみにこの話は

「なぜ日本メーカーを脅かす存在が現れないのか」

にも繋がる事だったりします。

アジア市場ではホンダが人気と話したんですが、じゃあホンダは最初から順風満帆だったかというとそうでもないどころか2000年頃に生産停止や撤退危機に陥った過去があります。

その舞台となった国は意外にも今やバイクの事をホンダと呼称するほどホンダ天国と言われているベトナム。

ベトナムの二輪販売シェア2019

ホンダは元々ベトナムへ1960年代からカブを輸出しており大人気だったのですが、1965年にベトナム戦争が開始されるとアメリカの意向により輸入が禁止され、売りたくても売れない状況に。

しかしそれでも日本に買い付けに来る人や、家族のためにお金ではなくカブを仕送りする在日ベトナム人なんかが当たり前にいたほどカブ人気は健在でした。

そこから時代は進んで1996年になるとベトナムも落ち着いた事でASEAN自由貿易協定に加入し市場が開放されると、ホンダとしては逃す手はなく同年に現地法人と工場を設立というスピーディな対応を取りました。

ベトナムホンダ

既に進出し成功を収めていたマレーシアやインドネシアなど周辺諸国での経験を元に、タイで生産していた100EX(通称タイカブ)をベースとしたベトナム仕様

『SuperDream』

を主力に据えて現地生産を開始。

ベトナムホンダ

「超低燃費で五人乗れて壊れない」

という現地の人たちの用途を考慮した完璧なカブで、これでベトナムでも成功を収める事に成功・・・しなかった。

原因はソックリだけど半値以下で買えるバイクが登場したから。

コピーバイク

『コピーバイク(カブの模倣車)』

です。

HANDAやHUNDAなどと書かれたホンダっぽいコピーバイクの写真を見て笑った事がある人も居ると思いますが、これホンダにとっては本当に笑い事ではなかった。

何故ならコピーなので当然ながら開発費が要らないし、現地法人もヘッタクレも無く売りっぱなしなことから正規品であるホンダより圧倒的に安かったから。

どれくらい安かったのかというとホンダが2000ドルだったのに対して500ドルと約1/4の値段。一番問題となったベトナムの平均月収(当時)は150ドルだったので日本円で例えるとこういう感じになる。

ベトナムホンダ

いくらベトナムでホンダが現地法人を構えて販売してようと、いくらホンダが間違いない超一流ブランドとして認知されていようと、これでは厳しいのは分かるかと。

ここで少し簡単な補足。

「このコピーバイクは何故から生まれたの」

という話をするとほとんどが中国。発端は1980年代にホンダを含む日本メーカーが中国市場参入の見返りに現地政府資本企業と合併及び技術提携を行なった事にあります。

でも技術提携自体は別に中国に限った話ではなくマレーシアやベトナムなど他国でもそう。

「開放する代わりに国内の産業や雇用を助けてね」

っていう蜜を吸いに来ても良いけど花粉を運べよ的な話。

しかし1990年代に入って中国政府が

『新自動車工業産業政策』

『汽車工業産業政策』

などの政策を打ち出した事で歯車が狂い出した。

この政策は分かりやすく言うと

中国の自動車政策

「自動車産業の国産化に注力して世界で戦える中国車メーカーを育成するぞ」

という政策で、日系企業と技術提携していた中国企業の息がかかった中国系サプライヤー(部品屋)が中国全土にドンドン出来てドンドン生産を開始した。

しかし国土や人口を見れば分かる通りあまりにも巨大過ぎる市場だったため完全な統率を取ることが出来ず、何処からか部品や図面が流出し、それを元にコピーやそのまたコピーが造られ、やがてその集合体である

デッドコピーカブ

『デッドコピー(模倣車)』

を組み立てて売る日系企業とも中国政府資本企業とも全く繋がっていない完成車コピーメーカーが2000年頃に入ると現れ始めた。これがコピーバイクが生まれた要因。

「でも偽物って造るのはもちろん販売や輸入出ってダメじゃないの」

と思うところですが意匠権などの知的財産権で争うにも法廷の場は中国で、中国においてバイクはモジュール的な扱いだったからスーパーカブという車種そのものの権利を主張するのは難しかった。

