集合管マフラーは生みの親のヨシムラにとっても謎パーツだった

Z1ヨシムラ4-1

今では当たり前になっている集合管マフラー。

世界で初めてバイクの集合管を作ったのはホンダでもヤマハでもスズキでもカワサキでもなく、かの有名な日本を代表するマフラーメーカーのヨシムラです。

初めて製作&装着されたのは1971年のAMAオンタリオ250マイルレース(レース管)でした。

AMAヨシムラCB750

まあ当時を知らない人が多いと思いますので説明しますと、世界初の市販直四であるホンダドリームCB750FOURは一気筒づつにマフラーを充てがう四本出しマフラーでした。

DREAM_CB750

Z1(Z2)もそうでしたね。というかそもそもバイクではまだ多気筒化への過渡期みたいなもんで集合管なんて存在していない時代です。

ヨシムラはそのアメリカでのレースで勝つため、軽量化の一環として四本出しマフラーを一本にしようと計画。そして集合管(4-1)を作りCB750に付けてみたら軽量化はできたんだけど、それよりも何故か馬力が四本出しよりも5馬力前後上がってる事が判明。

ヨシムラ集合管

これは排気脈動(圧力波)による効果なのですが、当然ながら当時はまだそんな事も分かっていない時代。後から分析して判明した効果なんです。排気脈動については>>FZR250(3HX)

つまり集合管にしたのは軽量化が目的だったんだけど

”何故かは分からないけど集合管にすると馬力が上がる”

というのがヨシムラの開発で初めて判明。これが集合管の始まりなわけです。

「ヨシムラのCBは四気筒なのにマフラーが一本しか出てないぞ!排気音も全然違う!」

と、非常に珍しかったので注目の的に。しかも走らせてみたら速い速い。

当然トップ走行だったものの残念ながら故障でリタイアしてしまったのですが、この一件以降アメリカでは集合管ブームが巻き起こりました。

ヨシムラも翌年には市販車のCB750FOURやZ1向けの集合管マフラーを引き下げ、アメリカ市場に進出するまでに。

Z1000A

後のCB750FOUR-2やZ1000Aが集合管になったのもこういう背景があったからなんですね。

ただ日本ではマフラーの本数が排気量を表すシンボル的な要素が強かったので最初は受け入れられませんでした。

ホンダがSUZUKAとMOTEGIを作った理由

三重県鈴鹿市にある鈴鹿サーキットと、栃木県茂木市にあるツインリンクもてぎ。

日本有数の国際サーキットなだけあり、走行やスクールだけでなく大規模なレースが毎年開催されています。

【ツインリンクもてぎ】
MotoGP・全日本・トライアル・SUPER GT(四輪)

【鈴鹿サーキット】

鈴鹿8耐・全日本・F1・SUPER GT(四輪)

