雪辱のSSその名はシービー CB92 -since 1959-

CB92

「快走する”メカニズム”」

1959年にホンダが発売したベンリィスーパースポーツCB92。略してベンスパという愛称を持っています。

いきなりこんな古いバイクを出されてもピンと来ない人が多いと思うので最初に説明しておくとこのモデルは

「一番最初にCBと名付けられたバイク」

になります・・・そう、FOURはもちろんCB-FやCBRなど今も続くホンダ車の代表的な名前”CB”の始まりとなるのがこのモデル。

CBブランド

ということで

「このモデルが何のために造られたのか」

という歴史的な話を割愛しつつ長々と。

ホンダは1949年にペダルのない正真正銘のオートバイを初めて開発しました。それがドリームD型(98cc)と呼ばれる2サイクル単気筒のバイクです。

ドリームD型とE型

更に1951年には2サイクルが主流だった中で信頼性のある4サイクルなうえにいち早くOHVとミッション一体型クランクを取り入れたハイテクマシンE型(146cc)を投入。

E型は堅牢で性能も良かった事からホンダ初のロングセラー車となり派生モデルも多く登場しました。ちなみに開発者は後に二代目ホンダ社長となる河島さんです。

そんなE型の成功で高性能オートバイメーカーの仲間入りを果たしたホンダだったんですが1954年に鼻をへし折られる出来事が起こります。

1954サンパウロレース

ブラジルのサンパウロで行われる国際オートレースにメグロと共に出場することになったんですが、ホンダは自慢のE型をベースにしたR125というマシンで出場したもののコテンパンにやられてしまったんです。

完走こそすれどモンディアル・ドゥカティ・NSUなど欧州メーカーの前にはOHV125ccで6馬力足らずだったR125は明らかに性能負けしていた。

ホンダR125

この欧州メーカーとの性能差は同年に欧州視察の一環でマン島TTを見物した本田宗一郎も痛感。

それにより有名なマン島TTレース(世界最高峰レース)出場宣言をするんですが、まずは量販車を何とかしないといけないとしてホンダは翌1955年にドリームSA(246cc)とドリームSB(344cc)とよばれるモデルを新たに開発しました。

ドリームSA

最大の特徴は性能を上げるため珍しかったOHVをやめ更に珍しかったOHCにした事。

これにより大幅なパワーアップに成功。※当時はサイドバルブが基本

このモデルが誕生した背景には上記の海外勢との性能差が一番にあるんですが、同時に国内事情も大きく関係しています。

ドリームSA/SBが発売された年というのは国内初の大規模レースが開催される年でもあったんです。

1955浅間高原火山レース

『全日本オートバイ耐久ロードレース』

群馬県と長野県にかかっている浅間高原の道路をコースに見立てたレースで

『アサマレース』

とか

『浅間高原火山レース』

という呼ばれ方もしている日本小型自動車工業会主催のレース。

参加条件は国内メーカーによる国産車であることで、クラス分けは125cc、250cc、350cc、500ccと世界レースに準拠。

狙いは国内産業の発展という正にマン島TTと同じで、技術競争はもちろん最高の宣伝にもなる事からホンダも出場しました。

※レース全体を書くと収拾がつかなくなるので125クラスに絞って書きます

1955年の記念すべき第一回にホンダは自社製125を象徴する名前でもあったベンリィ号を改造したファクトリーマシンで挑戦することを決めました。

1955ベンリィ号ポスター

補足しておくと当時のホンダ車は125がベンリィ、250がドリームという感じです。

この頃には既にE型の成功やドリームSA/SBで有名メーカーだったので

「ホンダかトーハツが勝つだろう」

と誰もが予想していた・・・ところがそうはならなかった。

結局125クラスで勝利を収めたのはホンダでもトーハツでもなくヤマハ。そう、赤とんぼで有名なYA-1です。3万人を超える観衆が居る中で1~3位独占という快挙を成し遂げ一躍して時のメーカーに。

対して世界レース参戦を4年後に控えていたホンダは足元をすくわれる結果となってしまった。

ホンダはこの敗戦に加え2stメーカーが二気筒化による性能向上を始め(特にスズキが)驚異になりだした事もあり、世界レースのために開発していた技術を国内モデルにも注ぐ事にし手始めに開発されたのがドリームC70(247cc)というバイク。

C70

本田宗一郎監修の神社仏閣デザインである事が有名なモデルですが、同時に2気筒OHC247ccのエンジンを積んだハイスペックモデルでもありました。

このモデルをベースに2年後の1957年に開催された第二回全日本オートバイ耐久ロードレース250クラスを戦ったわけですが、同時に125クラスでもこのエンジンを半分にした

『ベンリィ C80Z』

というファクトリーマシンを開発しリベンジに燃えた・・・が、またもや勝てなかった。

過度なチューニングによってオーバーヒートを起こしてしまいリタイヤ。再びヤマハに負けるという屈辱的な結果に終わります。

まさかの二連敗を喫してしまい三度目の正直となるはずだった翌1958年開催予定の第三回全日本オートバイ耐久ロードレースは不運なことに開催で折り合いがつかず翌年に延期。

ただし代わりに開催される事となったのが

『全日本モーターサイクルクラブマンレース』

というアマチュアレース。

第一回クラブマンレース

もともと行われていた全日本オートバイ耐久ロードレースは

「メーカー競争による技術向上」

が狙いだったのでメーカー(ファクトリー)の参加しか許されていなかった。今風にいうと全日本版MotoGPみたいな感じ。

そこで新たにクラブ会員(メーカーに従事していない人)だけが量販車で競い合う

『みんなの耐久ロードレース』

を開催しようとバイク愛好家たちが中心となり発起。今風に言うとスーパーバイクレースを新たに開設したわけです。

そんな記念すべき第一回クラブマンレースにはもちろんホンダ車で挑む人たちもいた。125クラスで目立ったのは同年に発売され人気だった二気筒SOHC125のベンリィC90をベースにしたマシン。

C90

しかし出場する人のベンリィをよく見てみるとフレームが量販車の鋼板プレスではなく、見たことが無い特注のパイプフレーム(恐らくバックボーンフレーム)に変更されていたりした。

「特注フレームってそれファクトリーマシンでは」

という話ですが、案の定そういうクレームというか正論が巻き起こり他の参加者たちが怒ってボイコットを宣言したためレギュレーション違反扱いとなり敢えなく失格。

ただ少し擁護しておくとこの様に一般人を装ってファクトリーマシンで参戦という手段を取ったメーカーは他にもいたため急遽

『クラブマン模擬レース』

という実質全日本オートバイ耐久ロードレース枠が設けられ、そちらで走ることになりました。非公式なので記録は無いものの実質ファクトリー対決なので凄く盛り上がった模様。

ここまでホンダとは思えないほど良いとこ無しな状況が続いたわけですが、その汚名返上となるのが世界レースに参戦した初年度でもある1959年の第三回全日本レースと第二回クラブマンレース。

この年は全日本とクラブマンが併催という形になったんですが、負けが込んでいたホンダはもう本当に後が無かったのかファクトリー対決となる全日本125クラスにとんでもないマシンを投入します。

RC142

なんと世界レースで入賞を果たしたばかりファクトリーマシンRC142を投入したんです。

しかもちゃんとコースに合わせたアサマチューンを施してライダーも同じという本気度120%状態。

そしてもう一つの量販車によるレースであるクラブマンレースも失格となった前回の反省を活かし

『クラブマンレースのための量販車』

として世界レースにも持っていた別のレーサーを販売することで合法化。そのマシンこそがこのページの主役でもあるこれ。

当時のカタログ

『Benly Super Sports CB92』

ベンリィC90にセルモーターを付けた後継C92をベースにクラブマンレース用として開発したマシンだからベンリィスーパースポーツCB92。略してベンスパ。

豆知識の方で

「CBのBはCLUBMANのB」

という話を書いたのですが、その意味もこれでわかると思います。

※正確に言うと最初にクラブマンレース用として発表したのはCB90だったものの実際に販売&出走したのはCB92

CB92はファクトリーマシンRC146ですら18馬力程度だった中で、15馬力という負けない馬力を量販車ながら兼ね備えていたまさにモンスターマシンでした。

さらに

・マグネシウム大径ドラムブレーキ(初期型のみ)

・アルミタンク&フェンダー(初期型のみ)

といった贅沢な軽量化にも余念がないうえに

・ハイコンプピストン

・専用バルブスプリング

・メガホンマフラー

・専用シングルシート

などなどレースのための部品もあった。

通称『Y部品』と呼ばれる今でいう所のレースキットで、ホンダはそれらの部品や組み付けられた車体を”特定の参加者のみ”に配りました・・・そうなんです。

このCB92は直々の参加(ワークス参戦)が禁じられていたクラブマンというレースで必勝するため、ホンダの息がかかっているクラブやショップにのみ卸し、代わりに戦ってもらうという手段を取ったんです。

『CB92レーサー(社内コードCYB92)=CB92+Y部品(レースKIT)』

その結果このCB92は遂に、念願のクラブマンレース125クラス優勝を果たしました。

CB92サイドビュー

でもCB92が凄かったのはここから。これがCBブランドが繋がる。

クラブマンレースで優勝したライダー及びマシンはそのままメーカー(ワークス)だけの全日本へ出走が許されるルールになっていたため、クラブマンレース125で優勝した若干19歳の北野選手が乗るCB92も全日本にそのまま出走。

CB92と北野選手

そしたら全日本の方でもライバルはおろか世界レース用のファクトリーマシンRC142をも抑えて勝っちゃったんです。

喉から手が出るほど欲しかった全日本125のタイトルをCB92で取ってしまった。まさかのWタイトルを達成。

この結果に日本中のバイクファンが驚きました。

そりゃそうですよね量販車がファクトリーマシンに勝ったんだから。今で言えばMotoGPレースに飛び入り参加したCBR1000RRがRC213Vに勝つようなもの。

この結果、クラブマンレースに出走させるための名目量販車でレース終了後に回収して終わるはずだったCB92の購入を希望する人たちが殺到。

そこでホンダも細部を変更しつつも本当にCB92を量販車として販売することに。

CB92のカタログ

更にそのCB人気に押されるように翌年には250版もCR71からCB72へと変更され、それも同じく非常に高性能で人気を博したことからクラブマンレース用でしかなかったはずの名前であるCBはいつしか

「CB=ホンダの凄い量販車を示す名前」

という認識まさにCBブランドとなり、CB750FOURやCB750FそしてCBR1000RR-Rと60年以上経った今も続いている・・・というお話でした。

【参考資料】

オートバイの光芒|百年のマン島|世界MC図鑑|日本の自動車アーカイブ|その他

【関連ページ】
最も危険で最も崇高なレース マン島TT諸説あるホンダ”CB”の語源CB1300の系譜

主要諸元
全長/幅/高 1875/595/930mm
シート高
車軸距離 1260mm
車体重量 110kg(乾)
燃料消費率 60km/L
※定地走行燃費
燃料容量 10.5L
エンジン 空冷4サイクルOHC2気筒
総排気量 124cc
最高出力 15ps/10500rpm
最高トルク 1.06kg-m/9000rpm
変速機 前進4速リターン
タイヤサイズ 前2.50-18
後2.75-18
バッテリー  
プラグ
※2つの場合は手前が、3つの場合は中央が標準熱価
推奨オイル
オイル容量
※ゲージ確認を忘れずに
全容量1.2L
スプロケ
チェーン
車体価格 155,000円
系譜の外側
DN-01

拒絶された渾身のATスポーツクルーザー
DN-01
(RC55)

gts1000

悪いのは人か技術か
GTS1000/A
(4BH/4FE)