パソコンに例えると分かりやすいんですが

「オリジナルPCっていうけど既製品を組み合わせただけじゃん」

という考えの延長線上にバイクもあったという話。

加えて当時は中国もベトナムもWTO(著作権問題なども取り扱う世界貿易機関)に加盟していなかった。

WTO

つまり国際的なルールが通用しない状態だったからコピーバイクが当たり前に入ってきて当たり前に販売されていたわけ。

もちろん性能や品質や耐久性には雲泥の差があったものの、懐事情を考えると背に腹は代えられないと安価なコピーバイクを求める人が後を絶たなかったため、それを取り扱うバイク屋が増えるだけでなく酷い所になるとホンダの看板を掲げて騙すように売る店まで出てきた。

さらに最悪なことにコピーバイクがシェアを握った事で農機具を生業としていた地元企業が

「農機具よりコピーバイクの補修部品を製造したほうが儲かるわ」

とコピーバイクのサプライヤーみたいな補完事業を自ら始める所まで続出し、コピーバイク最大の欠点だった売りっぱなしの問題が解消される始末。

こうしてコピーバイクの好循環(ホンダからすると悪循環)の流れが生まれてしまった事でホンダはシェアを全く伸ばせずにいました。

ベトナムホンダ

2002年に若干盛り返しているのは既存モデルの値下げを行なった事と、装備を簡素化する事で1000ドルを切る価格にまで抑えたWAVEαというモデルを投入したから。

しかしそれでも中国のコピーバイクには劣勢で、単純な値下げにより業績は悪化の一途だった。

そんなコピーバイクの爆発的な普及はやがてホンダという一企業だけでなく社会全体にまで悪影響を及ぼし始めます。

信頼性のないバイクが道路を埋め尽くす形になったので、故障や整備不良による事故や渋滞などが多発するようになったんです。

ベトナムで模倣車によるトラブルが続出

特にベトナムでは原付免許が不要で誰でもすぐに乗れた事もあり社会問題化。

これを重く見たベトナム政府は2002年末に

・品質規制

・関税アップ

・輸入枠(総量規制)

など輸入車を抑制する規制を実施。

ベトナムの輸入車規制

これを機にホンダは形勢逆転・・・とはならない。

それどころかホンダは遂にベトナムの工場を停止させる事態にまでなった。何故ならホンダも多くの部品を輸入していたから。

確かにホンダは完成車を現地ベトナムで生産していたんですが、品質確保のために部品は日本や周辺諸国で既に稼働していたサプライヤー(部品製造会社)から輸入しているものが多かったんです。

ベトナムホンダの製造ライン

そのため輸入枠(総量規制)をオーバー。部品が届かない状況になり工場が止まってしまったというわけ。

ホンダCA100

絶対的なブランドはあるのに売れない歯ぎしりしたくなるような状態・・・そこでホンダは大きく方針転換。それまでのサプライチェーン(製造網)を大きく見直す事にした。

まず既存サプライヤーに現地生産化や値下げを要請。それにサプライヤーが応じられない場合は現地でコピー部品を製造していた企業、少し上で話した

「農機具よりコピーバイク補修部品の方が儲かるわ」

と言って製造していた現地企業を技術支援し正規サプライヤーとして取り込んだ。

つまり

『海賊品を正規採用する』

という逆転の発想というかもはや奇策に出た。

しかしこの効果は絶大で、これによりホンダは一気に形勢逆転する事になります。

何故これが効果絶大だったのか。

現地生産率を上げれば規制や関税を回避出来るうえ、コピーバイクに匹敵するほど車体価格が大幅に抑えられるという点がまず第一にあるんですが、その現地サプライヤーは元々はコピーバイクの補修部品を製造していた所。

それを自陣に引き込むという事は・・・そう、コピーバイクを支えていた

『コピー部品潰し』

になるという事。

さらに現地企業を抱えるということは、その国の産業を支える事と同義なので政府も厚遇こそせれど冷遇は出来ない。ホンダを冷遇するということは自国の産業まで冷遇する事になるからです。