などなど

サーキットやレースに全く関心のない人に断っておきますが、この二つはただ大きいコースがあるだけのサーキット場じゃないですよ。

どちらかというとコースもあるアトラクションだらけの遊園地です。

ホンダという強力なバックを武器に、採算取れていないとしか思えないクオリティのアトラクションだらけ。

「ここに来て喜ばない子供は居ない」

と断言できるというか、大人でも楽しめるほど充実しています。

さて本題。

先に建造されたのは鈴鹿サーキットで1962年に作られました。

鈴鹿サーキットは日本初の全面舗装サーキットなんですが、これは本田宗一郎が

「レース場&試験場が欲しい。絶対に必要。」

と言い出したのが始まり。

今では信じられない話ですが、昔はボコボコの河川敷や峠道でテストしていたんですよ。

ただし鈴鹿サーキットの建設は一筋縄では行きませんでした。

というのも当時の日本はモータースポーツ観戦という娯楽文化がなかったから。

観戦できる様に観戦席を設けようとしたら・・・

「ホンダがギャンブル場を作ろうとしている。」

という誤解が広まり、地元住民や自治体を中心に猛反対されてしまったわけです。

競艇場とか競馬場の延長線上に捉えられてしまったんでしょうね。いま聞くと笑える話ですが。

しかしサーキット場を造ることは副社長だった藤沢さんも賛成で、あちこち説得して回ることで誤解を解き建設にこぎつけた歴史があります。

藤沢副社長がなぜ賛成したのかというと

「モータリゼーションの底上げに繋がる」

と考えたから。

そしてそのためのもうひと工夫。

親子で楽しめる施設にして、小さい子にも(小さい頃から)その面白さを身近に感じ、知ってもらいたいと考えた。

そうして生まれたアイディアがアトラクション併設という形。

今も昔もコースだけでなく親子で楽しめるアトラクションが充実しているのはこのため。

藤沢副社長が目指したのは

『ゴミが一つも落ちていないサーキットを兼ねた遊園地』

これは”夢を与える”という同じコンセプトを持っていたディズニーランドにヒントを得たそう。

つまり鈴鹿でゴミをポイ捨てする事は藤沢さんを冒涜する行為なので絶対に止めましょう・・・いや鈴鹿に限った話ではないですが。

それに対しツインリンクもてぎは1997年に作られた比較的新しい国内最大規模のサーキット場です。

ただし鈴鹿サーキットと同じくホンダが作りたくて作ったサーキット場であり、基本的なコンセプトも一緒。

だからアトラクションが充実しています。

しかしながら鈴鹿サーキットという立派なサーキットを既に持っていたにも関わらず

「どうしてホンダはもう一つ作ったのか」

って思いますよね。

サーキット場というのは莫大な維持費が掛かるので、ホームサーキットを持っていないメーカーも当たり前の様にいます。

国際サーキットを、それも日本国内に二つも持つというのは普通では有り得ない話。

じゃあホンダが何故ツインリンクもてぎを作ったのかというと

「関東でレース出来る場所が欲しい」

という営業側からの要望がキッカケです。

要するに首都圏からアクセスが良い場所に欲しいという話。

でもですね・・・これはただのキッカケ。

要望が持ち込まれた当時(80年代)の社長は三代目になる久米是志社長。

「自動車技術会インタビュー(pdf)」で話されていたのですが、久米社長にはずっと気がかりな事がありました。

「現地生産の流れで輸出はいずれ出来なくなる。資源のない日本は知的財産しか飯を食える道はない。」

日本からの輸出がどんどん減っている状況に懸念を抱いていたわけです。

「じゃあ知的財産ってなんだろう。」

と考えた時、ホンダの脳と言われる開発部門の研究所を置いておくだけでは不十分。

「道具としてではなくカルチャーとして親しむ人達がいてこその知的財産」

と考えたわけです。

そしてそれにはそういう人達が集まれる場所が必要不可欠。そうした場合、やはり場所は集まりやすい関東が良い。

そんな考えがあったから久米社長は計画を承認したんです。

「触る、作る、楽しむ、遊ぶ・・・そういう事が好きな人達が集まって面白いことをやりだす”モータリゼーションの聖地”みたい場所を作りたかった。」

「『もてぎに行けば何かしらやってるぜ』って言われる様になるといいなって。」

これが二つ目の国際サーキット”ツインリンクもてぎ”が作られた理由です。

【ツインリンクもてぎ公式HP】

【鈴鹿サーキット公式HP】

あなたと同じ年に生まれたバイク ~1950年から2004年まで~

1950年から2004年まで

知名度があるその年のニューモデル(新しく誕生した名前の日本車)を1950年から2004年まで上げてみました。

自分と同い年のバイクは何か、昔のバイクを知るキッカケにでもなれば幸いです。

1950年代生まれ

1960年代生まれ

1970年代生まれ

1980年代生まれ

1990年代生まれ

2000年代生まれ

1950年生まれ|ラビットS-41

XL250

スクーター事業に乗り出していた富士工業(現スバル)が出したモデル。単気筒ながら169ccと当時の原付免許(~150cc)を超える規格と大柄な車体で大型高級スクーター路線の草分け的なモデルだった。

1951年生まれ|ドリームE型

ドリームE型

後に二代目ホンダ社長となる河島さんがエンジン設計を担当した4stエンジンのモデル。性能と耐久性の高さで宗一郎を感心させホンダを4stの道へ進めることになった名車。

関連ページ:第三章 本田技研工業設立と藤沢武夫/本田宗一郎の系譜

【その他】

・シルバーピジョンC21

1952年生まれ|カブF号

カブF号

白いガソリンタンクと真っ赤なエンジンが特徴のバイクモーター(自転車に付ける補助エンジン)が特徴のモデル。運転で衣服が汚れないよう後部に備え付けなどのアイディアがヒットを呼び、HONDAの名を全国に知らしめた。

関連ページ:カブF号/スーパーカブの系譜

【その他】

・スズキパワーフリー号

1953年生まれ|VFE-LTS

VFE-LTS

国内最大排気量バイクメーカーであった陸王のラインナップでトップに位置していたモデル。主に警察など官用向けの高級車。

関連ページ:国産ハーレー『陸王』とは

【その他】

・ダイヤモンドフリー号

1954年生まれ|ジュノオK

ジュノオK

ホンダが初めて作ったスクーター。富裕層で流行っていた事が背景にあり高級志向を追求した結果とんでもない重さ(乾燥重量で170kg)になった。

【その他】

・コレダCO-L(スズキ初の完成車)

1955年生まれ|YA-1

赤とんぼ

赤トンボでお馴染みヤマハの原点モデル。国内レースで表彰台を独占する速さを見せつけた事でバイクメーカーとして認められた。

関連ページ:原点進行形YAMAHA125(YA-1)/系譜の外側

【その他】

・コレダST-II

1956年生まれ|Z7 スタミナ

Z7スタミナ

メグロシリーズの市販車として初めてスイングアームを採用したモデル。公募により”スタミナ”の愛称が与えられた多くの人にとって憧れのメグロを象徴するモデルだった。

関連ページ:メグロKシリーズ/Wの系譜

1957年生まれ|250YD-1

250YD-1

赤とんぼYA-1(125)によりレース場で敵無しだったヤマハがさらなる一手として出してきた250版YA-1のようなモデル。周囲の期待通りこのモデルでもレースで勝利を収め、楽器屋とバカにする人は居なくなった。

1958年生まれ|スーパーカブC100

スーパーカブC100

世界160ヶ国以上で販売され総生産台数1億台を突破したスーパーカブの初代モデル。今でこそ見慣れているが当時はデザインも走行性能も価格も飛び抜けた最高級原付だった。

関連ページ:スーパーカブC100/スーパーカブの系譜

【その他】

・陸王750RTII

1959年生まれ|ドリームCB92

CB92

初めてCBの名を冠した市販スーパースポーツ。日本とSSそしてアマチュアレースの歴史における原点。

関連ページ:雪辱のSSその名はシービー CB92/系譜の外側

【その他】

YDS-1

1960年生まれ| K1 スタミナ

K1 スタミナ

メグロのバーチカルツインであり、メグロ最後の大型スポーツモデルであり、Wシリーズの元ネタでもあるモデル。

関連ページ:メグロKシリーズ/Wの系譜

【その他】

・ドリームSS CB72

1961年生まれ|モンキーZ100

モンキーZ100

ホンダが造った自動車遊園地である多摩テックのアトラクション。欧州に飾りとして持っていったところ反響を招きモンキーとして市販化される流れとなった。

関連ページ:モンキーZ100/モンキーの系譜

1962年生まれ|B8

B8

エンジン製造という形でバイクに関わっていた川崎航空機(現カワサキ)が初めて車体を含め全てを自社で手掛けた造り上げたモデル。地元兵庫で行われたモトクロス選手権で圧倒的な速さを見せつけた。

1963年生まれ|シルバーピジョン140/240

シルバーピジョン

新開発の2stパラツインエンジンを搭載した三菱重工業のスクーター。一時期は業界を牽引するほどの人気だったがスーパーカブの台頭により最後となってしまったシルバーピジョン。

1964年生まれ|SG

SG

目黒製作所としてのラストモデルであり非常に人気が出たモデルでもあるSG。そのためメグロエンブレムとカワサキエンブレムの両方があるモデル。カワサキが出したエストレヤの元ネタもこれ。

関連ページ:メグロジュニアシリーズ/エストレヤの系譜

1965年生まれ|ブリヂストン180

180TA1

タイヤでお馴染みブリヂストンが造った世界初のデュアルキャブ&ツインエンジンのハイエンドモデル。しかし残念ながらこのモデルが出てすぐ国内での販売を終了することになった。