750カタナ

カタナと名乗れなかったカタナ
GSX750S
(GS75X)

ザンザス

Zの亡霊と戦ったZ
XANTHUS
(ZR400D)

CBX400カスタム

30年経ってCBXと認められたアメリカン
CBX400CUSTOM
(NC11)

BT1100

イタリア魂が生んだもう一つのMT
BT1100 BULLDOG
(5JN)

GSX1300BK

本当の怪物は誰も求めていなかった
GSX1300BK B-KING
(GX71A)

ZR750F/H

死せるザッパー生ける仲間を走らす
ZR-7/S
(ZR750F/H)

ホンダCBX1000

大きすぎた赤い夢
CBX1000
(CB1/SC03/06)

GX750/XS750

ブランドは1台にしてならず
GX750
(1J7)

スズキGAG

SUZUKIのZUZUKI
GAG
(LA41A)

Z1300

独走のレジェンダリー6
Z1300/KZ1300
(KZ1300A/B/ZG1300A)

NM-4

アキラバイクという非常識
NM4-01/02
(RC82)

FZX750

大きな親切 大きなお世話
FZX750
(2AK/3XF)

GSX1400

踏みにじられたプライド
GSX1400
(GY71A)

750Turbo

タブーを犯したターボ
750Turbo
(ZX750E)

NR750

無冠のレーシングスピリット
NR
(RC40)

TRX850

現代パラツインスポーツのパイオニア
TRX850
(4NX)

GS1200SS

嘲笑される伝説
GS1200SS
(GV78A)

ゼファー1100

ZEPHYRがZEPHYRに
ZEPHYR1100/RS
(ZR1100A/B)

NS400R

狂った時代が生んだ不幸
NS400R
(NC19)

RZV500R

手負いの獅子の恐ろしさ
RZV500R
(51X/1GG)

RG500Γ

チャンピオンの重み
RG500/400Γ
(HM31A~B/HK31A)

AV50

なぜなにカワサキ
AV50
(AV050A)

ドリーム50

五十路の夢
DREAM50
(AC15)

フォーゲル

楽し危なし
POCKE/VOGEL
(4U1/7)

ストリートマジック

シンデレラスクーター
TR-50/TR-110
(CA1L/CF12)

Z750ツイン

鼓動と振動
Z750TWIN
(KZ750B)

フォルツァ125

市民権の象徴
FORZA125
(JF60)

SRX4/6

決して多くない人たちへ
SRX-6/SRX-4
(1JK/1JL~)

DR-Z400SM

最初で最後のフルスペック
DR-Z400S/SM
(SK43A/SK44A)

ZX-7R/RR

問題児レーサー
ZX-7R/RR
(ZX750P/N)

RC213V-S

2190万円の妥協と志向
RC213V-S
(SC75)

YZF-R7

7と1でWE/R1
YZF-R7
(5FL)

バーグマンFCS

エコの裏で蠢くエゴ
BURGMAN FCS
(DR11A)

エリミネーター750/900

名は体を現す
ELIMINATOR750/900
(ZL750A/ZL900A)

モトコンポ

こう見えて宗一郎のお墨付き
MOTOCOMPO
(AB12)

TDR250

聖地突貫ダブルレプリカ
TDR250
(2YK)

グース

決めつけられたシングルの正解
Goose250/350
(NJ46A/NK42A)

Z650

小さく見えるか大きく見えるか
Z650
(KZ650B)

X4

単気筒
X4
(SC38)

SDR200

軽く見られた軽いやつ
SDR
(2TV)

チョイノリ

59,800円に込められた思い
choinori
(CZ41A)

ゼファー750

復刻ではなく集大成
ZEPHYR750/RS
(ZR750C/D)

PS250

モトラリピート
PS250
(MF09)

DT-1

冒険という感動創造
トレール250DT1
(214/233)

Vストローム250

二度ある事は三度ある
V-STROM250
(DS11A)

エリミネーター250

周期再び
ELIMINATOR250/SE/LX
(EL250B/A/C)

CX500ターボ

打倒2ストのブースト
CX500/650TURBO
(PC03/RC16)

YA-1

原点進行形
YAMAHA125
(YA-1)

rf400r

RでもFでもない
RF400R/RV
(GK78A)

250-A1

半世紀を迎えた吉凶のライムグリーン
250-A1/SAMURAI

Vツインマグナ

氷河期 of Liberty
V-TWIN MAGNA(MC29)

TDR50

RALLYってしまった原付
TDR50/80(3FY/3GA)

SW-1

オシャレは我慢
SW-1(NJ45A)

ボイジャー1200

可愛い娘は旅をせよ
Voyger XII
(ZG1200A/B)

WING

Twist and Shaft
WING
(GL400/GL500)

ビーノ

その愛嬌は天然か計算か
VINO
(SA10J/SA26J/SA37J/SA54J/AY02)

DRビッグ

爪痕を残し飛び去った怪鳥
DR750S/DR800S
(SK43A/SR43A)

テンガイ

愛おぼえていますか
Tengai
(KL650B)

CB92

雪辱のSSその名はシービー
CB92

XT400E

本当の名前は
ARTESIA
(4DW)

ジェベル250

ツールドジェベル
DJEBEL250/XC/GPS
(SJ44A/SJ45A)

KV75

混ぜるなキケン
75MT/KV75
(KV075A)

ダックス

泥遊びなら任せろ
DAX
(ST50/ST70/AB26)

ランツァ

単槍匹馬のラストDT
LANZA
(4TP)

GT750

水牛であり闘牛である
GT750
(GT750J~N)

原点進行形 YAMAHA125 (YA-1) -since 1955-

ヤマハYA-1

「赤とんぼ」

ヤマハの第一作目として有名なYAMAHA125ことYA-1。

Y=YAMAHA

A=125

1=第一号

という事でYA-1という名前なんですが実はこれヤマハ発動機になる前、俗にいう楽器のヤマハ時代に造られたバイクという事はあまり知られてないかと思いますので

「何故ヤマハがバイクを造り始めたのか」

という歴史を簡単に交えつつ長々と・・・。

ヤマハの創始者は他ならぬ山葉寅楠(やまは とらくす)という方。この方がアメリカから輸入されていた高級オルガンの修理をした際に

山葉寅楠

「自分たちで造ればもっと安く造れる」

と考えて始めたのがキッカケ。

そして見事に日本人として初めてオルガンの製造に成功し1889年に設立されたのが

『山葉風琴製造所(やまはふうきん)』

という会社。ちなみに風琴というのはオルガンという意味。

出資の関係で解散となったものの1891年に河合喜三郎という理解者(援助者)を得たことで

『山葉楽器製造所』

となり1897年に

『日本楽器製造株式会社』

に改組。これが現在のヤマハの始まりになります。

1989年のロゴ

これは当時のロゴ。

ここからオルガンだけでなくピアノなどの製造も始め事業は順調に伸びていったのですが、その卓越した木工技術に目をつけた国から戦闘機のプロペラの製造を要請され、製造と開発をしていました。

キ48 ヤマハ

終戦を迎えると再びピアノを始めとした楽器の製造を1947年から開始し、楽器屋の道を歩み始めたヤマハだったのですが1950年に転機が訪れました。

賠償指定として取り上げられていた佐久工場の工作機械が

「平和産業のためなら使っていいよ」

というお許しが出たんです。

そこで四代目ヤマハ社長だった川上源一は工作機械を活かすには何が良いか色々と考えた末に

川上源一

「バイク用のエンジンを造ろう」

となった。

これがヤマハとバイクの始まりなんですが、どうして川上がバイクを選んだのかと言うと・・・バイク好きだったから

「自分たちの造ったバイクで走りたい」

という至極単純な理由だったりします。

そうして工作機器が返還された翌年の1951年から浜北工場にてバイク事業が極秘裏にスタート。

まずは重役を強豪ひしめくヨーロッパへ長期派遣し多くのメーカーの製品や工場を視察。

そうして参考にすべき車両だと上がったのがドイツのアウトウニオン(アウディの前身)が造っていたDKW RT125というバイク。

DKW RT125

見ても分かる通りYA-1と通ずる所がありますよね。

「赤トンボはコピーバイクだったのか」

と思うかも知れませんがそれは少し早計。

このDKW RT125は戦前から名機として有名だったのですが、連合国による戦後賠償の一環として権利放棄されたモデルなんです。

いわば著作権フリーな名車で

・BSA

・BMW

・ハーレー

・アグスタ

・メイハツ

などもRT125を参考に造ったモデルが存在します。

ハーレー製RT125

この様に戦後は名車を参考にしたバイクを売る事が国内外問わず当たり前でした。

しかしそんな中でヤマハだけは一線を画していた。だからこそ一時期は200社近くいたバイクメーカー戦国時代を生き抜くことが出来たんです。

端的にいうと

YA-1カタログ写真

「名車RT125より凄いバイクだったから」

の一言に尽きると思います。

まず外見から説明していきます。

当時バイクは黒塗装が絶対と言える時代でした。これは当時はまだ仕事道具または移動手段というツール面が強かったから。だから丈夫に見える黒が人気でどのメーカーも黒一色だった。

YA-1の配色

しかしヤマハはあろう事かマルーンとアイボリーというド派手なツートンで販売。

シートとハンドルグリップもグレーと本当に当時としては有り得ない配色だった。

他にもフェンダーのナンバープレートなど余計なアクセサリーを取り、フットレストやシフトペダルの形状も変更、そしてタンクの曲率を独自のものに変えるなど様々な意匠が散りばめられていた。

ステップ周り

何故こんな奇抜な事をしたのかというと、川上社長が松下電器の社長と海外視察に行った際

「これからの時代はデザイン性が大事だ」

と考えたから。

そこで頼ったのがデザイン会社という当時としては異例な会社だったGK(Group of Koike)デザイン。

グループオブ小池

バイクに限らずあらゆる物においてデザインのデの文字も無かった時代でGKデザインも創設されて間もない会社でした。

にも関わらずヤマハはデザインに大きなウェイトを置いたから凄い。

ただしYA-1が凄いのは外見ではなく中身も凄かった。

まず第一にミッションを当時としては異例の四速ミッション化。

更に画期的だったのが『プライマリーキック』とよばれる仕組みを造ったこと。

キックスタート

それまでキックスタートの仕組みはこうなっていました。

チェーンを回すアウトプットを経由してクランク(エンジン)を回す形。しかしこれだとニュートラルにギアを入れないとキックできない。

何故ならこの方法は押しがけと同じでギアが入ったままキックすると後輪も回ってしまうから。

そこでヤマハが考えYA-1に採用したのがプライマリーキックシステム。

プライマリーキックギア

早い話がミッションを介して回すのではなくキック用のプライマリーギアを設けてエンジン(クランク)を直接回す形。

こうすることで万が一のエンストした時いちいちギアをニュートラルに入れずともクラッチを切ればキックで掛けられるようになった。

今では当たり前とも言えるこのキックシステムを生み出しのは他ならぬこのYA-1なんですよ。

YA-1タンク

ただしYA-1の一番凄いところはこれまた別にある。

「レースで下馬評を覆すデビュー・トゥ・ウィンを飾った」

という事が凄いんです・・・有名ですね。

1955年2月に発売されたYA-1は

「楽器屋のバイクだからドレミファって鳴くのか」

と最初は大いに馬鹿にされました。

ヤマハ125

デザインまで拘った事で一作目ながら他所よりも1割ほど高い車体価格(138,000円)だったのも反感を買うには十分な要素でした。

※大卒の初任給が1万円程の時代

発売して間もない頃のカタログをよく読んでみるとその状況が分かります。

「次にお求めの際は・・・」

という何とも弱気なキャッチコピーが書かれているんです。

YA-1ポスター

これはYA-1を完成させ大々的に発表&発売したはいいものの、バイクにデザインなんて求められていない時代だったことで割高感が強く市場の反応が冷ややかなものだったから。