実際ベトナム政府は2000年代後半にWTOへ加盟すると、ホンダと協力してコピーバイクの排除に積極的に乗り出しました。

ベトナムホンダ

これはWTOへの知的財産保護アピールもあるんですが、自国の産業が絡んでないコピーバイクが売れてもベトナム的には美味しくないという事実も大きく影響している。

これがホンダが半値以下のコピーバイクに対して行なった必勝法ともいえる戦略。毒薬変じて薬となるというやつですね。

さらにこれには嬉しい誤算もありました。安価なコピーバイクがバラ撒かれた事でそれまでバイクを買えなかった人たちも買うようになりバイク人口や市場が爆発的に増加していた。

そこからの

『コピーバイク潰し&コピーバイク並に安い正規カブ販売』

となったのでホンダはその丸々と太ったバイク市場を丸ごと頂く美味しい形になったんです。その結果がホンダ天国(シェア76.8%)というわけ。

ベトナムの二輪販売シェア2019

そして同時に

「新興メーカーがバイク事業へ参入するのはもう厳しい」

と言われるのは、説明してきたようにホンダを始めとした日系バイクメーカーが、既存サプライチェーンで乗り込む焼畑戦略ではなく現地サプライチェーン構築という共存戦略を取るようになったから。

ベトナムのバイク乗り

「現地政府も、現地製造業も、そして現地消費者もみんな日系メーカー側についている」

という背景があるから厳しいという話。

ホンダはこの取り組みを

『真のグローバル企業』

と称し、また経済学の方でも高い評価を得ています。

【余談】

長くなったので割愛しましたが同時期に中国でも近いことが行われています。

2012年にスーパーカブ(AA04/JA10)として日本にも入ってきたのでご存知の方も多いかと思いますが、あっちはサプライヤーを買収育成するのではなくその胴元といえるコピーバイクメーカーとの合併。

中国政府のWTO加盟に危機感を持ったコピーバイクメーカーがホンダに掛け合い、苦戦していたホンダもコピーメーカーのサプライチェーンが利用できると判断したことで実現した形になります。

【参考資料】
Hondaの海外事業展開におけるコピー対応の事例|本田技研工業株式会社 二輪事業本部二輪営業部長 井沼俊之

下請けの現地化|一橋大学大学院経営管理研究科 PHAM THI XUAN THO

中国におけるホンダの二輪生産とコピー車対策|大阪産業大学経営論集第八巻二号

オートバイが広く普及している国は?

世界地図

参照:社会情勢図鑑

ホンダ・ヤマハ・スズキ・カワサキ

バイク大手メーカーが四社も誕生している我らが日本。

しかし駐禁問題や免許制度や規制や三ない運動といった多くの足枷により

「日本はバイクに優しくない。バイク業界を潰そうとしている。」

等と思っている人は多いと思います。

そんな日本は世界で見た場合どれほどバイクが普及しているのか見てみると意外な結果が出る。

人口100人あたりのバイク普及台数

日本は100人あたり9.5台バイクがある。

そしてバイクに理解があり、生活に根付いていると言われるEUではスクーターの母国であるイタリアが日本を抜く14.2台。

そしてもう一カ国は意外にもスイス。

何でスイスか調べてみるとスイスは自転車やバイクの文化が根付いているとのこと。

スイス

こんな大絶景を拝みながら走れるとか最高ですよね。そりゃバイク乗るわって話。

しかしイタリアとスイスを除くと日本以上にオートバイが普及している国は先進国ではもう居ないんですね。
ハーレーの母国であるアメリカは意外にも2.6台、レース大好きなイギリスに至っては2.3台と驚くほど少ない。