関連ページ:ブリヂストンも昔バイクを作っていた/バイク豆知識

1966年生まれ|650-W1

メグロ時代に人気だったK2を再設計したカワサキ初の大型バイク。ダブワンの愛称で親しまれ国内のみならず世界へも輸出されていた。

関連ページ:650-W1(W1/S/SA)/Wの系譜

1967年生まれ|ベンリィ SS50

SS50

50ccのレースに合わせて造られたフルチューンベンリィ。6馬力、テレスコピック、5速ミッションなど贅沢の限りを尽くしたモデルだった。

1968年生まれ|トレールDT1

DT-1

オフロードを我慢するのではなく楽しく走る事が出来るバイクとして登場。国を問わず広く愛されトレールという車名(造語)がジャンルを表す言葉にまでなった。

関連ページ:冒険という感動想像 250DT1(214/233)/系譜の外側

1969年生まれ|CB750FOUR

量販車として初の直列4気筒バイク。マン島TT(最高峰レース)全制覇からの登場で世界中にホンダの技術力の高さを示した。

関連ページ:ドリームCB750FOUR/CB1300の系譜

【その他】

500SSマッハ3

ダックスホンダ(ST50)

・ハスラーTS250

1970年生まれ|650XS1

650XS1

ヤマハが世界へ打って出るために造った初の4st大型モデル。欧州勢と真っ向勝負になる650を敢えて選択、そのエンジン廻りにはトヨタ2000GTで得たノウハウが応用された。

1971年生まれ|GT750

GT750

スズキが造った国産初の水冷2stトリプルナナハン。常軌を逸したエキサイティング性能とその巨漢っぷりからウォーターバッファローという愛称で主にアメリカで大好評だった。

1972年生まれ|900SUPER4

Z1

Z1という型式が有名な名車中の名車。性能やデザインが優れていただけでなく耐久性も非常に高かったことからレース界でもベースマシンとして大人気だった。

関連ページ:900Super4(Z1/A/B)/Z1000の系譜

【その他】

・GT380(GT380)

1973年生まれ|750RS

Z2

750cc規制があった国内向けに用意されたナナハン版Zの通称ゼッツー。見た目はほぼ同じなもののエンジンの中身は別物なナナハン専用設計で日本のトップモデルに君臨。

関連ページ:750RS(Z2/Z2A)/Z900/RSの系譜

1974年生まれ|ドリーム400FOUR

750の弟版として登場した408ccの通称ヨンフォア。中型免許(~400cc)という規格が設けられる要因を作ったモデルで四気筒ゆえに当時は採算が取れず短命に終わった。

関連ページ:CB400FOUR(CB400F)/CB400SF/SBの系譜

【その他】

GL1000GOLDWING

1975年生まれ|XL250

XL250

2stが当たり前だったオフロード界で4stとして初めて成功したモデル。4st特有の低中速から厚みのあるエンジンが好評で林道ブームを巻き起こす源動力にもなった。

関連ページ:XL250/S/R(MD03)/CRF250の系譜

1976年生まれ|XT500

ヤマハが初めて造った4stビッグオフモデル。1万回キックテストなど軽量化と同時に耐久性も重視し非常に高い評価を獲得。パリダカ初代王者に輝いた後にSRへと転生する。

関連ページ:XT500(1E6)/SR400の系譜

1977年生まれ|KL250

カワサキが初めて造った4stオフロードバイク。モトクロッサー譲りのフレームと足回りを装備しており初代にして高い走破性を兼ね備えていたKLXシリーズの始まりとなるモデル。

関連ページ:KL250(KL250A/C)/KLX250の系譜

1978年生まれ|SR400

アメリカからの要望で造ったXT500のスクランブラー(ダートトラッカー)モデル。度重なる生産終了危機を乗り越えてきてたバイク界の生けるレジェンドはこの年に生まれた。

関連ページ:SR400(2H6)/SR400の系譜

【その他】

CBX(CB1/SC03/SC06)

Z1300(KZ1300A)

1979年生まれ|Z400FX

Z400FX

望まれていたものの長らく不在だった四気筒400ccの声に応える形で登場した羨望のZ。一度は生産終了したもののデザインの良さから再販された歴史があるモデル。

関連:Z400FX(KZ400E)/ZEPHYRの系譜

【その他】

CB750F(RC04)

・GS1000S

1980年生まれ|RZ250

市販レーサーTZ250を公道向けにした2stスーパースポーツ。風前の灯火だった2st最後の華として造られたものの爆発的な人気となったことで2st全体を押し上げ80年代2st黄金期を築く第一歩になったモデル。

関連:RZ250(4L3)/TZR250Rの系譜

【その他】

CBX400F(NC07)

GSX250E(GJ51B)

POCKE/VOGEL(4U1/7)

1981年生まれ|GSX1100S KATANA

KATANA

デザイン面に課題を抱えていたスズキがデザインコンペをキッカケに開発したフラッグシップ。ドイツのケルンショーで発表された際あまりにもインパクトがあった事からケルンの衝撃と称されたモデル。

関連:GSX1100S KATANA/KATANAの系譜

【その他】

モトコンポ(AB12)

XJ750(5G8)

1982年生まれ|VT250F

VT250F

勢いづく2stに対抗する形で登場した4ストVツインクォータースポーツ。35馬力を叩き出すエンジンはもちろんフロント16インチやプロリンクなど本気度MAX仕様だったモデル。

関連:VT250F(MC08)/VTRの系譜

【その他】

GSX750S(GS75X)

VF400F(NC13)

1983年生まれ|RG250ガンマ

ガンマ

セパレートハンドルとアルミフレームそれにフェアリングと初めてレーサー装備を完備して登場。レーサーレプリカブームの火蓋を切って落とす存在となったモデル。

関連:RG250Γ(GJ21A)/RGV-Γ250の系譜

【その他】

CBR400F(NC31)

GB250CLUBMAN(MC10)

GSX-R(GK71B)

JOG(27V)

1984年生まれ|GPZ900R

世界最速を掲げた元祖Ninjaでありその後のカワサキの方向性を決定づけるほどの影響を与えたモデル。最初は思ったほどの人気は出なかったものの映画トップガンに取り上げられた事を契機に20年近く販売されるロングセラーとなった。

関連:GPZ900R(ZX900A)/ZX-14R/GTRの系譜

【その他】

FZ400R(46X)