加えて見てほしいのが販売所の一覧。

バイク屋も得体の知れないメーカーの得体の知れないバイクを取り扱おうとする所は無かったんです。だからYA-1は発売当初バイク屋ではなく日本楽器や山野楽器といった楽器屋でしか売る事が出来なかった。

YA-1のチームスタッフ

そんな正しく評価されない状況を何とかするためにヤマハが考えたのが日本最古の伝統レースである第三回富士登山レースへの出場。

レース開催の2ヶ月前という有り得ない土壇場での参戦表明。

時間も経験も伝手も全く無い中でもう既に二強状態だったホンダとスズキに勝つなんて誰もが無謀だと思いました。

しかしヤマハにはもう後がなかった。

YA-1レーサー

そのためヤマハは何処よりも富士登山レースに注力。

絶対優勝という命を受けたライダーとメカニックは山に籠もって毎日タイムを上げるに試行錯誤に明け暮れる日々。

ちなみに

『ヤマハ発動機』

という会社が設立されたのもこの時で1955年7月1日・・・なんとレースの僅か10日前の発足なんです。山籠りしていた関係者が知ったのはレース3日前だったそう。

富士登山レースYA-1

何処よりもレースで勝つ事に執着し、社運を掛けて挑んだかいあってヤマハ/YA-1は見事に125cc部門で優勝。

下馬評を覆す事となりヤマハ発動機そしてYA-1の名が全国に轟きました。

YA-1のポスター

更に畳み掛けるように同年もう一つの国内レースだった浅間高原レースにも出場し今度は表彰台を独占。

「ヤマハ発動機のバイクが一番優れている」

という事をまざまざと見せつける結果となり、それまでの世論が嘘のようにYA-1を求める人達が殺到。

これがYA-1の一番凄いところ。

『処女作ながら圧倒的な速さだった』

という事が凄かったんです。

YA-1メーター周り

ヤマハはこのYA-1で確かな一歩を踏み出し、以降も慢心すること無くYC-1(250cc)など上にクラスにも出場し見事に勝利。

更にどのメーカーよりも早く海外レース(米カタリナGP)にも打って出るなどレースに挑み続けた事で今のポジションを獲得するに至りました。

終わりに・・・

ヤマハそしてYA-1が成功した理由を改めて振り返ると今もその精神は変わっていない事が分かります。

「ヤマハの歴史はレースにあり」

と言われるようにヤマハ今もずっとレースに挑み続けています。

レースのヤマハ

ヤマハはバイクが基軸なので売上高で見ると皆が思っているほど大きな会社ではありません。

にもかかわらず勝ってもそれほど話題にならない。

でも負けると

「何をやってんだよヤマハ」

と言われる。

これが何故かと言えばヤマハはYA-1からずっとレースに挑み続けたから。

ヤマハWGP500勝

レースに勝った事で踏み出した一歩をレースで勝つ事でもう一歩踏み出す。

ヤマハはこれをYA-1の頃からずっと続けている。

そしてその事を皆も潜在的に分かっているから、ヤマハが居ないレースなんて有り得ないと考えているからそう言われる。

そしてもう一つ。

デザインのヤマハ

デザインのヤマハと言われるようになったのもYA-1で大事にされたデザイン性をずっと守って来たから。

例えばヤマハはレイヤードカウルという重ね合わせる様な凝った外装をやっています。

レイヤードカウル

エンジニアとしては本当はこんな事はやりたくないのが本音。

YZF-R1/4C8のPLを務められた西田さんも

「覆ってしまえばどれほど楽か・・・。」

と仰っていました。

でもデザインの重要性を分かっているから、YA-1からずっと決して軽視しない。

その姿勢を貫き続けてきたからいつしか消費者から

「デザインのヤマハ」

と評価されるようになった。

最後にもう一つオマケ。

YA-1は今もヤマハコミュニケーションプラザの一等地に飾られているんですが、ここでも実にヤマハらしいエピソードがあります。

ヤマハコミュニケーションプラザ

このYA-1は現役時から展示用として保管されていた物ではなくレストアされたもの。

当然ながら当時の部品なんて無いのでブッシュやラベル一つに至るまでワンオフでレストアされているんですが、ヤマハらしいというのはワンオフで揃えた事だけではなく装着されているタイヤにあります。

YA-1が標準装着していた当時のタイヤはもう存在しないし造れない・・・そこでヤマハがどうしたか

ヤマハ赤トンボ

ブリヂストンに特別に用意してもらった無地タイヤに当時のパターンを手彫りで再現したんです。

この手間も惜しまないのが実にヤマハらしい。

ヤマハはバフ掛けされたアルミパーツやサンバースト塗装や真鍮音叉など、職人の手で一つ一つ造る部品を数多くのバイクに採用しています。

真鍮音叉

生産も市場縮小を逆手に取って国産は流れ作業で組まれるライン生産ではなく数人で全てを組む手組みに近いセル生産。

ここまで来ると工業製品というよりもはやクラフト、工芸品と言っていい。そんなバイクをヤマハは当たり前の様に造り・・・そして当たり前の様に売っている。

『レーシングスピリット』

『デザインセンス』

『クラフトマンシップ』

ヤマハが今も持ち続けているこの武器であり精神は全部この赤とんぼに繋がっている。

YA-1モザイクアート

原点にして現在も現すYAMAHA125/YA-1。

正にヤマハの化身ですね。

主要諸元
全長/幅/高 1980/660/925mm
シート高
車軸距離 1290mm
車体重量 93kg(乾)
燃料消費率
燃料容量 13L
エンジン 空冷2サイクル単気筒
総排気量 123cc
最高出力 5.6ps/5500rpm
最高トルク 0.96kg-m/3300rpm
変速機 常時噛合式4速リターン
タイヤサイズ 前後2.75-19
バッテリー
プラグ
※2つの場合は手前が、3つの場合は中央が標準熱価
推奨オイル
オイル容量
※ゲージ確認を忘れずに
スプロケ
チェーン
車体価格 138,000円(税別)
系譜の外側
DN-01

拒絶された渾身のATスポーツクルーザー
DN-01
(RC55)

gts1000

悪いのは人か技術か
GTS1000/A
(4BH/4FE)

750カタナ

カタナと名乗れなかったカタナ
GSX750S
(GS75X)

ザンザス

Zの亡霊と戦ったZ
XANTHUS
(ZR400D)

CBX400カスタム

30年経ってCBXと認められたアメリカン
CBX400CUSTOM
(NC11)

BT1100

イタリア魂が生んだもう一つのMT
BT1100 BULLDOG
(5JN)

GSX1300BK

本当の怪物は誰も求めていなかった
GSX1300BK B-KING
(GX71A)

ZR750F/H

死せるザッパー生ける仲間を走らす
ZR-7/S
(ZR750F/H)

ホンダCBX1000

大きすぎた赤い夢
CBX1000
(CB1/SC03/06)

GX750/XS750

ブランドは1台にしてならず
GX750
(1J7)

スズキGAG

SUZUKIのZUZUKI
GAG
(LA41A)

Z1300

独走のレジェンダリー6
Z1300/KZ1300
(KZ1300A/B/ZG1300A)

NM-4

アキラバイクという非常識
NM4-01/02
(RC82)

FZX750

大きな親切 大きなお世話
FZX750
(2AK/3XF)

GSX1400

踏みにじられたプライド
GSX1400
(GY71A)

750Turbo

タブーを犯したターボ
750Turbo
(ZX750E)

NR750

無冠のレーシングスピリット
NR
(RC40)

TRX850

現代パラツインスポーツのパイオニア
TRX850
(4NX)

GS1200SS

嘲笑される伝説
GS1200SS
(GV78A)

ゼファー1100

ZEPHYRがZEPHYRに
ZEPHYR1100/RS
(ZR1100A/B)

NS400R

狂った時代が生んだ不幸
NS400R
(NC19)

RZV500R

手負いの獅子の恐ろしさ
RZV500R
(51X/1GG)

RG500Γ

チャンピオンの重み
RG500/400Γ
(HM31A~B/HK31A)

AV50

なぜなにカワサキ
AV50
(AV050A)

ドリーム50

五十路の夢
DREAM50
(AC15)

フォーゲル

楽し危なし
POCKE/VOGEL
(4U1/7)

ストリートマジック

シンデレラスクーター
TR-50/TR-110
(CA1L/CF12)

Z750ツイン

鼓動と振動
Z750TWIN
(KZ750B)

フォルツァ125

市民権の象徴
FORZA125
(JF60)

SRX4/6

決して多くない人たちへ
SRX-6/SRX-4
(1JK/1JL~)

DR-Z400SM

最初で最後のフルスペック
DR-Z400S/SM
(SK43A/SK44A)

ZX-7R/RR

問題児レーサー
ZX-7R/RR
(ZX750P/N)

RC213V-S

2190万円の妥協と志向
RC213V-S
(SC75)

YZF-R7

7と1でWE/R1
YZF-R7
(5FL)

バーグマンFCS

エコの裏で蠢くエゴ
BURGMAN FCS
(DR11A)

エリミネーター750/900

名は体を現す
ELIMINATOR750/900
(ZL750A/ZL900A)

モトコンポ

こう見えて宗一郎のお墨付き
MOTOCOMPO
(AB12)

TDR250

聖地突貫ダブルレプリカ
TDR250
(2YK)

グース

決めつけられたシングルの正解
Goose250/350
(NJ46A/NK42A)

Z650

小さく見えるか大きく見えるか
Z650
(KZ650B)

X4

単気筒
X4
(SC38)

SDR200

軽く見られた軽いやつ
SDR
(2TV)

チョイノリ

59,800円に込められた思い
choinori
(CZ41A)

ゼファー750

復刻ではなく集大成
ZEPHYR750/RS
(ZR750C/D)

PS250

モトラリピート
PS250
(MF09)

DT-1

冒険という感動創造
トレール250DT1
(214/233)

Vストローム250

二度ある事は三度ある
V-STROM250
(DS11A)

エリミネーター250

周期再び
ELIMINATOR250/SE/LX
(EL250B/A/C)

CX500ターボ

打倒2ストのブースト
CX500/650TURBO
(PC03/RC16)

YA-1

原点進行形
YAMAHA125
(YA-1)

rf400r

RでもFでもない
RF400R/RV
(GK78A)

250-A1

半世紀を迎えた吉凶のライムグリーン
250-A1/SAMURAI

Vツインマグナ

氷河期 of Liberty
V-TWIN MAGNA(MC29)

TDR50

RALLYってしまった原付
TDR50/80(3FY/3GA)

SW-1

オシャレは我慢
SW-1(NJ45A)

ボイジャー1200

可愛い娘は旅をせよ
Voyger XII
(ZG1200A/B)

WING

Twist and Shaft
WING
(GL400/GL500)

ビーノ

その愛嬌は天然か計算か
VINO
(SA10J/SA26J/SA37J/SA54J/AY02)

DRビッグ

爪痕を残し飛び去った怪鳥
DR750S/DR800S
(SK43A/SR43A)

テンガイ

愛おぼえていますか
Tengai
(KL650B)

CB92

雪辱のSSその名はシービー
CB92

XT400E

本当の名前は
ARTESIA
(4DW)

ジェベル250

ツールドジェベル
DJEBEL250/XC/GPS
(SJ44A/SJ45A)