逆にそんな先進国とは比べ物にならないほど普及しているのが台湾、マレーシア、ベトナム、タイ、インドネシアといった東南アジア。

台湾に至っては100人あたり65.3台と驚異的な台数。

ニューモデルや生産国が東南アジアばかりなのはこういった背景があるからなんです。

日本車が故障知らずになった理由

これは四輪でも言えることなんですが日本車(日本メーカー)が世界中で売れる様になった理由は高性能やリーズナブルさも勿論ありますが一番は

『故障しない』

という事だと思いますが、では

「どうして日本メーカーはそこまで信頼性を重視したのか」

というと、これは一重に世界的に見てお金持ちが多いアメリカで売るためと言えます。

アメリカの影響

「アメリカと故障に何の関係が」

と思われるかも知れませんが、これに関するエピソードが幾つかあるので紹介します。

アメリカで一番早く成功したバイクメーカーといえば世界一であり故障知らずな事もあって優等生と言われるホンダですが、そんなホンダは1959年にアメリカに進出。

アメリカで定着したカブ

カブを足がかりに快進撃を始めたのですが・・・実は最初はカブを売っていないんです。

最初はCB92やベンリィなど小排気量(当時のホンダとしては最高クラスの)スポーツバイクのみの販売でした。

当時の広告写真

カブを扱わなかった理由はアメリカ人には排気量が小さすぎる事などから

「ブランドイメージを損なう」

と本田宗一郎が考えたから。

この頃の宗一郎というのは大型バイクを重視していた頃。アメリカではスーパースポーツメーカーとして売り出したかったんでしょうね。

しかしここで問題が起きます・・・なんと自慢の商品だった上記車種の故障が続出するというホンダらしからぬ大失態を招いたんです。

この原因はアメリカの環境が日本と違っていたことにあります。

アメリカの道路

アメリカはどこまでも真っ直ぐな長い道が多い。

つまり長距離をブンブン回しながら走る、常に最高速アタックをする様な環境だったからバイクが持たなかったんです。

この一件でホンダは参入と同時に

「アメリカで売れるバイクがない」

という窮地に。

そんな中でアメリカホンダのバイアーだったシアーズという企業が従業員用に配られていたスーパーカブC100を見て

「アレ(スーパーカブ)を売れよ」

と持ちかけて来た。

最初に言ったようにホンダは売るつもりはなかったものの、相次ぐ故障で売れるバイクがなくなってしまい背に腹は変えられないという事でスーパーカブの販売を進出から8ヶ月後に販売開始。

アメリカでのカブ

皆さんご存知のようにその耐久性の高さからアメリカの中流層にそれまで存在しなかった下駄車という文化を根付かせるほどの大ヒットに。

そこから更にリピーターが生まれホンダは一気にシェアを拡大していく事となりました。

※リチャード・パスカル「ジャパニーズ・マネジメント-日本的経営に学ぶ」より

そしてもう一つ紹介したいのが同じく日本を代表するバイクメーカーであるスズキ、正しくは鈴木修会長の自伝「俺は中小企業のおやじ」のエピソード。

スズキもホンダに少し遅れる形でアメリカに進出し1967年に『X-6 HUSTLER』というバイクの輸出を始めたところ、これが非常に人気で一年で2万台近く売れる日本では考えられないアメリカだからこそ実現した大ヒットとなりました。

スズキX-6

ところが・・・これまたホンダと同じ様に二年目になると

「ミッションが簡単に壊れる」

というクレームが相次ぎ修理や返品の嵐になった。

当時USスズキに所存していた鈴木修会長は急いで日本の本社へ電話し故障の旨を伝えたところ

「そんな故障は(日本では)無い。何かの間違いだろう。」

と突っぱねられて話が進まず。

横内さん

そこで鈴木会長は横内さん(刀やRG250ΓやGSX-Rの生みの親)をアメリカに呼び寄せ調査させたところ問題が判明。

『クラッチを切らずに蹴るように入れる横暴なシフトチェンジ』

が原因だったんです。

そりゃ壊れるわって話。自動遠心クラッチのカブが壊れず好評だったのも納得ですね。

ちなみにこの一件でUSスズキは大赤字となり鈴木会長は責任を取るために辞表を提出。引き止められたものの浜松本社へ戻る事は許されず支局へ異動、事実上の降格&左遷となりました。