750TURBO(ZX750E)

KR250(KR250A)

1985年生まれ|Vmax

Vmax

V4エンジンによる遠慮知らずの加速力を持つ怒涛のドラッガー。そのわりにフレームは直ぐ走るのも困難なほどフニャフニャだったためプロライダーですらアクセルを全開にする事は出来なかった。

関連:Vmax1200(1FK~)/VMAXの系譜

【その他】

FZ750(1FM)

FZ250PHAZER(1HX)

TZR250(1KT)

SEROW(1KH)

GSX-R750(F/G/H)

GPZ400R(ZX400D)

1986年生まれ|NSR250R

MC16

2stに消極的だったホンダが2stのヤマハ打倒のために出したレーサーレプリカ。GPレーサーの名前を冠しているだけありデザインも性能も本物で、しかも乗りやすかった。

関連:NSR250R(MC16)/NSR250Rの系譜

【その他】

FUSION(MF02)

FZR250(2KR)

GSX-R1100(GV73A)

1987年生まれ|VFR750R

VFR750R

ワークスレーサーRVFのレプリカとして登場した通称RC30。打倒ワークス精神で造られた側面があり、構造も速さもそして価格も市販車の域を越えていた世界市販車レースの初代王者。

関連:VFR750R(RC30)/VFRの系譜

【その他】

GPX250R(EX250F/G)

NSR50/80(SC10/HC06)

・TW200(2JL)

1988年生まれ|アフリカツイン

アフリカツイン

砂漠を優雅に駆け抜ける姿から砂漠の女王と称されたダカールラリーを四連覇をレーサーNXRのレプリカモデル。当初は限定モデルだったが人気が出たことで定番化した。

関連:Africa Twin(RD03/04/07)/Africa Twinの系譜

【その他】

CBR400RR(NC23)

STEED400(NC26)

1989年生まれ|ZEPHYR

ゼファー

レーサーレプリカブームに一石を投じたオールドスタイルのネイキッド。数年で時代をネイキッドブームへと引っくり返すほどの影響力を与えたモデル。

関連:ZEPHYR(ZR400C)/ZEPHYRの系譜

【その他】

Bandit250(GJ74A)

Bandit400(GK75A)

ZXR400R(ZX400H/J)

・KDX200SR(DX200E)

1990年生まれ|CBR250RR

CBR250RR

猫も杓子もレーサーレプリカに乗るのが当たり前だった時代を象徴するマルチクォーター250の代表格的なモデル。非常に乗りやすかった事もあり老若男女問わず人気だった。

関連:CBR250RR(MC22)/CBR250RRの系譜

【その他】

ZZR1100(ZX1100C)

ZZR250(EX250H)

KSR(MX050/080)

1991年生まれ|BALIUS

バリオス

レーサーレプリカの強心臓とグラマラスなボディを持つ250ネイキッド。名前の由来はギリシャ神話に登場する名馬から。

関連:BALIUS(ZR250A)/ZXR250Rの系譜

【その他】

Goose(NJ46A/NK42A)

NS-1(AC12)

1992年生まれ|CB400SF

400シリーズの王者であり王道であり教習車として多くの人にバイクの運転を教えた名車。四気筒でオールドスタイルで400ccで足付きも良くてスポーツ性もあるという日本人の為にだけ存在するようなモデル。

関連:CB400SF(NC31)/CB400SF/SBの系譜

【その他】

エストレヤ(BJ250B)

CB1000SF(SC30)

CBR900RR(SC28)

DJEBEL250(SJ44A)

GSX400S KATANA(GK77A)

NR(RC40)

・DT200WR(3XP)

1993年生まれ|KLX250SR

KLX250

まだまだ2stが人気だった時代に登場した戦う4st。キャッチコピー通り2stに勝てるポテンシャルを持たせるために利便性を全てかなぐり捨ててた潔い半身モトクロッサーの初代KLX250。

関連:KLX250SR/ES(LX250E/F)/KLX250の系譜

【その他】

XJR400(4HM)

DJEBEL200(SH42A)

1994年生まれ|TZM50R

TZM50R

12インチスポーツ最速(打倒NSR50)を掲げて造られたヤマハの超本気原付。エンジンはもちろん足回りも原付にあるまじき豪華仕様だった。

【その他】

GSX400インパルス(GK7AA)

XJR1200(4KG)

ZX-9R(ZX900B)

1995年生まれ|GSF1200

威風堂々さが求められるジャンルにも関わらずそれよりもスポーツ性を追求したカットビ系ネイキッド。ひっくり返るビッグネイキッドの異名を持つも開発者いわくこれでも大人しくした方との話。

関連:GSF1200/S(GV75A/B)/Bandit1250の系譜

【その他】

ZX-6R(ZX600F)

XR250/BAJA(MD30)

MAJESTY(4HC)

ボルティー(NJ47A)

1996年生まれ|XVS400ドラッグスター

ドラッグスター400

もともとクルーザーのデザインに定評があったヤマハが出した新世代400クルーザー。あまりの完成度の高さと人気っぷりから敢えて選択肢から外す人が居るほどだった。

関連:DS4/DSC4(4TR)/DS4/DSC4の系譜

【その他】

ZRX1100(ZR1100C/D)

VTR1000F(SC36)

HORNET(MC31)

CBR1100XX(SC35)

1997年生まれ|VTR

VTR

長い歴史を持つVTシリーズの最終形態。クラス最軽量によるスポーツ性だけでなく、熟成され故障知らずなエンジンが好評でバイク便やジムカーナなど道具として酷使される世界でも御用達となった。

関連:VTR(BA-MC33)/VTRの系譜

【その他】

リトルカブ(C50)

TL1000S(VT51A)

1998年生まれ|YZF-R1

YZF-R1

性能とデザインの両面でスポーツ界に革命をもたらしたモデル。ライトウェイトスポーツと言われていた排気量の常識を押し上げ、リッターSSというジャンルを築くキッカケになった。

関連:YZF-R1(4XV)/YZF-R1の系譜

【その他】

D-TRACKER(LX250H/J)

1999年生まれ|HAYABUSA

ハヤブサ

独創的デザインと時速314km/hというWパンチで世界中を騒然とさせたモデル。あまりにもクレイジーだと欧州で物議を醸し、販売差し止めをチラつかされた事で299km/h規制を生むことになった。