KV75

混ぜるなキケン
75MT/KV75
(KV075A)

ダックス

泥遊びなら任せろ
DAX
(ST50/ST70/AB26)

ランツァ

単槍匹馬のラストDT
LANZA
(4TP)

GT750

水牛であり闘牛である
GT750
(GT750J~N)

あなたと同じ年に生まれたバイク ~1950年から2004年まで~

1950年から2004年まで

知名度があるその年のニューモデル(新しく誕生した名前の日本車)を1950年から2004年まで上げてみました。

自分と同い年のバイクは何か、昔のバイクを知るキッカケにでもなれば幸いです。

1950年代生まれ

1960年代生まれ

1970年代生まれ

1980年代生まれ

1990年代生まれ

2000年代生まれ

1950年生まれ|ラビットS-41

XL250

スクーター事業に乗り出していた富士工業(現スバル)が出したモデル。単気筒ながら169ccと当時の原付免許(~150cc)を超える規格と大柄な車体で大型高級スクーター路線の草分け的なモデルだった。

1951年生まれ|ドリームE型

ドリームE型

後に二代目ホンダ社長となる河島さんがエンジン設計を担当した4stエンジンのモデル。性能と耐久性の高さで宗一郎を感心させホンダを4stの道へ進めることになった名車。

関連ページ:第三章 本田技研工業設立と藤沢武夫/本田宗一郎の系譜

【その他】

・シルバーピジョンC21

1952年生まれ|カブF号

カブF号

白いガソリンタンクと真っ赤なエンジンが特徴のバイクモーター(自転車に付ける補助エンジン)が特徴のモデル。運転で衣服が汚れないよう後部に備え付けなどのアイディアがヒットを呼び、HONDAの名を全国に知らしめた。

関連ページ:カブF号/スーパーカブの系譜

【その他】

・スズキパワーフリー号

1953年生まれ|VFE-LTS

VFE-LTS

国内最大排気量バイクメーカーであった陸王のラインナップでトップに位置していたモデル。主に警察など官用向けの高級車。

関連ページ:国産ハーレー『陸王』とは

【その他】

・ダイヤモンドフリー号

1954年生まれ|ジュノオK

ジュノオK

ホンダが初めて作ったスクーター。富裕層で流行っていた事が背景にあり高級志向を追求した結果とんでもない重さ(乾燥重量で170kg)になった。

【その他】

・コレダCO-L(スズキ初の完成車)

1955年生まれ|YA-1

赤とんぼ

赤トンボでお馴染みヤマハの原点モデル。国内レースで表彰台を独占する速さを見せつけた事でバイクメーカーとして認められた。

関連ページ:原点進行形YAMAHA125(YA-1)/系譜の外側

【その他】

・コレダST-II

1956年生まれ|Z7 スタミナ

Z7スタミナ

メグロシリーズの市販車として初めてスイングアームを採用したモデル。公募により”スタミナ”の愛称が与えられた多くの人にとって憧れのメグロを象徴するモデルだった。

関連ページ:メグロKシリーズ/Wの系譜

1957年生まれ|250YD-1

250YD-1

赤とんぼYA-1(125)によりレース場で敵無しだったヤマハがさらなる一手として出してきた250版YA-1のようなモデル。周囲の期待通りこのモデルでもレースで勝利を収め、楽器屋とバカにする人は居なくなった。

1958年生まれ|スーパーカブC100

スーパーカブC100

世界160ヶ国以上で販売され総生産台数1億台を突破したスーパーカブの初代モデル。今でこそ見慣れているが当時はデザインも走行性能も価格も飛び抜けた最高級原付だった。

関連ページ:スーパーカブC100/スーパーカブの系譜

【その他】

・陸王750RTII

1959年生まれ|ドリームCB92

CB92

初めてCBの名を冠した市販スーパースポーツ。日本とSSそしてアマチュアレースの歴史における原点。

関連ページ:雪辱のSSその名はシービー CB92/系譜の外側

【その他】

YDS-1

1960年生まれ| K1 スタミナ

K1 スタミナ

メグロのバーチカルツインであり、メグロ最後の大型スポーツモデルであり、Wシリーズの元ネタでもあるモデル。

関連ページ:メグロKシリーズ/Wの系譜

【その他】

・ドリームSS CB72

1961年生まれ|モンキーZ100

モンキーZ100

ホンダが造った自動車遊園地である多摩テックのアトラクション。欧州に飾りとして持っていったところ反響を招きモンキーとして市販化される流れとなった。

関連ページ:モンキーZ100/モンキーの系譜

1962年生まれ|B8

B8

エンジン製造という形でバイクに関わっていた川崎航空機(現カワサキ)が初めて車体を含め全てを自社で手掛けた造り上げたモデル。地元兵庫で行われたモトクロス選手権で圧倒的な速さを見せつけた。

1963年生まれ|シルバーピジョン140/240

シルバーピジョン

新開発の2stパラツインエンジンを搭載した三菱重工業のスクーター。一時期は業界を牽引するほどの人気だったがスーパーカブの台頭により最後となってしまったシルバーピジョン。

1964年生まれ|SG

SG

目黒製作所としてのラストモデルであり非常に人気が出たモデルでもあるSG。そのためメグロエンブレムとカワサキエンブレムの両方があるモデル。カワサキが出したエストレヤの元ネタもこれ。

関連ページ:メグロジュニアシリーズ/エストレヤの系譜

1965年生まれ|ブリヂストン180

180TA1

タイヤでお馴染みブリヂストンが造った世界初のデュアルキャブ&ツインエンジンのハイエンドモデル。しかし残念ながらこのモデルが出てすぐ国内での販売を終了することになった。

関連ページ:ブリヂストンも昔バイクを作っていた/バイク豆知識

1966年生まれ|650-W1

メグロ時代に人気だったK2を再設計したカワサキ初の大型バイク。ダブワンの愛称で親しまれ国内のみならず世界へも輸出されていた。

関連ページ:650-W1(W1/S/SA)/Wの系譜

1967年生まれ|ベンリィ SS50

SS50

50ccのレースに合わせて造られたフルチューンベンリィ。6馬力、テレスコピック、5速ミッションなど贅沢の限りを尽くしたモデルだった。

1968年生まれ|トレールDT1

DT-1

オフロードを我慢するのではなく楽しく走る事が出来るバイクとして登場。国を問わず広く愛されトレールという車名(造語)がジャンルを表す言葉にまでなった。

関連ページ:冒険という感動想像 250DT1(214/233)/系譜の外側

1969年生まれ|CB750FOUR

量販車として初の直列4気筒バイク。マン島TT(最高峰レース)全制覇からの登場で世界中にホンダの技術力の高さを示した。

関連ページ:ドリームCB750FOUR/CB1300の系譜

【その他】

500SSマッハ3

ダックスホンダ(ST50)

・ハスラーTS250

1970年生まれ|650XS1

650XS1

ヤマハが世界へ打って出るために造った初の4st大型モデル。欧州勢と真っ向勝負になる650を敢えて選択、そのエンジン廻りにはトヨタ2000GTで得たノウハウが応用された。

1971年生まれ|GT750

GT750

スズキが造った国産初の水冷2stトリプルナナハン。常軌を逸したエキサイティング性能とその巨漢っぷりからウォーターバッファローという愛称で主にアメリカで大好評だった。

1972年生まれ|900SUPER4

Z1

Z1という型式が有名な名車中の名車。性能やデザインが優れていただけでなく耐久性も非常に高かったことからレース界でもベースマシンとして大人気だった。

関連ページ:900Super4(Z1/A/B)/Z1000の系譜

【その他】

・GT380(GT380)

1973年生まれ|750RS

Z2

750cc規制があった国内向けに用意されたナナハン版Zの通称ゼッツー。見た目はほぼ同じなもののエンジンの中身は別物なナナハン専用設計で日本のトップモデルに君臨。

関連ページ:750RS(Z2/Z2A)/Z900/RSの系譜

1974年生まれ|ドリーム400FOUR

750の弟版として登場した408ccの通称ヨンフォア。中型免許(~400cc)という規格が設けられる要因を作ったモデルで四気筒ゆえに当時は採算が取れず短命に終わった。

関連ページ:CB400FOUR(CB400F)/CB400SF/SBの系譜

【その他】

GL1000GOLDWING

1975年生まれ|XL250

XL250

2stが当たり前だったオフロード界で4stとして初めて成功したモデル。4st特有の低中速から厚みのあるエンジンが好評で林道ブームを巻き起こす源動力にもなった。

関連ページ:XL250/S/R(MD03)/CRF250の系譜

1976年生まれ|XT500

ヤマハが初めて造った4stビッグオフモデル。1万回キックテストなど軽量化と同時に耐久性も重視し非常に高い評価を獲得。パリダカ初代王者に輝いた後にSRへと転生する。

関連ページ:XT500(1E6)/SR400の系譜

1977年生まれ|KL250

カワサキが初めて造った4stオフロードバイク。モトクロッサー譲りのフレームと足回りを装備しており初代にして高い走破性を兼ね備えていたKLXシリーズの始まりとなるモデル。

関連ページ:KL250(KL250A/C)/KLX250の系譜

1978年生まれ|SR400

アメリカからの要望で造ったXT500のスクランブラー(ダートトラッカー)モデル。度重なる生産終了危機を乗り越えてきてたバイク界の生けるレジェンドはこの年に生まれた。

関連ページ:SR400(2H6)/SR400の系譜

【その他】

CBX(CB1/SC03/SC06)

Z1300(KZ1300A)

1979年生まれ|Z400FX

Z400FX

望まれていたものの長らく不在だった四気筒400ccの声に応える形で登場した羨望のZ。一度は生産終了したもののデザインの良さから再販された歴史があるモデル。

関連:Z400FX(KZ400E)/ZEPHYRの系譜

【その他】

CB750F(RC04)

・GS1000S

1980年生まれ|RZ250

市販レーサーTZ250を公道向けにした2stスーパースポーツ。風前の灯火だった2st最後の華として造られたものの爆発的な人気となったことで2st全体を押し上げ80年代2st黄金期を築く第一歩になったモデル。

関連:RZ250(4L3)/TZR250Rの系譜

【その他】

CBX400F(NC07)

GSX250E(GJ51B)

POCKE/VOGEL(4U1/7)

1981年生まれ|GSX1100S KATANA

KATANA

デザイン面に課題を抱えていたスズキがデザインコンペをキッカケに開発したフラッグシップ。ドイツのケルンショーで発表された際あまりにもインパクトがあった事からケルンの衝撃と称されたモデル。

関連:GSX1100S KATANA/KATANAの系譜

【その他】

モトコンポ(AB12)

XJ750(5G8)

1982年生まれ|VT250F

VT250F

勢いづく2stに対抗する形で登場した4ストVツインクォータースポーツ。35馬力を叩き出すエンジンはもちろんフロント16インチやプロリンクなど本気度MAX仕様だったモデル。

関連:VT250F(MC08)/VTRの系譜

【その他】

GSX750S(GS75X)

VF400F(NC13)

1983年生まれ|RG250ガンマ

ガンマ

セパレートハンドルとアルミフレームそれにフェアリングと初めてレーサー装備を完備して登場。レーサーレプリカブームの火蓋を切って落とす存在となったモデル。

関連:RG250Γ(GJ21A)/RGV-Γ250の系譜

【その他】

CBR400F(NC31)

GB250CLUBMAN(MC10)

GSX-R(GK71B)

JOG(27V)

1984年生まれ|GPZ900R

世界最速を掲げた元祖Ninjaでありその後のカワサキの方向性を決定づけるほどの影響を与えたモデル。最初は思ったほどの人気は出なかったものの映画トップガンに取り上げられた事を契機に20年近く販売されるロングセラーとなった。