話を戻します。

要するにこれらのエピソードからも分かる通り、日本車がどうしてこれほどまでに故障知らずになったのかというとアメリカで売っても大丈夫な様にするため。

もっと突っ込んで言うと

ユナイテッド・ステイツ・オブ・アメリカ

「アメリカ人が運転しても壊れないように作るようになったから」

国が広大なせいか向こうの人は本当に故障を嫌うらしく、四輪の方ですがドイツ車(ポルシェは除く)がアメリカで人気が無いのも壊れるからなんだそう。

「じゃあお前のところのハーレーは何なんだ」

と言いたくもなりますが・・・層が違うか。

兎にも角にもアメリカ人が運転して壊れないということは世界中どこの国の人が運転しても壊れない。

こうして世界中どこで売っても

「日本車は壊れない」

という評価になったという話。

良く言えばアメリカ人に鍛えられたと言えなくもないんですが、免許取得が先進国にあるまじき簡易さな事やカーチェイスが人気な事からも察せる通りアメリカは本当に運転が荒い人が多い。

ここで思い出したのが10年ほど前にスズキがGSX-R1000で行ったリコール。

アメリカでリコール

「海外(米国)でウィリーし過ぎるとフレームにクラックが入ることが判明したのでリコールします」

日本車を信頼してるのはありがたいけどもう少し大切に扱えっていう。

MUGENはバイクも色々やっている

無限パワー

四輪を知っているなら一度は聞いたことがあるであろうチューニングメーカーのMUGEN。

正確に言うと現在は2003年頃に法人税に関するゴタゴタで『(株)M-TEC』という会社がMUGENブランドを担っている形なんですが、MUGENは三度の飯よりレースエンジン設計が好きで後に四代目ホンダ社長にもなる川本さん(右から二番目)が宗一郎の長男である本田博敏さんらと共同でレース開発部門がわりに創設したのが始まり。

無限の創設者メンバー

動機はレースから一歩引くホンダの経営方針に納得出来なかったから。つまり端的に言うとホンダ社内のレース狂エンジニア達の放課後クラブ的な立ち位置でスタートした会社というわけ。

そうして1973年創設と同時にFJ1300という日本フォーミュラレース用にシビックの1.3LをベースにしたMF318というエンジンを開発。

MF318

これを皮切りにGTやフォーミュラなどで活躍していきます。

そのためどうしても四輪系チューニングメーカーというイメージが強いかと思いますが、バイクも色々やってますのでそれを少し紹介。

バイクにとっての始まりは創設から3年後となる1976年。

ヤマハファクトリーで全日本モトクロス選手権のタイトルを獲得した鈴木秀明さんがヤマハを退職し、新しいチームを模索する中でMUGEN(正確には本田博俊)に働きかけたのが始まり。

鈴木秀明さんからのラブコールに無限が応えたのが始まりなんですが、実際に無限が用意できたのはファクトリーマシンではなく市販モトクロッサーであるCRM125M。

ME125R

プロトタイプのファクトリーマシンが当たり前な世界では無謀とも言えるマシンだったんですが、しかし鈴木秀明とタッグを組み二人三脚でマシンを仕上げただけではなく見事1976年(一年目)の全日本モトクロスGPで総合優勝という快挙を達成。

1976

「もう一つのワークス」

と言われ、また翌年からは他のライダーへのマシン供給やパワーアップキットの販売も開始。

1979年頃になるとホンダがモトクロスレース活動を本格的に再開した事もありワークス代わりという役割を終えるわけですが、そのワークスマシンにはMUGENの開発技術が大きく取り入れられておりMUGENキットを組み込んだ自身のマシンも大健闘。

その勢いは留まるところを知らず1980年にはあの世界モトクロスGP125で無限のME125Wが見事に優勝しています。

ME125W

その後も約16年間に渡りモトクロスレースを戦うだけではなく、レーサー育成に重点を起いた活動やパワーアップキットやコンプリートマシンなどレースの敷居を下げる事に尽力していました。

MUGENとバイクの関係性があまり認知されていないのは国内ではマイナーなモトクロスが基本だったからというわけなんですが、一応オンロードの方でも活動しています。

代表的なのが1984年に鈴鹿8耐に向けてムーンクラフトとチーム生沢と協力しCBX750Fレーサーを製作したマシン。

ME125W

『White Bull(ホワイトブル)』

二年連続で参戦し一時は6位を走行したりするほどの大健闘。ちなみに第一ライダーはマン島TTで通算26勝を上げ銅像まで建てられた欧州で最も有名なライダーであるジョイ・ダンロップというライダーもエンジニアも凄い人達が集結したチームでした。