関連:GSX1300R HAYABUSA(X/Y/K1~7)/HAYABUSAの系譜

【その他】

SV650/S(VP52A)

YZF-R6(5EB)

2000年生まれ|VTR1000SP

VTR1000SP1

世界市販車レースでVツイン優遇措置が取られた事で造られたレース前提開発のホモロゲーションモデル。鬼(ホンダ)に金棒(Vツイン)となりレースを席巻した事で大人気ないと言われるほどだった。

関連:VTR1000SP-1(SC45前期)/VTR1000の系譜

【その他】

FORZA(MF06)

ZX-12R(ZX12000A/B)

2001年生まれ|GSX-R1000

GSX-R1000

今も続くGSX-R1000の初代となるモデル。伝統の750モデルを無理やり1000ccにしたような形で圧倒的な軽さと速さだった事からストックレースでは世界問わずこれ一択状態になった。

関連:GSX-R1000(K1/K2)/GSX-R1000の系譜

【その他】

TMAX(5GJ)

FJR1300(5JW)

APE100(HC07)

GSX1400(GY71A)

2002年生まれ|GSX1400

スズキが出した最大排気量のビッグネイキッド。1985年から続いた油冷(SACS)エンジンを搭載した最後のモデルとなった。

関連:踏みにじられたプライドGSX1400(GY71A)/系譜の外側

【その他】

バンバン200(NH41A)

KSR110(KL110E)

2003年生まれ|CBR600RR

CBR600RR

ミドルスポーツが加熱した事で造られたモデル。スーパースポーツらしい速さやハンドリングだけでなくセンターアップマフラーというデザイントレンドまで造り上げた。

関連:CBR600RR(PC37前期)/CBR600RRの系譜

【その他】

Z1000(ZR1000A)

2004年生まれ|ZX-10R

カワサキが最初に作ったリッタースーパースポーツ。のちに市販車最速の称号をほしいままにすると言っても恐らく誰も信じないほど斜め上を行く玄人好みのモデルだった。

関連:ZX-10R(ZX1000C)/ZX-10Rの系譜

【その他】

VALKYRIE RUNE(SC53)

CBR1000RR(SC57)

DR-Z400(SK43A)

ホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキが初めて作ったオートバイ

ホンダ A型
-Since1947-

ホンダA型

ホンダの名を初めて冠した本田宗一郎設計の初代量産エンジン。
旧陸軍の無線発電用エンジンの流用をやめ、1からエンジンを設計し造ったホンダ(本田宗一郎)の第一号と呼べるバイク。

他社を真似ないという信念、そしてウィングレッドもここから始まった。

スズキ パワーフリー号
-Since1952-

パワーフリー号

織機メーカーだったスズキ(鈴木俊三)が参入を決意し初めて造ったのがこのバイク。

『ダブル・スプロケット・ホイル』や『二段変速機』など、出発当初からスペックは頭一つ抜きん出ておりトヨタ販売の助力もあって大ヒットを飛ばした。

ヤマハ YA-1
-Since1955-

YA-1

楽器屋だったヤマハが戦後に返還された工場を使って造ったバイク。

一作目ながらレースで大活躍という驚きの性能により楽器屋風情という風評を一蹴。更にこの頃から既にデザインの重要性を理解しておりオシャレな見た目も評判となった。

カワサキ B7 -Since1961-

カワサキB7

メイハツというグループ会社にエンジンを卸すという形式をやめ、川崎重工業として一貫生産するようになった最初のモデル。

しかしメイハツが設計したフレームがあまりよろしくなかったためクレームや返却の嵐となり、月間生産台数-17台という珍事を起こした事でデビュー作にして二輪撤退の危機を迎える事になった。

※間違いがありました詳細は

『カワサキが最初に作ったバイクはスクーター~バイク事業の歴史~』

をどうぞ。

それにしてもこうやって見るとデビュー当時も今もメーカーの色って変わってないんですね。(カワサキは除く)

尾崎豊:15の夜「盗んだバイクで走りだす」で盗まれたバイク

尾崎豊さんの名曲の一つである「15の夜」

そのサビである「盗んだバイクで走り出す 行き先も解らぬまま」は曲全体は知らずとも知っているという人も多いと思います。

さて、実はこの”盗んだバイク”にはちゃんとモデルになったバイクがあります。尾崎豊さんが後日談で仰ってました。

それのバイクはコレ。

Passol

ヤマハ・パッソル

「ええ!?ショボ!」

と思われた人も多いかと思います。

尾崎豊さんが歌ってるからCBとかZとかネイキッドのカッコいいバイクのイメージが湧きますもんね。
まあでも免許も持たない15歳の少年がそんなの乗れるわけもないって話ですが。

しかし何故パッソルなのかというと、実は当時HY戦争(HY戦争参照)の急先鋒だったパッソル(ロードパルも)はコスト削減&投げ売りのため、盗難防止機能が無いに等しい物でした。

もうとにかく鍵穴が回ればエンジンが掛かるっていう欠陥っぷり。

でも安かったから盗られた人も「また新しいの買えばいいや」と正にママチャリ感覚。

パッソルやロードパルが飛ぶように売れたのはこういう事も一つの要因だったり。

何か夢を壊してしまうようなトリビアでしたね。

最後になりましたがバイクの盗難や悪戯は絶対に駄目ですよ。
オーナーさんも盗難を助長するような環境で愛車を放置しないように気をつけましょうね。

ヤマハといえば青か黄黒か白赤か ~ヤマハカラーとストロボの歴史~

ヤマハカラー

最近はそうでもないですがヤマハといえばストロボと思っている方もそれなりに多いかと思います。

細かいことを言うと、主に黄色や赤に使われる繋がっているものをスピードブロックやチェーンブロック、青に使われる繋がっていないのをストロボと分ける場合もありますが基本的に元ネタは同じ。