関連:GPZ900R(ZX900A)/ZX-14R/GTRの系譜

【その他】

FZ400R(46X)

750TURBO(ZX750E)

KR250(KR250A)

1985年生まれ|Vmax

Vmax

V4エンジンによる遠慮知らずの加速力を持つ怒涛のドラッガー。そのわりにフレームは直ぐ走るのも困難なほどフニャフニャだったためプロライダーですらアクセルを全開にする事は出来なかった。

関連:Vmax1200(1FK~)/VMAXの系譜

【その他】

FZ750(1FM)

FZ250PHAZER(1HX)

TZR250(1KT)

SEROW(1KH)

GSX-R750(F/G/H)

GPZ400R(ZX400D)

1986年生まれ|NSR250R

MC16

2stに消極的だったホンダが2stのヤマハ打倒のために出したレーサーレプリカ。GPレーサーの名前を冠しているだけありデザインも性能も本物で、しかも乗りやすかった。

関連:NSR250R(MC16)/NSR250Rの系譜

【その他】

FUSION(MF02)

FZR250(2KR)

GSX-R1100(GV73A)

1987年生まれ|VFR750R

VFR750R

ワークスレーサーRVFのレプリカとして登場した通称RC30。打倒ワークス精神で造られた側面があり、構造も速さもそして価格も市販車の域を越えていた世界市販車レースの初代王者。

関連:VFR750R(RC30)/VFRの系譜

【その他】

GPX250R(EX250F/G)

NSR50/80(SC10/HC06)

・TW200(2JL)

1988年生まれ|アフリカツイン

アフリカツイン

砂漠を優雅に駆け抜ける姿から砂漠の女王と称されたダカールラリーを四連覇をレーサーNXRのレプリカモデル。当初は限定モデルだったが人気が出たことで定番化した。

関連:Africa Twin(RD03/04/07)/Africa Twinの系譜

【その他】

CBR400RR(NC23)

STEED400(NC26)

1989年生まれ|ZEPHYR

ゼファー

レーサーレプリカブームに一石を投じたオールドスタイルのネイキッド。数年で時代をネイキッドブームへと引っくり返すほどの影響力を与えたモデル。

関連:ZEPHYR(ZR400C)/ZEPHYRの系譜

【その他】

Bandit250(GJ74A)

Bandit400(GK75A)

ZXR400R(ZX400H/J)

・KDX200SR(DX200E)

1990年生まれ|CBR250RR

CBR250RR

猫も杓子もレーサーレプリカに乗るのが当たり前だった時代を象徴するマルチクォーター250の代表格的なモデル。非常に乗りやすかった事もあり老若男女問わず人気だった。

関連:CBR250RR(MC22)/CBR250RRの系譜

【その他】

ZZR1100(ZX1100C)

ZZR250(EX250H)

KSR(MX050/080)

1991年生まれ|BALIUS

バリオス

レーサーレプリカの強心臓とグラマラスなボディを持つ250ネイキッド。名前の由来はギリシャ神話に登場する名馬から。

関連:BALIUS(ZR250A)/ZXR250Rの系譜

【その他】

Goose(NJ46A/NK42A)

NS-1(AC12)

1992年生まれ|CB400SF

400シリーズの王者であり王道であり教習車として多くの人にバイクの運転を教えた名車。四気筒でオールドスタイルで400ccで足付きも良くてスポーツ性もあるという日本人の為にだけ存在するようなモデル。

関連:CB400SF(NC31)/CB400SF/SBの系譜

【その他】

エストレヤ(BJ250B)

CB1000SF(SC30)

CBR900RR(SC28)

DJEBEL250(SJ44A)

GSX400S KATANA(GK77A)

NR(RC40)

・DT200WR(3XP)

1993年生まれ|KLX250SR

KLX250

まだまだ2stが人気だった時代に登場した戦う4st。キャッチコピー通り2stに勝てるポテンシャルを持たせるために利便性を全てかなぐり捨ててた潔い半身モトクロッサーの初代KLX250。

関連:KLX250SR/ES(LX250E/F)/KLX250の系譜

【その他】

XJR400(4HM)

DJEBEL200(SH42A)

1994年生まれ|TZM50R

TZM50R

12インチスポーツ最速(打倒NSR50)を掲げて造られたヤマハの超本気原付。エンジンはもちろん足回りも原付にあるまじき豪華仕様だった。

【その他】

GSX400インパルス(GK7AA)

XJR1200(4KG)

ZX-9R(ZX900B)

1995年生まれ|GSF1200

威風堂々さが求められるジャンルにも関わらずそれよりもスポーツ性を追求したカットビ系ネイキッド。ひっくり返るビッグネイキッドの異名を持つも開発者いわくこれでも大人しくした方との話。

関連:GSF1200/S(GV75A/B)/Bandit1250の系譜

【その他】

ZX-6R(ZX600F)

XR250/BAJA(MD30)

MAJESTY(4HC)

ボルティー(NJ47A)

1996年生まれ|XVS400ドラッグスター

ドラッグスター400

もともとクルーザーのデザインに定評があったヤマハが出した新世代400クルーザー。あまりの完成度の高さと人気っぷりから敢えて選択肢から外す人が居るほどだった。

関連:DS4/DSC4(4TR)/DS4/DSC4の系譜

【その他】

ZRX1100(ZR1100C/D)

VTR1000F(SC36)

HORNET(MC31)

CBR1100XX(SC35)

1997年生まれ|VTR

VTR

長い歴史を持つVTシリーズの最終形態。クラス最軽量によるスポーツ性だけでなく、熟成され故障知らずなエンジンが好評でバイク便やジムカーナなど道具として酷使される世界でも御用達となった。

関連:VTR(BA-MC33)/VTRの系譜

【その他】

リトルカブ(C50)

TL1000S(VT51A)

1998年生まれ|YZF-R1

YZF-R1

性能とデザインの両面でスポーツ界に革命をもたらしたモデル。ライトウェイトスポーツと言われていた排気量の常識を押し上げ、リッターSSというジャンルを築くキッカケになった。

関連:YZF-R1(4XV)/YZF-R1の系譜

【その他】

D-TRACKER(LX250H/J)

1999年生まれ|HAYABUSA

ハヤブサ

独創的デザインと時速314km/hというWパンチで世界中を騒然とさせたモデル。あまりにもクレイジーだと欧州で物議を醸し、販売差し止めをチラつかされた事で299km/h規制を生むことになった。

関連:GSX1300R HAYABUSA(X/Y/K1~7)/HAYABUSAの系譜

【その他】

SV650/S(VP52A)

YZF-R6(5EB)

2000年生まれ|VTR1000SP

VTR1000SP1

世界市販車レースでVツイン優遇措置が取られた事で造られたレース前提開発のホモロゲーションモデル。鬼(ホンダ)に金棒(Vツイン)となりレースを席巻した事で大人気ないと言われるほどだった。

関連:VTR1000SP-1(SC45前期)/VTR1000の系譜

【その他】

FORZA(MF06)

ZX-12R(ZX12000A/B)

2001年生まれ|GSX-R1000

GSX-R1000

今も続くGSX-R1000の初代となるモデル。伝統の750モデルを無理やり1000ccにしたような形で圧倒的な軽さと速さだった事からストックレースでは世界問わずこれ一択状態になった。

関連:GSX-R1000(K1/K2)/GSX-R1000の系譜

【その他】

TMAX(5GJ)

FJR1300(5JW)

APE100(HC07)

GSX1400(GY71A)

2002年生まれ|GSX1400

スズキが出した最大排気量のビッグネイキッド。1985年から続いた油冷(SACS)エンジンを搭載した最後のモデルとなった。

関連:踏みにじられたプライドGSX1400(GY71A)/系譜の外側

【その他】

バンバン200(NH41A)

KSR110(KL110E)

2003年生まれ|CBR600RR

CBR600RR

ミドルスポーツが加熱した事で造られたモデル。スーパースポーツらしい速さやハンドリングだけでなくセンターアップマフラーというデザイントレンドまで造り上げた。

関連:CBR600RR(PC37前期)/CBR600RRの系譜

【その他】

Z1000(ZR1000A)

2004年生まれ|ZX-10R

カワサキが最初に作ったリッタースーパースポーツ。のちに市販車最速の称号をほしいままにすると言っても恐らく誰も信じないほど斜め上を行く玄人好みのモデルだった。

関連:ZX-10R(ZX1000C)/ZX-10Rの系譜

【その他】

VALKYRIE RUNE(SC53)

CBR1000RR(SC57)

DR-Z400(SK43A)

ショベルヘッド世代 -since 1957-

1957XLスポーツスター

先に紹介したモデルKの後継で実質的なスポーツスターの始まりと言えるXL。

一番の変更点はヘッドカバーの形がショベルの形に似ていたことからショベルヘッドと呼ばれるOHVエンジンになった事。

ショベルヘッドエンジン

モデルチェンジの理由はもちろん先代から始まった英国勢に勝つためで、OHV化とショートストローク化で排気量はKHに習って883ccながら42馬力。

他のシリーズと違ってシリンダーとヘッドが鉄な事から『アイアンスポーツ』という俗称が有名ですね。

そんなXLですが手を緩めることなく発売の翌年である1958年には圧縮比を7.5から9まで上げたホットモデルXLHを発売。

ショベルヘッドXLH

更にレースのためのコンペティション(レース用)モデルであるXLHCモデルも同年に登場。

ショベルヘッドXLCH

このXHLCはレース用で保安部品が付いていなかったのですが、55馬力というハイスペックだった事から市場でも話題となり

「市販化(公道化)してくれ」

という要望が多く寄せられた事から市販化された歴史があります。

初期型XLCH

上の写真は初期型(~1962)のスクランブラータイプ。

アイアンスポーツはここからXLHとXLCHの二台体制でしばらく行くことになります。

大きく変わったのは約14年後の1972年でライバルに対抗するため1000cc化などが行われたんですが、そんな中で紹介しておきたいのが1977年に出たXLCRというモデル。

XLCR

これはハーレー界の神様と呼ばれているウィリーGというデザイナーが個人的に造った事が発端のカフェレーサー。

既存のKフレームではなく新作フレームでロングタンクとビキニカウルが特徴的。

日本で有名なZ1-Rと被る事からも分かる通りカフェレーサーブームに合わせたもの。

XLカフェレーサー

ハーレーとしては非常に珍しい純正カフェスタイルとして今では一部に絶大な人気があります・・・が、当時は本当に不人気でした。

後期で9本スポークホイールなどの改良も行われたんですが、それでも人気は全く出ずわずか2年ほどで生産終了。

このモデルのために造ったフレームは通称CRフレームとして生産終了の1979年から全スポスタに引き継ぐ形に。

しかしこのCRフレームも剛性面でお世辞にも出来が良いフレームと呼べるものではなかった為に1982年からは再び新作された30thフレーム(またはエボリューションフレーム)に変更。

XLS

形はそのままにガゼット(補強)を追加し剛性不足を解消したもので、こちらは出来が良く次世代まで使われることになります。

そんなショベルヘッド時代の最後を飾ったのは1983年に出たXLX-61。

XLX-61

圧縮比を上げられた専用エンジンを積んだスペシャルモデル。

AMF傘下から脱して初めて造られたモデルで非常に人気が出ました。AMFについては次のページにて。

ハーレーの見分け方ハーレーの見分け方
※ハーレーが分からない人向け
フラットヘッドスポーツスター1952年
フラットヘッド世代
ショベルヘッドスポーツスター1957年
ショベルヘッド世代
ブロックヘッドスポーツスター1986年
ブロックヘッド世代
ニューブロックヘッドスポーツスター2004年
ニューブロックヘッド世代
スポーツスターの全モデルスポーツスターの全モデル