そこから少し飛んで2001年になるとこんなモデルも販売。

MFT250

「FTRじゃん」

と思われるかも知れませんが、FTRではなくXR250のエンジンをオリジナルフレームに搭載したMFT250という無限オリジナルモデル。

これは既に生産終了されていたもののダートレースのエントリー車両として需要があったFTRが、いわゆるストリートバイクブームによる高騰のせいで購入できない事態に発展した事が由来。

MFT250カタログ写真

育成に力を入れていた無限としては看過できない問題だとして用意したんですね。

ただこの後すぐに量産効果により比べ物にならないほど安かったFTRが復活した為、100万円近い値段で公道も走れないMFT250はお役御免となりました。

そこから先はご存知の方も多いと思いますがRRの無限仕様などチューニングというより無限カスタムパーツやそのコンプリートマシンを展開。

MFT250カタログ写真

今もホンダ車全般で扱っていたりしますので気になる方は無限のホームページかホンダドリームをどうぞ。

ちなみに正規販売されていなかったVFR-Xを無限仕様として販売など逆輸入車取り扱い的な事もやっていましたね。

少し話を巻き戻しますが、次に紹介したいのが1998年に製作したエンジン。

無限MRV1000

『MRV1000(エンジンのみ)』

・空冷OHVバンク角70°ドライサンプ式
・955cc(89mm×80mm)
・51ps/5000rpm

今では平気で1億円する幻のイギリスバイクであるヴィンセントブラックシャドウに近い、MUGENが開発したとは思えないノスタルジック臭プンプンのエンジン。

ブラックシャドウ

何故MUGENはこんなエンジンを造ったのかと言うと、本田博敏さんや永松邦臣さん(ホンダ出身の二輪も四輪もこなしたプロレーサー)らが

「スチームパンクな味のあるバイクを造りたいね」

と意気投合したから。

そうして1996年からF3やGT選手権の合間をぬって開発し出来上がったのがこの

『MRV(Mugen Racing V-twin)』

というエンジン。

MRVエンジン

ただしこれを製作したエンジニアの勝間田さんいわくレースエンジンと同じ要領で開発してしまったためコストがとんでもないことになり試作エンジンが完成した時点で開発中止が決定しお蔵入り。

MRV1000

「じゃあこの超カッコイイ完成車はなんだ」

という話なんですが、これは企画者の一人である永松さんが2000年のマン島TTクラシックに出場するために製作されたもの。

恐らくこの世に数台というか恐らく一台しか無い。

しかしそれから約20年後となる2018年の東京モーターショーに1400cc化とミッション別体式にリファインされまさかの復活。

MRV1400エンジン

さらに驚くべきことに今回はスタディモデル(試作機)としながらも2020年の販売を目指しているとの事。

ただし前回同様エンジン単体のみの予定で、全体像をどう纏めるかはフレームビルダー達にお任せというスタンス。

MRV1400のイメージデザイン

奇しくも2018年にエグリという過去にヴィンセントエンジンのレーサー

『エグリ・ヴィンセント』

を造って有名になったフレーム屋(スイス版ビモータのような存在)が復活してるんですよね。

エグリヴィンセント

そう考えるとエグリヴィンセントならぬエグリ無限が世に出る可能性も無きにしもあらず・・・ただ庶民が買える値段じゃなくなる可能性も高いですが。

ちなみにMRV1000による2000年マン島クラシックTTへの挑戦に触発されて始めたのがこれ。

MUGEN神電

『神電(shinden)』

マン島TTレースのZEROクラス(CO2ゼロクラス)向けのEVスーパースポーツ。

無類の速さで6連覇を達成しました・・・が、残念ながら2019年をもって活動を中止するとの事。

ただし代わりと言ってはなんですが2017年から『E.REX』というEVモトクロッサーの製作を進めています。

MUGEN神電

MUGENがモトクロッサーを造る理由、そしてEVにする理由は長々と書いてきた歴史を見ればもはや説明する必要は無いですよね。

『モトクロッサーと神電というMUGENが持つ技術の融合』

それがこのE.REXというわけ。もしかしたら昔みたいにモトクロス競技でワークス顔負けの時代が再び訪れるかも知れない。

参照:無限 MUGENホームページ