スピードブロックとストロボ

じゃあヤマハのストロボカラーと言ったら何色かと問うと

「黄色に黒スピードブロックに決まってるだろ」

という人が多いかと思いますが、中には

青白

「ストロボといえば青に白でしょ」

と思っている人や

赤白

「いやいや白赤ストロボでしょ」

と思っている人もそれなりに多いかと。

そもそも

「ヤマハカラーって何色なんだ」

って話ですが歴史的にいうとヤマハカラーは白赤になります。

ヤマハRD56

これはヤマハが世界GP250で初めてタイトルを獲得した1964年のRD56。

ちょうどこの頃からデザインも始まっているんですが、見て分かるように白地に赤一文字。

日の丸が由来

ちなみにこれの由来は日の丸です。

そして数年を経て赤ラインの上下を紺色で囲うようになりました。

世界グランプリ50周年

ヤマハがWGP(世界レース)参戦50周年を記念して出した限定モデルが赤白だったのもコレで納得ですね。

しかし一方でストロボの歴史はというと実はこの赤白ではありません。

ヤマハのWGP初期

確かに白赤も1978年あたりからストロボですが、このストロボの始まりはアメリカにあります。

ヤマハは1960年頃にアメリカ進出したものの、当時はまだ小さかった事もあり親会社だったヤマハ楽器の現地法人

『ヤマハ”インターナショナル”コーポレーション』

を拠点とし、レースで目立つ為に

『黄色ボディに黒ライン』

というカラーリングを1972年頃から採用しました。

インターカラー

黄/黒がインターカラーと呼ばれる由来はここにあるわけです・・・が、実はストロボは当初の予定にはありませんでした。

では何故ストロボになったのかというとレースチームのコンサル兼グラフィックデザイナーを務めていたモーリーサンダースという人が

「ただのラインじゃ面白くないな」

という事でアメリカの国民的レースだった1972年のデイトナ200のマシンに白いラインを入れてストロボ(米名:スピードブロック)にしたわけです。

1972年のデイトナ200

これがストロボの始まり。ちなみに横に写っているのは若かりしケニー・ロバーツ。

更にアメリカ国内のモトクロスやダートのファクトリーマシンにも同じストロボラインを入れるように。

そしてデイトナ200の五連覇など大活躍した事から

1973年のデイトナ200

『ヤマハ=スピードブロック(ストロボ)』

という認識が全米で定着したわけです。

そして勢いそのままにUSヤマハから1974年にWGP250、更に1978年からはトップレースWGP500へと舞台を世界に移行。

キング・ケニー

ケニー・ロバーツが一年目にも関わらずワールドチャンピオンに輝くという大活躍でスピードブロックが世界中に知れ渡ったわけです。

これによりUSヤマハの象徴だったストロボはヤマハ発動機の象徴となり、伝統だった白/赤にも1978年ごろから反映される様になった。

ヤマハカラー

つまり伝統色は赤/白、一方でストロボは黄/黒が起源というわけ。

まあこの経緯はレースを知るものには有名ですね。

でもヤマハと言えばもうひとつ色がありますよね。

R6ブルー

「青は何処から来たの」

って話・・・なんですがこれがハッキリしない。

ただヤマハの歴史とカラーリングを徹底的に調べた結果、ある結論が出たのでそれを書いていきます。

ヤマハは90年代半ばまでレーサーも市販車も伝統の白/赤推しでした。

では何故ブルーがこれほどしっくり来るのかと言えばMotoGPとロッシの影響が大きいかと思います。

コスワースヤマハ

ヤマハは2003年からゴロワーズとスポンサー契約を結び、青ベースのスポンサーカラーになりました。

そして翌年にロッシを迎え入れMotoGPチャンピオンに。写真では見えませんがタンクにストロボが入っています。

その後も2007年からはFIATとのスポンサーで再び青になってロレンソ共々大活躍。

フィアットヤマハ

青いマシンで活躍する期間が長かったら、すんなり受け入れられたという話。

今もモビスターの青がベースですしね。

つまりケニー・ロバーツ時代を知る世代の人が

「ヤマハといえばインターカラーだ」

と思っている事と同じ様に

「ヤマハといえばヤマハブルーだ」

と思ってる人が多いのはロッシ時代を知る世代の人なんだろうなと・・・そう考えるとやっぱりレースの宣伝効果って凄いですよね。

ただし、これは日本で受け入れられた事の話。

そもそも”青×ストロボ”の初出は国内に限って言うと1984年に出たRZ250RのYSP限定モデルが最初。

フィアットヤマハ

青ストロボというより伝統色の青バージョンというかシアンバージョン的な感じで、これをヤマハブルーの始まりと呼ぶには少し抵抗がありますよね。

ただこの色には元ネタがあります。

これはソノートヤマハというフランスのヤマハ代理店(現フランスヤマハ)の色なんです。

ソノートヤマハTZ250

1984年のWGP250で優勝したんですが、同郷のよしみかゴロワーズがスポンサーだったため青色でした。

シアンブルーなRZはこのソノートヤマハ(ゴロワーズカラー)をイメージした色なんです。

「ヤマハブルーと関係ないじゃん」

と思いがちなんですがそうでもなく、ヤマハブルーの起源も恐らくソノートヤマハにあります。

ソノートヤマハ

「ソノートヤマハもWGPに参戦していたからか」

と当時を知る人は思うかもしれませんがWGPが要因ではありません・・・要因はパリダカにあります。

1979ダカール

ヤマハは1979年の第一回優勝、第二回は1位から4位まで独占という偉業を達成しました。

そして国際レースに昇格された1981年からもソノートヤマハとして参戦していたんですが、その際のカラーリングが青ボディに黒ストロボだった。

ソノートヤマハXT500

これはその時のファクトリーマシンXT500Ténéréです。

ストロボがUSだけでなく伝統色の赤白でも採用されるようになった数年後で青系ストロボはこれが最初。

XT600テネレ

こっちは1983年に発売された市販バージョンのXT600テネレ。ばっちりストロボが入っている。

ここまではシアンチックなんですが、それが大きく変わったのが1985年のファクトリーマシンXT600Ténéré。

0U26

パリダカ人気の高まりからゴロワーズがスポンサーとなり鮮やかな青に。ココからはずっとファクトリーマシンはこの色。

そして1989年に誕生したスーパーテネレもそれに倣って濃い青・・・しかもストロボ付き。

0U26

明らかに欧州向けが一足先にブルー推しになっているんです。

そしてそして何よりパリダカが要因と言い切れるのは、鮮やかな青に身を包んだファクトリーマシンSuper Ténéréがパリダカで

『三連覇&四連覇(91~93,95~98)』