フラットヘッド世代 -since 1952-

フラットヘッド

日本で非常に人気があり多くのハーレー乗りを生み出したであろうハーレーのスポーツスター。

先ページの繰り返しになりますが

「スポーツスターって何」

という所から話すとハーレーの中でもスポーツ志向のモデルの事でまず定義としては

『4カムである事』

が特徴です。

スポーツスターのカムの違い

乱暴な絵ですがエンジンの扉であるバルブを押す役目を持っているカムシャフトと呼ばれる棒が吸気と排気で一本ずつ付いているのが4カム。

言ってしまえばSOHCとDOHCの違いと同じなんですが、ハーレーはOHVといってバルブを動かす(押す)カムシャフトがエンジンの上ではなく下に付いているのが特徴。

スポーツスターのカムの場所

そしてもう一つは『ミッションが一体型になっている事』です。

この2つがスポーツスターの特徴なんですが、名前の通りスポーツ性を高めるために生まれたのが背景にあります。

じゃあそんなスポーツスターの始まりが何処にあるのかと言うと一般的には1952年の『K』が始まりと言われています。

モデルK -since1952-

モデルK

サイドバルブ方式の通称フラットヘッドと呼ばれるエンジンを積んだスポーツモデル。

このエンジン自体は1929年に造られた物がベースなんですが、何故フラットと呼ばれるのかと言うとサイドバルブと書いてあるように我々がよく知るバルブとピストンが向き合う形ではなく横に寄り添うように同じ向きに付いているから。

フラットヘッドエンジン

本当に絵が下手で申し訳ないんですがこんな感じで、カバーを外すとフラット(平面)だからフラットヘッド。

そしてもう一つの始まりであるミッション一体型なんですが、これはエンジンの剛性(ひいては車体剛性)を上げるのが狙い。

モデルKのチラシ

「なんでそんなに性能を上げる必要があるのか」

と今でこそ思いますが、当時のハーレーはどのメーカーよりも速いハイスペックメーカーだったんです。

だから性能を上げる改良を施すのも何の不思議でもない話で、日本の陸王がこのフラットヘッドエンジンをライセンス生産したのも一番高性能だったから。

1950年代のアメリカレース

そんな今では考えられないハーレーなんですが、実はこのモデルKは最初は出す予定じゃなかった。

従来どおりのWLシリーズというモデルを改良し発表したんですが

「これじゃ英国勢に勝てない」

という声が市場から殺到したんです。

というのも当時は終戦と同時にBSAやトライアンフなどのバーチカルツインが輸入されはじめ、性能面で引けを取るようになっていたんですね。

そこで創業者であるダビッドソン兄弟は自分たちで4カム化やミッション一体型などに改造していたモデルをテコ入れとして急遽市販化することに。

モデルK

それがこのモデルK。

フレームも専用のスイングアーム式になっている新作(通称Kフレーム)で30馬力を叩き出すマシン。これがスポーツスターの原型になります。

更に二年後の1954年にはストローク量を上げ750ccだった排気量を883ccにし、38馬力にまでパワーを上げたホットモデルであるKHを発売。

モデルKH

誰もが知っている『パパサン』の元祖モデルです。

パパサンというとファッショナブルなイメージが先行しますが、実はハーレーの中でも非常に歴史が長い排気量なんですね。

ちなみに「パパサン」と言われることを嫌う人も居るのでそこは留意しておく必要があります。

ハーレーの見分け方ハーレーの見分け方
※ハーレーが分からない人向け
フラットヘッドスポーツスター1952年
フラットヘッド世代
ショベルヘッドスポーツスター1957年
ショベルヘッド世代
ブロックヘッドスポーツスター1986年
ブロックヘッド世代
ニューブロックヘッドスポーツスター2004年
ニューブロックヘッド世代
スポーツスターの全モデルスポーツスターの全モデル

250S/YDS-1(150) -Since1959-

「この美しい車を・あなたに」

発売当初はヤマハスポーツ250Sという名前でしたが数ヶ月でYDS-1に社名が変更になった為、YDSで名前を統一してご紹介。ちなみに愛称は「エスワン」です。

先代に当たるYD-1のページで紹介した通り、ヤマハは浅間高原レース125制覇の勢いそのままに、1957年に250ccクラスとして2st二気筒250ccのYD-1を販売。同時にYD-1をベースにしたYDレーサーのタイプAとBにてレースへ参戦しました。

AとBはボアストローク比が違うだけ(A:54mm×54mm|B:56mm×50mm)で、これはレースでは一車種3台までというルールへの対応するため。

ちなみに浅間高原レースという大層な名前ですが、当時のコース路面は今で言うダートコースで最低限の整備だったため、暴れるバイクを如何にコントロールするかが鍵だった時代。つまり軽くてワイドなハンドルが定説なんですが、なんとヤマハは重くなるカウルと低く絞ったハンドルという空力重視のスポーツスタイルで勝負に挑み・・・見事に勝利しました。

1957浅間高原レース

2st二気筒250ccのパワフルなエンジンは分かるものの、一見無謀とも終えるこのような車体で勝てた理由は、これらの装備はレーサーっぽい見た目で存在感をアピールすると共に、走行中に前の車両から飛んでくる泥から視界を守る泥除けを狙ってのものだったから。

そしてそんな250ccレースを制したYDレーサーのレプリカとして登場したのがYD-1のスポーツ版であるYDS-1というわけです。

ヤマハスポーツ250S

YDレーサーと同じくデュアルキャブレター化でクラストップの20馬力を叩き出し、ミッションも国産量販車初となる5速ミッションを搭載。車重もYD1から2kgの軽量が施され最高時速は公称140km/h。

そんなハイスペックスポーツのYDS-1ですが、更に凄かったのは

「レースKITを用意して一般向けに売った」

という事にあります。

ヤマハが成功を収めた浅間高原レースですが、消費者からの注目度は非常に高かったものの、運営やコース整地などレースに関わる費用のほぼ全てを参戦メーカーが負担する形だったため、メーカーもその負担に耐えきれなくなり、話し合いの末にYDレーサーが勝った1957年を最後に隔年開催へと変更されました。

つまり翌1958年は中止となったのですが、当時の月刊モーターサイクリスト取締役社長だった酒井文人氏が音頭を取り、憧れの浅間高原レースを走ってみたいと思っているアマチュアを全国から集めアマチュアレースを開催。

これが日本初の第1回クラブマンレースになるんですが、アマチュアということもありメーカーも車種も改造範囲もバラバラな異種格闘技のような形となりました。しかし、身近なモデルによるレースという事でメーカー対決とは別の形で人気を呼び、なんとこっちまで翌1959年以降も毎年開催する事となり、またその注目度からメーカーも見過ごせないレースとなりました。

そう、つまりヤマハがYDレーサーのレプリカYDS-1を1959年に発売した理由は、このクラブマンレースでも勝ちたいという考えがあったから。

250Sカタログ写真

もちろんそう考えるのはどのメーカーも同じこと。しかし同時に技術力を持ったメーカーほど非常に難しい問題に直面するレースでもあった。

「自社のバイクを勝たせたい」

「自社のレース技術を明かしたくない」

というジレンマが発生したんですね。だから1959年の第二回クラブマンレースを勝ちたかったメーカーは、名目上は市販車としつつも自社の息のかかった人たちだけに供給し勝ちにいく”隠れワークス作戦”に出るところがチラホラあった。

一方でヤマハはこれとは正反対の手段を取った。それが上で紹介したYDS-1とレースKITの一般販売です。自社が持つレース技術の提供、手の内を明かす事でアマチュアの人にYDS-1を選んでもらい、なおかつ勝ってもらうボトムアップのような道を選んだ。

キットパーツを装着したYDS-1

結果として残念ながらレースで優勝は逃したのですが、作戦としては大成功を収めました。

今でこそレースベース車両などが当たり前に買えますが、この頃はレースを想定したモデルというのは存在こそすれ一般人は触る事すら許されなかった時代だったので

「腕に自身はあるがレースに参加できるマシンを持っていない」

という全国で燻っていたライダー達にとってYDS-1の販売は、夢をかなえる手段として人気を呼び、また、レースでヤマハ勢を応援する人、そして優勝を逃したにも関わらずヤマハを称える人が爆発的に増えたんです。

これが何故かといえば自分でも頑張れば買えるバイクで、自分と同じアマチュアライダーが戦ったからですね。

試合に負けて勝負に勝った典型ともいえるこの流れ・・・そう、80年代に巻き起こる事となったレーサーレプリカ(SPレースブーム)と非常に酷似している。

このYDS-1は半身レーサーという要素から一大ブームを巻き起こす事になるレーサーレプリカマーケティングの第一人車とも言えるバイク。

”2stのヤマハ”と二つ名で呼ばれるようになりだしたのはこの頃からで、その理由は単純に速かっただけでなく、いま話したように

「アマチュアに夢を見せてくれる2stを造っていたから」

なんですね。

YDSのモデルチェンジ概要

YDS1(150後期) -Since1960-

YDS1後期モデル

ミッションをスプライン式からドッグ式へ変更する年次改良を行ったエスワン後期モデル。見分け方としてはフェンダーが伸びている事と、フェンダーステーがアクスルシャフト部分からの取り付けになっている事があります。

YDS2(152) -Since1962-

1962YDS2

通称「エスツー」

22mmの大径キャブレターの採用で3馬力UPし23馬力になり、防水防塵に優れるツインリーディング式のドラムブレーキも採用。先代に引き続きレース用のKITも数多く販売されました。

YDS3(156) -Since1964-

1966YDS3

通称「エスサン」

オートルーブ(オイル分離給油式)の採用に伴いデザインが一新された三代目モデル。馬力は更に上がって26馬力となり、後輪も併せて3.25-18に大型化。フェンダーを一本ステーで固定しているのが特徴。

上の写真は発売から半年後の12月に登場したアップハンドルと楕円上のヤマハロゴになった後期モデル。

DS5E(169) -Since1967-

1967DS5E

通称「エスゴ」

車名からYが取れた四代目モデルで、アルミシリンダーのポート数を5に増やし29.5馬力に大幅パワーアップ。上の写真は翌1968年のタッカーロールシートと大型ウィンカーを採用したモデル。

厳密に言うとYDS5Eが正式名称で、Eというのはセル付きの意味。ちなみにナンバリングが4を飛ばして5になっているのは4が不吉な数字だったから。

DS6(246) -Since1969-

1969ds6

通称「エスロク」

容量11Lのスリムティアドロップタンクが特徴的なYDS系の国内最終モデル。メーターとヘッドライトを分離し、クランクケースカバーもバフがけする等、質感を大きく向上させました。