という前人未到の偉業を達成したから。

ヤマハブルーのパリダカ

「ヤマハが地球を支配した」

と欧州で大きく話題となりました。

日本ではそうでもないんですが、ダカールラリーというのは欧州(特にフランスやイタリア)では国民的人気のレース。

だからこの偉業によって

「ヤマハと言えばブルー」

というのが欧州で定着した。

ヤマハブルーのYZ

90年代半ばになってヤマハがモトクロッサーなどオフロード車を紫から青に変えた事。

そして現代的な青ストロボを一番最初に採用したオンロードモデルが欧州向けのYZF600Rサンダーキャット(1994年)である事などから鑑みても間違いないかと。

サンダーキャット

「ヤマハブルーの起源はパリダカにあった」

という豆知識というか考察でした。

纏めると

白赤:日本ヤマハの伝統色

黄黒:北米ヤマハの伝統色

青白:欧州ヤマハの伝統色

それぞれちゃんと歴史があるんですね。

グローバルでもブレないホンダの海外広告

ホンダ

ホンダは業界1位なだけあってか、海外でも国内とさほど変わらず真面目な啓発系の広告が多いですね。

※Adblock系が誤作動を起こし画像が表示されない問題が起こるようです。申し訳ありませんがこのページでは切るか別のブラウザでの閲覧をよろしくお願いします。

WANNA FLY?
(飛びたい?)

WANNA FLY?

ホンダのホームページ広告。

直球なキャッチですが上手い言い表しですね。

THE INCREDIBLE GIANT CHRISTMAS STOCKING
(大きくて丈夫な靴下を用意しよう)

クリスマス商戦ホンダ

クリスマス商戦のチラシ。

サンタさんからミニバイクをプレゼントされても大丈夫なように大きな靴下を用意しておこうという遊び心あふれる広告。

RESPECT YOUR MOTORBIKE’S IDENTITY
(その独自性には敬意を払います)

違法改造防止4
違法改造防止
違法改造防止3
違法改造防止2
違法改造防止5

バイク用じゃない部品を付けるということは全く別のものを付けているという事ですよ。

という要するに違法改造防止を呼びかけてるホンダ部品のカレンダー広告。

IF IT’S NOT GENUINE HONDA,
YOU NEVER KNOW WHAT YOU’LL GET.
(どうなっても知らないぞ)

純正部品を使いましょう1
純正部品を使いましょう2
純正部品を使いましょう3
純正部品を使いましょう4
純正部品を使いましょう5

これも上記と同じ意味合いの啓発広告。

ガレージ文化が根強いアメリカらしいですね。

A New Japanese Power
(新しい日本車の力)

CBR500Rの広告

CBR500R(CS500F)の広告です。

ハンドルが日本刀の様になっていて面白いですね。

HONDA HELMET
(ホンダのヘルメットを被りましょう)

ホンダヘルメット

ホンダヘルメットの広告。

日本古来から続く伝統技術によって作られたホンダのヘルメットを被り命を守りましょう…..?

Our motorcycles are 95% recyclable
(私達のバイクは95%が再利用される)

ホンダのリサイクル率

環境対策の広告。

ライダーが鉄筋に乗る事で高いリサイクル率をアピールしています。

HIGH PERFORMANCE BRAKE SYSTEM
(ホンダのハイパフォーマンスブレーキシステム)

ハイパフォーマンスブレーキ
ハイパフォーマンスブレーキ2

コンビブレーキの広告です。

ブレーキの性能の良さを表してます。

SEVEN YEARS CHAMPION
(七年連続優勝)

TENKATECBR600RR

CBR600RRの広告です。

速すぎる600RRのせいで優勝台から一位が無くなり、分かりきった結果のせいで観客も居なくなったと言いたいのでしょう。

THE QUEEN IS BACK
(帰ってきた女王)

ホーネット広告

ホーネット600の広告。

働き蜂達が帰ってきた女王に群がっています。

PCX.WUAITO MAS LONSE MELHOR
(減らないメーター)

PCXとメデューサ
PCXとドラキュラ
PCXと狼男

PCXの広告です。

これはちょっとわかりにくいんですが、メーターがゼロになると居座る怪物(メデューサ・ドラキュラ・狼男)を退治できるアイテムが手に入るけど、PCXは燃費が良すぎるために一向に減らず退治できない。

という事を表しています。

SO FAST THAT NOBODY SAW IT
(あまりの速さ故、本当の姿を見たものはいないという)

CBR1000RR
CBR1000RR2
CBR1000RR3

CBR1000RRの広告です。

その速さはもはや神話級という事でしょう。

Extension de Garantie
(延長保証)

ホンダの延長保証

延長保証の広告。

車種のチョイスが完璧ですね。

貴族バイクGOLDWINGの意外な過去

芸術のヤマハ

ゴールドウイングは1975年に発売され、今となっては唯一無二の水平対向エンジンのグランドツアーとして2015年に40周年を迎えた偉大なバイクですね。

「貴族が乗るキング・オブ・バイク」のコンセプト通り常駐する市販車としては最高価格を誇り、ホンダの頂点にずっといる。(詳しくはGOLDWINGの系譜をどうぞ)

さて本題。

タイトルにもなっているようにそんな貴族バイクであるゴールドウイングの”意外な過去”とは何なのか?

ゴールドウイング白バイ

警察仕様の白バイ黒バイがあったこと?

いえいえそんなことでは有りません。

GL1000

時代は遡って1977年、つまり初代モデルGL1000で出で少し経った頃の話。

実はこの頃、ホンダはゴールドウイングの水平対向エンジンを流用したモデルを作って発売していたんです。

分かりますか?水平対向エンジンを積んだホンダのバイク・・・ちなみにワルキューレではないですよ。あれはずっと後の話。

恐らく誰も思いつかないと思います。
だってそんなバイクは有りませんから。(試すようなことしてすいません)

ゴールドウイングのエンジンを使って作ったモデルの正体はコレ。

アクティ

ホンダ・アクティ(1977年~)

なんと軽自動車、というか軽トラだった。貴族のバイクのエンジンが軽トラに・・・。

ちなみにGL1000の水平対向四気筒エンジンをそのまま使っているわけじゃなくて簡単な話、真っ二つに切った並列二気筒の物。

EHエンジン

真っ二つに切ったエンジンと言えばNC700シリーズが
「フィットのエンジンを真っ二つに切ったエンジン」
と言われてますが、あれはフィットのエンジン(ボア×ストローク)を参考にしたという話でフィットのエンジンを使ってるわけではないです。

ゴールドウイングの場合はシャフトドライブで構造も車のエンジンだったから流用しやすかったんでしょうね。(もしかしたら最初から共有化前提だったのかも)
だからアクティとGL1000(GL1100)でタイベルを始めとした共通部品が結構あったりします。

ということで
”ゴールドウイングのエンジンは軽トラにも積まれていた”
という意外な過去でした。

だからってゴールドウイングのオーナーに
「これ軽トラにも使われてるエンジンですよね!」
とか冗談でも言ってはダメですよ。

流石に今のアクティとゴールドウイングは全く違いますから。

オマケですが

トゥデイ

80年代に入るとこのエンジン(EH型)は初代トゥデイにも載せられました。

today・・・

today

今トゥデイと言えば原付のこっちですよね。

ホンダにとっての最高級モデルのゴールドウイングと最廉価モデルのトゥデイ。

名前だけとはいえ対極に位置する二車の意外な接点ですね。

モラルハザードなカワサキの海外広告

kawasaki

カワサキの海外広告です。下品といいますか不道徳な物が多いです・・・

※Adblock系が誤作動を起こし画像が表示されない問題が起こるようです。申し訳ありませんがこのページでは切るか別のブラウザでの閲覧をよろしくお願いします。

MORE THAN HORSEPOWER
(馬力を超えろ)

馬力を超えろ

Z1000の広告。

Z1000をバッファローで表しているのが面白いですね。

Foi até dificil
(日本では困難)

ninja

Ninjaの広告。

日本は狭いから本領を発揮するのが難しい。だからこそアナタ達(ブラジル)に乗って欲しい。

WE KNOW SPEED!
(我々は知っている!)

WE KNOW SPEED

世界一速い新幹線を作ったのは私たち。そして世界一速いバイク500SSマッハ3を作ったのも私たち。

GOES FAST,STOPS FASTER!
(加速も速いが止まるのも速い)

GOES FAST
STOP FASTER

ZZR1400の広告。

制動力の高さをアピールしていますね。

0-100 in 2.5s
(0-100 2.5秒)

ZZR1400
2.5秒

ZX-14Rの広告。

その速さは獲物を捉える生物の速さと同等。

KAWASTRA
(カーワ・スートラ)

カーワスートラ

古代インドの性愛論書(カーマ・シャーストラ)をもじった広告。

カーマストラについてはWikipediaをどうそ。

The Ninja ZX-6R

ZX-6Rの広告

ZX-6Rの広告。

怪我しようがコレだけは止められない。

ORBIS
(オービス)

オービス

ZX-10Rの広告。

オービスが機能していないフェイクの物だということを嘲笑う広告。

もしくはオービスすら機能しない速度で駆け抜けたか。

誠徴 大膽女友。
(求む 勇敢な彼女)

ZX-10Rの広告

これもZX-10Rの広告。

ZX-10Rでタンデムする根性のある女性を募集しています。

THE NEW ZZR1200

ZZR1200の広告

ZZR1200の広告。

あまりの速さ(Gに)に服が置いて行かれてます。

it flies.
(飛べる)

ZX-12Rの広告

ZX-12Rの広告。

シンプルかつストレート。

any question?
(え?なに?)

ZX-9R
ZRX1200S
ZX12R

天地が引っくり返っている状態で爆走。キャッチが良い味を出してますね。

SPEEDY
(迅速)

ZX-12Rの広告

これもZX-12Rの広告・・・。

ARE YOU READY?
(準備は出来てるか?)

ZX-12Rの広告

これまたZX-12Rの広告。

警察がZX-12Rの一斉摘発に動き出したようです。

THE NEW Z750

Z750の広告

Z750の広告。

説明不要かと・・・なんとも痛烈です。

デザインのヤマハ、実は外注だった

芸術のヤマハ

優等生のホンダ、芸術のYAMAHA、変態のスズキ、漢のカワサキ・・・メーカーをユーモラスを含んで上手く例えたよく見る言葉です。

ヤマハは「デザインのヤマハ」「芸術のヤマハ」とよく言われますね。その理由は周知の通り卓越した車体デザインから。

YZF-R1やVMAXと言ったスペックとデザインが高いレベルで融和しているバイクもあれば、SR400やセローといった色褪せぬ伝統的なデザインのバイクもあります。

最近ではY125もえぎが話題になりましたね。

もえぎ

でも実はこれらヤマハのバイクはヤマハがデザインしてるわけではないんです。

デザインしているのは日本を代表すると言っても過言ではないデザイン会社である「GKデザイン」の一翼である「GKダイナミクス」というグループ会社です。

ちなみにGKというのは元々東京芸術大学の小池教授とその門下生が作った組織Group of Koikeから。

GKダイナミクス

「なんだヤマハって外注デザインだったのか」

と思うのはちょっと早計です。ヤマハとGKの繋がりはとても長く切っても切れない関係なんです。

このヤマハとGKデザインの関係が始まったのはYA-1、つまりヤマハ第一号のオートバイから。

ヤマハ125

1955年当時はまだ”デザイン”という仕事が十分に確立されていない時代。そんな中でもヤマハはデザインに対する意識は非常に高かったそうです。
その結果がGKデザインという当時としては珍しいデザイン会社への外注という手段を取ることになり、結果としてYA-1という素晴らしいデザインのバイクが生まれました。

そんな創業時の出来事以降、ヤマハのバイクデザインには全てGKが絡んでいます。(一部のスクーターはエルムデザインというヤマハの関連会社がデザイン)

これは国内四社どころか製品を作る企業全体で見ても特異な事。
「自社にデザイン会社を持ち、たまに有名なデザイナーに依頼。」
というのが一般的ですからね。

ヤマハ発動機本社ビル

つまりヤマハとGKの付き合いは半世紀以上になるのですが、とても不思議な事に両社の間に資本的な関係はありません。これだけ長いこと一緒に歩んできて両社とも日本を代表するほどの企業にまでのし上がったにも関わらず完全に別の会社。

だから外注といえば外注なんだけど、その中にはヤマハ側の人間も絡んで二人三脚で作っているので「外注」という言葉で簡単に片付けられる関係では出来ないんですね。