セルを取り払い、アップタイプマフラーを採用しスクランブラースタイルのCタイプもありました。

主要諸元
全長/幅/高 150:1980/615/950mm
152:1980/615/935mm
156:1975/780/1050mm
169:1990/770/1050mm
246:1990/835/1065mm
シート高
車軸距離 150:1285mm
152:1290mm
156:1295mm
169:1290mm
246:1290
車体重量 150:138kg(乾)
152:156kg(乾)
156:159kg(乾)
169:143kg(乾)
246:150kg(乾)
燃料消費率 150:80.0km/L
152・156:40.0km/L
※定地走行テスト値
燃料容量 150・152:15.5L
156:14.0L
169:15.0L
246:11.0L
エンジン 空冷2サイクル二気筒
総排気量 246cc
最高出力 150:20.0ps/7500rpm
152:23.0ps/7500rpm
156:24.0ps/7500rpm
169:29.5ps/8000rpm
246:30.0pr/7500rpm
最高トルク 150:1.9kg-m/6000rpm
152:2.1kg-m/6000rpm
156:2.3kg-m/7500rpm
169:2.7kg-m/7500rpm
246:2.92kg-m/7000rpm
変速機 常時噛合式5速前進
タイヤサイズ 150:前3.00-18|後3.0-18
152:前2.75-18|後3.0-18
156・169・246:前3.00-18|後3.25-18
バッテリー 150・152:6-6
156:6-7.5
プラグ
※2つの場合は手前が、3つの場合は中央が標準熱価
150・152:B6-7H
156:14mm B7HZ
推奨オイル
オイル容量
※ゲージ確認を忘れずに
1.6L
スプロケ
チェーン 150:チエン3.36
152:チエン2.438
156:チエン2.563
車体価格 150:185,000円
152・156:187,000円
169:193,000円
246:187,000円
系譜図
YD1 1957年
YDシリーズ
YDS-1 1959年
250S/YDSシリーズ
dx250 1970年
DX250/PRO
(280/352)
RD250 1973年
RD250
(361~3N4)
4L3 1980年
RZ250/R/RR
(4L3/29L/1AR/1XG/3HM/51L)
1KT 1985年
TZR250
(1KT/2XT)
3MA 1989年
TZR250/SP
(3MA)
R1-Z 1990年
R1-Z
(3XC)
3XV 1991年
TZR250R/SP/RS/SPR
(3XV)

YD-1 -since 1957-

YD-1

「ヤマハオリジナル250」

ヤマハ初となる2st二気筒エンジンを搭載したYD-1。

当時、富士登山レースや浅間高原レースといった全国のバイク乗りがメーカーの技術力を図る一種のベンチマークになっていた正式名称『全日本オートバイ耐久ロードレース』において、YA-1(通称赤トンボ)優勝の勢いそのままに出した250ccモデルになります。

なぜ250ccだったのかというとレースが下記のようなクラス分けで行われていたから。

・ウルトラライト級(125cc)
・ライト級(250cc)
・ジュニア級(350cc)
・セニア級(500cc)

YA-1でウルトラライト級を制覇したヤマハとしては当然ながら

「次はライト級(250cc)だ」

というのが自然な流れで、それを見越して開発された250cc市販車がこのYD-1という話なのですが、YA-1がDKWのRT125を参考にしたのに対し、YD-1は同じくドイツメーカーのADLER社のMB250を参考に開発されました。

1954MB250

聞き馴染みが無いメーカーだと思うので少しだけ説明すると、元々はドイツの自転車屋さん。1901年にバイク製造に成功したことを皮切りに優れた技術力を武器に自動車にまで事業を拡大し、1914年にはドイツの乗用車シェアの20%を獲得するほどでしたが、ドイツだったので戦後賠償とゴタゴタにより1950年代後半に倒産しました。

だからこそヤマハというか当時の社長だった川上氏はその中でも傑作と称されていたMB250を参考にした250を開発するよう指示を出したわけですが・・・

1954MB250と1957YD-1

出来上がったYD-1を見ると似てない。

これにはYD-1の1年前にあたる1953年に開発されたYC-1(YA-1の174cc版)が関係しています。ちなみにAだのCだのDだの言われて混乱している人も多いかと思うので補足すると、当時のヤマハの社名はアルファベットで排気量と世代を表すスタイル。

A→125cc
C→175cc
D→250cc

という感じで、YA-1はYAMAHAの125ccの一号機だからYA-1、YC-1は175ccの一号機だからYC-1という感じです。

そんなYC-1もYA-1に習ってDKWの175を参考に製作されたのですが、デザインに関しては自由が与えられました。

DKW175とYC-1

そのため完成したYC-1はオリジナルであるDKW175に通ずる部分は多いものの、より流線的なデザインとなっており、更には車体色も赤とグレーのツートンボディというオシャレさでした。

これはGK(Group Koike)のドンである東京芸大の小池岩太郎氏が

「車体色はシャンゼリゼ通りの濡れた舗道にしよう」

と発した事が発端だったのですが・・・

シャンゼリゼ通り

GKグループメンバーは貧乏学生の集まりだったので、パリなんて行ったことがなかった。

そのため完全な妄想というかイマジネーションを膨らませた結果こうなった。

参照:日々、思うこと|GKデザイン

YC-1カタログ

そうして完成したYC-1は非常にオシャレだと評判をよび、商業的に成功を収めました。

話を本題のYD-1に戻すと、YC-1の成功があったからこそYD-1もMB250を参考にした180度クランク並列二気筒2stエンジンを積んでいるものの、比較的自由が与えられた事で

「バイクは軽くて小さくてパワフルでスポーティであるべきだ」

という考えの元、車体をコンパクトにする独自の意匠を込めようとなったわけですが、そうして車体が完成仕掛けた頃に問題が発生。車体をコンパクトにし過ぎたため、当初想定していたタンク容量15Lが確保出来なくなってしまった。

しかし車体を引き伸ばす事も容量を削ることも絶対にしたくない・・・そこで考えたのがタンクを上に盛ることでした。

YD-1のアイコンであり後に「文福茶釜」または「鉄かぶと」と呼ばれるようになったこの盛り上がったユニークなタンク形状は、そんな問題を解決しつつデザイン性を損なわないようにした結果に生まれた完全オリジナルな意匠なんです。

YD-1がヤマハオリジナルと言われているのはこういった背景が由来で、のちに

「インダストリアルデザイン(工業意匠)を取り入れた初めての国産バイク」

とも称されました。つまりデザインのヤマハの始まりのモデルでもあるんですね。

YDのモデルチェンジ概要

YD-2(146) -Since1959-

YDII

パイプレームから鋼板プレスのフレームとなり、エンジン出力は変わらないものの設計が見直され整備性が向上したモデル。

次に紹介するスポーツタイプが登場した事もあり、新たにセルモーターを標準装備するなどビジネスにおける利便性を向上させつつ、あえてリアキャリアを付けないなどスポーティさとの両立を図ったモデル。

2万円ほど値下げしたこともあり

「スポーツビジネスバイク」

として人気を博しました。

YD-3(148) -Since1961-

更に二年後となる1961年には3型へとモデルチェンジ。

文福茶釜で親しまれていたタンク形状を見直し、ハンドルもアップタイプへ変更してさらに利便性を向上。とは言いつつも加熱化していた二気筒市場に対応するためデュアルキャブレター化により馬力が2.5馬力UPの17馬力に。

他にもタンデムシートがセパレートタイプになり、ホワイトリボンタイヤを装着するなど当時の最先端トレンドを抑えたオシャレに変貌しました。

余談ですが最後にYD-1のチラシをご紹介。

梁瀬自動車株式会社という名前が入っているのが分かるかと。

そう・・外車の取り扱いで有名なあのヤナセ。当時はヤマハのバイクも売っていたんですね。

主要諸元
全長/幅/高 YD1:1935/705/935mm
146:1900/740/955mm
148:
シート高
車軸距離 YD1・146:1270mm
車体重量 YD1:140kg(乾)
146:147kg(乾)
燃料消費率
燃料容量 YD1:15L
146:14.5L
エンジン 空冷2サイクル二気筒
総排気量 247cc
最高出力 YD1・146:14.5ps/6000rpm
最高トルク YD1・146:1.9kg-m/4000rpm
変速機 YD1・146:常時噛合式4速
タイヤサイズ YD1・146:前後3.25-16
バッテリー YD1・146:6-6×2
プラグ
※2つの場合は手前が、3つの場合は中央が標準熱価
YD1・146:14mm B6
推奨オイル
オイル容量
※ゲージ確認を忘れずに
スプロケ
チェーン YD1・146:チエン2.21
車体価格YD YD1:185,000円
146:168,000円
系譜図
YD1 1957年
YDシリーズ
YDS-1 1959年
250S/YDSシリーズ
dx250 1970年
DX250/PRO
(280/352)
RD250 1973年
RD250
(361~3N4)
4L3 1980年
RZ250/R/RR
(4L3/29L/1AR/1XG/3HM/51L)
1KT 1985年
TZR250
(1KT/2XT)
3MA 1989年
TZR250/SP
(3MA)
R1-Z 1990年
R1-Z
(3XC)
3XV 1991年
TZR250R/SP/RS/SPR
(3XV)

メグロ ジュニアシリーズ -since 1950-

メグロジュニアS3

日本車初となる250ccのオートバイだったのがメグロのジュニアシリーズ。

リジッドのJから始まり、J2、S1~8/SGと続いた目黒製作所にとって500に次ぐ成功を収めたモデル。今でこそ250と言えばエントリークラスや小排気量クラスと言われるけど当時は250でも十分に大排気量のビッグバイクでした。ちなみに上の写真はジュニアシリーズの中でも人気が高かった1956年からのS3モデル。三年間で販売台数3万台を記録するベストセラーモデルでした。

kawasaki

そんな目黒製作所だったのですが、ホンダやヤマハやスズキなどの新興メーカーの快進撃により経営が傾き、ビッグバイクのノウハウを欲しがっていたカワサキに買収され傘下となったわけです。

しかしカワサキもこの250シリーズは大事に思っていたようで、最後にメグロと名前を付けられたバイクもこの250SGでした。見て分かる通りエストレヤのデザインベースですね。

更に少しメグロジュニアの話をすると、ジュニアSシリーズの中でも特にSGTと呼ばれるモデルはクラシカル路線だったメグロらしからぬスポーツルックモデルでした。

メグロ250SGT

どうしてそれまでのクラシックスタイルを捨て、スポーツモデルにしたというとコレもホンダを始めとした後発メーカーがスポーツモデルを打ち出しヒットしていたからです。

カワサキもメグロもあの手この手で色々やったんだけど結局人気が回復することはなく、カワサキに完全に吸収される形で名前も無くなりました。

まあライバルに比べ価格が高かったってのも大きかったかな。

主要諸元
全長/幅/高 2115/880/1035mm
シート高
車軸距離 1380mm
車体重量 182kg(乾)
燃料消費率 52.0km/L
※定地走行テスト値
燃料容量
エンジン 空冷4サイクルOHV単気筒
総排気量 248cc
最高出力 12.5ps/5400rpm
最高トルク 1.85kg-m/4000rpm
変速機 4段変速
タイヤサイズ 前3.00-18
後3.25-18
バッテリー
プラグ
※2つの場合は手前が、3つの場合は中央が標準熱価
推奨オイル
オイル容量
※ゲージ確認を忘れずに
スプロケ
チェーン
車体価格
※スペックはジュニアS8
系譜図
BJ250B1950年
メグロ ジュニアシリーズ
BJ250B1992年
ESTRELLA
(BJ250B)
BJ250C1995年
ESTRELLA
CUSTOM/RS CUSTOM
(BJ250C/D/E/G/H)
BJ250F2002年
250TR
(BJ250F)
BJ250K2007年
250TR
(BJ250K)
BJ250J2007年
ESTRELLA
(BJ250J)
BJ250L2014年
ESTRELLA
(BJ250L)

スーパーカブ-since 1958-

SUPERCUB C100

「ホンダが送る豪華版 スーパーカブ号」

今や世界160ヶ国以上で販売され総生産台数一億台を超えた名車スーパーカブの初代であるC100型。

スーパーカブC100

先に紹介したカブF号で成功を収めていたホンダだったんだけど、バイク戦国時代ということで他メーカーに追従されジリ貧状態でした。

そんな中で本田宗一郎はスバルのラビットや三菱のシルバーピジョンといった当時としては高級な乗り物だったスクーターを売ろうとジュノオK型を発売。

ジュノオK

しかしこれがオーバーヒートを起こすなどお世辞にも完成度が高いバイクとは言えず、わずか1年半で生産終了に。

リベンジを誓っていた本田宗一郎だったんですが、そんなある中で通産省後援による海外視察に行こうと専務(後の副社長)である藤沢さんが本田宗一郎を連れてヨーロッパへ。

ジュノオK

そこで見たものは日本でいうところの原付が生活の足、コミューターとして根付いていた事。

本田宗一郎と藤沢武夫はそれを見てもっと庶民に親しまれるバイクを作らないといけないという結論に。

ちなみに参考にしようとバラして持ち帰ろうとした所、重量オーバーだと空港で止められた際に

「俺が重量オーバーならあの太った人はいいのか」

と言って事なきを得たのは有名ですね。

あとマン島TT参戦を決めたのもこの遠征がキッカケです。

会社が傾いていた上に何のノウハウも無かった中で、世界GPに打って出るというのはあまりにも無謀だと言われていました。

マン島レーサー

しかし終わってみたら前人未到の全クラス制覇。ホンダの名を世界に轟かせる事になったわけですが。

話をカブに戻します。

ヨーロッパから帰ってきて本田宗一郎はすぐに次世代のモペット開発計画

「マルMプロジェクト」

を立ち上げました。

本田宗一郎

欧州のように庶民の足として根付く日本のコミューターとして導き出した答えが

「そば屋が片手で運転できるバイク」

でした。

スーパーカブといえば代表的なのは遠心クラッチ開発によるクラッチレス化が有名ですが、開発において他にも大変だったのがエンジン。

本田宗一郎は元々2st嫌いなのでカブは4stで行くと決まったわけですが、2stのA型ですら1馬力だった中で”4馬力”というあり得ないほどの高い馬力目標を掲げました。

これはまだまだ未舗装路の多い日本ではパワーが無いと荷物を載せて走れないという考えから。

このエンジンを任されたのはF号に続き星野さんだったんですが、来る日も来る日も燃焼室の設計を見直す毎日。

C100エンジン

そんな中でも面白いのが

「バルブを大きくするしか道はない」

という事でNGKに当時14mmが当たり前だったネジ径に対し、10mm径の特注プラグを特別に用立ててもらった事。

1958年のチラシ

これによってバルブ径を大きく取ることができ、4.5馬力を発揮するエンジンがなんとか完成。

このように一番初めのスーパーカブであるC100というのは特注部品のオンパレードでした。

スーパーカブC100

馬力だけでなく走破性を上げるために採用した17インチという大径のリムとタイヤもそうですし、泥除けのプラスチックカバーもそう。

コミューターにあるまじきスペックと専用装備を誇っていた。

そのためC100は当時5万5000円と他所よりも3割近く高い車体価格・・・と言ってもこれだけスペシャルパーツを奢っているので普通に売っても採算が取れない。

しかし影の本田宗一郎こと藤沢さんには考えがありました。

C100カタログ

全メーカーの総生産台数が3万台強の時代に

「月3万台売れば量販効果で元が取れる」

として強気な投資/生産を決定。お互いのやることに口出ししないという約束通り本田宗一郎も全幅の信頼を置いていたので何も言わず。

スーパーカブC100

実際どうだったのかというと、初年度こそ目標には届かなかったものの

「速くて燃費が良くて壊れない」

という口コミ、そして鉄の塊のようなバイクしか無かった時代だったので

「スタイリッシュでカッコいい」

という評判もあり二年目には月産3万台という目標を見事に達成。

とにかく造れば造るだけ売れる状況で、完成待ちの卸売業者が工場の外で待機するほど。

そして遂にはスーパーカブ専用の工場まで設立。

鈴鹿製作所

いまホンダのNシリーズ等の軽やFITなどを作っているこの鈴鹿製作所はもともとスーパーカブを造るため、スーパーカブによって建てられた工場だったんですよ。

その鈴鹿製作所が出来てからは月産5万台を超えるほどのペースに。

C100はあまりの売れっぷりから時期によって形や色が少し違うモデルがいくつもあります。

C100のバージョン違い

これが何故かいうと部品メーカーの供給が追いつかなくなったから。

一社のみの供給では間に合わなくなり、色んなメーカーから掻き集める様な形になったんです。

C100のチラシ

当時のチラシでも追いついていないのが分かりますね。

このC100の登場と、強気な戦略のおかげでホンダはバイク業界の盟主として圧倒的な地位を築きました。

そしてスーパーカブは日本だけでなくアメリカでも成功を収めています。

CA100

これはC100の三年後にあたる1962年にアメリカ向けに作った赤いボディとダブルシートが特徴的なCA100。

それまでバイクと言えばハーレーなどの娯楽的なものという文化だったアメリカにおいて、実用バイクという新しい風を吹き込むことに成功。

C105H

1963年に出たスクランブラースタイルのハンターカブC105Hと共にホンダのアメリカ市場の足がかりとなりました。

ちなみにこのスクランブラースタイルのハンターカブは後に日本でも短期間ながら発売される事となります。

このようにスーパーカブというと色んな派生モデルがあり、アジアのウェイブやアストラなどまで挙げだすとキリがないので基本的に国内向けのモデルに絞って紹介していきたいと思います。

ではC100にはどんな派生モデルがあったのかというと・・・

C102型

二年後1960年には要望の多かったセルモーター付きのC102(写真上)と、若者向けに5馬力までチューニングしたエンジンとスポーティなボディのスポーツカブC110(写真下)を発売。

スポーツカブC110

ちなみにこのスポーツカブをベースにしたレースマシンがCR110で、少し前にDream50として復活しました。>>Dream50の系譜|系譜の外側

まだあります。

翌1961年には免許改定に合わせ二人乗り出来るように54cc化して原付二種となったC105とセル付きのCD105、更に1963年にはもっとパワーが欲しいという声に答えて90ccの上位モデルCM90を発売。

CM90

ちなみにこれが皆さんよく知るカブ90の初代モデルなんですが、実はスーパーカブ90は系譜的に言うとスーパーカブC100とは縁もゆかりもないモデル。

というのもこのCM90はC100系とは違いベンリィCD90のエンジンをC100よりも大型なボディに積んだ物。つまり中も外もスーパーカブとは違うモデルなんです。

CM90については後述するとしてC100に話を戻すと、1962年にはギアを一つ減らしウィンカーやブレーキランプを取っ払った廉価版ポートカブC240を発売。

ポートカブ

ポートは文字通り港という意味で、世界中の港で見るように(世界中で売れるように)という意味が込められています。

一応C100の派生カブと呼ばれるのはこれだけ。

最後に初代スーパーカブC100のデザインをされた木村さんが当時を振り返ってこう言われていました。

木村讓三郎さん

「簡単に決まったのは車名だけだった」

デザイン、遠心クラッチ、耐久性、高馬力、低燃費。

スーパーカブC100が空前の大ヒットとなったのは、ホンダ技術者たちの苦労の連続があったからこそという事ですね。

主要諸元
全長/幅/高 1780/575/945mm
シート高
車軸距離 1180mm
車体重量 55kg(乾)
[53kg(乾)]
燃料消費率 90.0km/L
[100km/L]
燃料容量 3L
エンジン 空冷4ストロークOHV単気筒
総排気量 49cc
最高出力 4.5ps/9500rpm
最高トルク 0.34kgf-m/8000rpm
変速機 常時噛合式三速
[常時噛合式二速]
タイヤサイズ 前2.25-17-4PR
後2.25-17-4PR
バッテリー 6N2-2A-7
プラグ
※2つの場合は手前が、3つの場合は中央が標準熱価
C7H
推奨オイル ホンダウルトラ
夏季#30
冬季#20W,#10W
オイル容量
※ゲージ確認を忘れずに
全容量0.6L
スプロケ
チェーン
車体価格 55,000円
[43,000円]
※スペックはC100
※[]内はポートカブ(C240)
系譜図
カブ号F型1952年
Cub F号
初代C1001958年~
SuperCub
C100
1964年式1966年~
SuperCub
C50/65/70/90
1971年式~1971年~
SuperCub
C50/70/90
1980年式~1980年~
SuperCub
50/70/90
2000年式1997年~
SuperCub
50/90
2008年式2008年~
SuperCub
(AA01/JA07)
2012年式50/1102012年~
SuperCub
(AA04/JA10)
2017年式50/1102017年~
SuperCub
(AA09/JA44)

カブ号F号-since 1952-

カブF型

「白いタンクに赤いエンジン」

一番初めにCUBという名が付けられたカブF号。

当時は自転車に後からエンジンを組み込むのがメジャー、敗戦で麻痺した状況においてバイクといえばこれ。

ちなみにカブという名前の由来というか意味は

「クマやライオンなど猛獣の子ども」

という英語から来ています。小さいけどパワフルという事をアピールするためこの名前に。

創業間もない1940年頃のホンダはまだ何社もいた弱小アセンブリーメーカー(組立屋)の内の一つで、エンジンは旧日本軍の払い下げ品である無線機用発電エンジンを三國商店(現ミクニ)から買って改造し売る程度の規模。

バタバタ

これがその横流し品でホンダが一番最初に作った通称バタバタ。

しかし高まる需要に対しミクニからの供給は他社との争奪戦。

「こうなったらエンジンを一から自分達で作ろう」

となったのがホンダの始まり。

エンジンを作ったり売ったりしている同業者は既に大量に居たんだけど、そんな中でホンダのカブ号F号が大ヒットとなったのはエンジンレイアウトにあります。

HONDA A型 このティアドロップタンクがカッコいいバイクはホンダ初の自社製エンジンを積んだA型なんですが、写真のように股下にエンジンがあるのが当たり前だった。ちなみにタンクを作ったのは遠州軽合金、ホイールで有名なエンケイの前身です。

しかし股下にあるとまだまだ精度が高くない2stエンジンだったのでオイルや煤が飛んで来て汚れるし、熱によって火傷を起こすのが当たり前だった。

F型

その問題を解決するために本田宗一郎はエンジンをリアタイヤの側に、そしてその上に燃料タンクを持ってくるという、アイデアでこれを打開。

汚れない&火傷しないという事から大好評で月産1万台という空前の大ヒット。

200社以上いたバイクメーカーの一つでしかなかったホンダが全国に名を広めたのはこのF号の功績。

カブモーター

同業他社からも

「ホンダに続くのはウチだと」

言われるようになりました。

主要諸元
全長/幅/高
シート高
車軸距離 1180mm
車体重量 6kg(エンジン単体)
燃料消費率
燃料容量 3.2L
エンジン 空冷2ストローク単気筒
総排気量 49.9cc
最高出力 1ps/3600rpm
最高トルク 0.33kgf-m/8000rpm
変速機 バリアブル一速
タイヤサイズ
バッテリー
プラグ
※2つの場合は手前が、3つの場合は中央が標準熱価
推奨オイル
オイル容量
※ゲージ確認を忘れずに
スプロケ
チェーン
車体価格 25,000円
※スペックはカブF号
系譜図
カブ号F型1952年
Cub F号
初代C1001958年~
SuperCub
C100
1964年式1966年~
SuperCub
C50/65/70/90
1971年式~1971年~
SuperCub
C50/70/90
1980年式~1980年~
SuperCub
50/70/90
2000年式1997年~
SuperCub
50/90
2008年式2008年~
SuperCub
(AA01/JA07)
2012年式50/1102012年~
SuperCub
(AA04/JA10)
2017年式50/1102017年~
SuperCub
(AA09/JA44)